東祖谷と三嶺・探訪絵日記その5
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何に使う道具なのかよくわからない。糸巻きのようなので機織り具なのか?
干し柿で軒先に吊されていた。祖谷の大気が柿に甘みを与えてくれるのだろう。
囲炉裏端。
山村こそ気配りが必要。決して単純でない毎日に彩りを飾るから人生なのかも。

新日本紀行と川少年

 子どもの頃は川が好きな少年だった。川の地図を見てはどんな流れなのか思いを馳せ、憧れがどうにも胸のなかで収まらなくなると自転車で出かけて行く。川幅はどれぐらいだろう、どんな風景なのだろう、水の色は? 水深は? どんな生き物がいるのだろう…。考えるだけでわくわくして眠れない。まさに川の申し子だった。こどもの頃から日本の川が好きだったぼくは、「四国の川と生きる」というWebサイトを後世に残しておこうと思う。

 小中学生の頃、もっとも好きな番組がNHKの地域の風土を伝えるドキュメンタリー番組「新日本紀行」だった。あの富田勲の音楽が鳴り出すと、身の毛がよだつほどの高揚感がからだに走った。ぼくは覚えていないが昭和40年に祖谷が紹介されたことがあった。折しも高度経済成長期、過酷な生活環境に次々と家族が山を降りていく。その傍らで秘境ブームでうち寄せる観光客の波がかずら橋を渡り、神代踊りを見物するという構図だったような気がする。

 昭和30〜40年代といえば、高度経済成長を支えるため、建築が盛んとなり、そのために木材需要を充たすべく拡大造林対策が取られていた。そのため、里山の象徴であった薪炭林が伐採されて杉の植林に置き換えられた。杉を植えると補助金があり、しかも商品木材としての価値が高いということで、杉が適さない山域まで人工林化が進んでいった。しかしまもなく輸入木材の解禁で国内林業は壊滅的な打撃を受けることになる。

 その頃の祖谷地方の暮らしを振り返ってみよう。

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