青森から遠野まで──日本の源流を訪ねる旅〜日本列島を這っていくからおもしろい

 自宅を七時半に出ると、徳島駅発八時ちょうどの高速バスにぎりぎり間にあった。高速バスは予定どおり九時五七分に新神戸駅着。ここから東海道新幹線で東京へ、さらに東北新幹線を乗り継いで盛岡へと進む。
 東京を出て大宮を一四時過ぎに通過。関東平野の真っ只中で山はまったく見えない。半時間後、田んぼが増え、森がところどころに見えてきた。都心に比べると一戸一戸の家が広く低い。

 一四時三三分、利根川を渡る。河原は広いが水量は吉野川よりずっと少ない。雨がやむ頃、平地の森を通過した。
 一四時四五分に宇都宮を通過。
 一五時三八分仙台着。駅周辺の土地が広いせいか、建物の構えが大きい。東京とどちらが大都市なのかわからない。
 一六時二分に一関を通過すると北上川が見えてきた。川が好きなので橋を渡るときはどきどきする。特に吉野川大橋を渡るときは、食い入るように見つめていた(これが川なのか…)。

 北上川の水量は利根川より多いが河原は少ない。岸辺には草木が茂り、褐色の水が流れている。増水しているのかもしれない。
 東北新幹線の終点盛岡で青森行きの特急はつかりに乗り換える。予定より一便遅らせて盛岡を歩いてみることにした。駅案内所の女の子に盛岡名物を聞いてみたら、「冷麺です」と言う。「わんこそばは?」と聞くと、「それなら駅前の二階の東屋がおすすめです」と答える。


岩手美人はそばが好き

 東屋で「時間が一〇分ぐらいしかない」というと、もりそば(五八〇円)が運ばれてきた。穀物風味でさらっとしている祖谷そばとは違い、水気の多いしっとりした麺である。ただし、もりそばの麺は手打ち、わんこそばは機械打ちだという。
 遠方の旅行者だとわかったのか、おかみさんがそばの観光パンフレットを机に置いていく。女の子に勘定を払いながら「そばはビタミンやミネラル、食物繊維が豊富だと聞いていますが、こちらの人の肌がきれいなのはそのためですね」と顔を見つめて言った。ほんとうにきれいだ。彼女はそっと店を出て見送ってくれた。
 盛岡と青森を結ぶ特急はつかりは、青森の天気予報で「三八上北」と呼ばれる県東部を走っていく(下北に対し上北。それに三沢と八戸を合わせた名称)。四国を出たときは雨だったが、日本列島の北のはずれでは西日が射した。しかしすぐに夕闇に閉ざされ、荒涼とした風景が続く。

 青森駅に二〇時に到着。JRバスの発着場所と時刻を確認していると、五月の土砂災害で奥入瀬渓流が通行できず、再開は三日後だという。翌日は十和田湖畔の宿を予約している。奥入瀬が通れないとなればどうすべきか。
 何が起こってもそれを受け入れることが一人旅である。それでも一人旅はやめられない。日々の暮らしもまた旅であり、自分の意思で生きていくことの快感は何物にも代えがたい。「明日死んでも思い残すことはない」という自然体で生きていきたい。
 駅から一〇分程のビルの5階にあるホテルのツインに泊まった(ツインにシングル料金で入れた。五、八〇〇円食事なし)。とりわけきれいな設備ではないが、一晩寝るのに十分だ。ただしフロントが奥入瀬通行止めについてほとんど知らなかったこと、シャワーが排水しないのには閉口した。

 三内丸山は世界の五代文明? 土偶がバスを忘れさせる

 青森駅で朝食を取り、八時一五分の三内丸山遺跡行きに乗って半時間で着いた。
 五千年の昔、この地は温暖で、集落のすぐそばまで海が迫っており、タイやヒラメなど豊穣な海の幸を得ていた。食料の安定的確保によって定住生活が始まったのだろうが、大量に出土する栗の種子は意外にも人工栽培されたものだった。

 青森県は、ここに野球場計画を進めてきた。しかし紆余曲折の末、計画を撤回し、遺跡として保存活用することにした。
 発掘が進むにつれ、そのスケールの大きさ、歴史的な意義がわかってきた。ここは五五〇〇年前から一五〇〇年続いた集落跡で、六〇〇棟の竪穴住居、十棟の大型竪穴住居、二百基の大人の墓、八八〇基の子どもの墓、多量の遺物が廃棄された谷と盛土があり、おびただしい土器、石器が発見された。さらにこの地には存在しないコハクやヒスイが出土した。

 つまり三内丸山人は海を渡って交易していたのである。最近のDNA鑑定によれば、ペルーのインディオと五千年前の青森付近の縄文人がほぼ合致する。手漕ぎのカヌーで海を渡っていった三内丸山人の子孫がインディオかもしれない。こうして狩猟採取による移動生活という縄文時代のイメージは覆されたのである。
 遺跡は発掘後、保存のため再び埋め戻された。広大な遺跡の調査は続けられており、発掘現場は公開されている。
 三内丸山は縄文の呪縛を伸びやかに解き放ちながら、世界四大文明を塗り替えようとしている。
 
都市計画と親の嘆き

 三内丸山は縄文の都市計画である。それがうまく機能していることは、この集落が千五百年続いたことでわかる。敷地内に入ると、太陽に向かってそびえたつ巨木の柱が目につく。何のためにつくられたものかは諸説あるが、復元されたものよりも実物はさらに大きかったらしい。柱の間隔が四・二メートルと一定であることから長さの単位があったことがわかる。柱の両端は、腐食防止のために焦がしてある。

 当時この辺りの人の体躯は、成人男子で平均一五七センチと小柄であった。平均寿命は三〇歳前後だったから三世代同居は難しかっただろう。大人のお墓は住居から遠い東の地に営まれたのに対し、子どものお墓は集落の近くにある。墓に残された瓶の大きさからすれば、生後数日から数カ月の乳児である。この世を知らずに他界した幼い魂は、親の目の届くところに置かれたのだ。


ルーブル美術館は要らない

 三内丸山では、希望者にボランティアガイドが付く。ぼくには髪の長い美人が付き添ってくれた。
 彼女は終始にこやかで、プロの観光ガイドのように先を急がせない(一時間毎に四十分程度の説明をしているのだから実際は大変だ)。観光客の質問の傾向も知ったうえで物語を淡々と話す。彼女には教え込もうとする態度はまるで感じられない。それなのについ聞き入ってしまう。こうして縄文の暮らし、青森の風土、彼女個人の資質が渾然一体となって見知らぬ訪問者の共感を誘う。

 人が語らなければ、ここは単なる復刻現場に過ぎない。彼女のような「翻訳者」は、対象物と訪問者が共鳴できるよう舞台を整え、あとは個々人の共感の深さに任せる。こうして、人と人、人と遺跡をつないでいく。
 

 屋内の展示室に入ると、おびただしい数の土器や土偶、食料となった動物の骨が並べられている。ヒトの骨は跡形もないのに動物の骨は残っている。その理由は、ヒトが埋葬されたのは酸性度の高い土であったのに対し、ケモノの骨を捨てた場所は保存に適した泥炭地の谷だからである。

 土偶が空間に磔にされている展示法にはびっくりさせられる。平面に無造作に並べられているのもある。土偶は板状のヤッコダコのようなカタチであるが、その一つひとつの表情がまったく違う。抽象でも具象でもなく、造形に気を配ったり構えたような気負いはまったくない。土偶の集団が不協和音のようにうなり声を上げる。土偶の集合体に意識を持っていかれるが、いつのまにか一つひとつの土偶に引き寄せられる。口を大きく開けたムンクの叫びやウルトラマンそっくりなのもある。何だこれは!
 
 土偶を睨み返しているうちにバスが出てしまった。これを見たあとでは、ルーブル美術館や京都の寺は焼けてしまってもいい、とさえ思える。
(雪舟やモナリザが五千年後の人の心を打つか?)
 戯れにつくった土偶が五千年の時空を越えて生命力を放射している。こんなものが観光地に並べられているのだから恐ろしい。


 土着の民は久遠の空に想いをはせ

 日本の伝統芸能である能や歌舞伎、浮世絵、水墨画、短歌は、もともとは自由な感情の発露であったはず。それが、いつのまにか「家元」の権威付けのために形式化され様式化され職業化されて日々の暮らしからかけ離れたものとなった。墨絵のようにくすんだわび、さびの思想は、職業的分化と無縁ではない。いったい芸術と経済と生活と政治を区別する必要はあるのだろうか。

 三内丸山は、賢治や啄木の青白きインテリが歪めてしまった東北の「純朴で繊細な」霧をさっと払いのけ、伝統文化を装った偽物が音を立て崩れていく。いきなり日本の源流が飛び込んできた。

 蝦夷の末裔でありながら、蝦夷にも朝廷にも与しなかった奥州藤原氏の野望。それは織田信長、徳川家康などの戦術家の描く天下統一とは次元が違うような気がする。藤原秀衡は、京から遠く離れた奥州の地で黄昏の空を見つめていた。得体のしれない巨きさを感じながら…。秀衡が見たのはこの空の下に横たわる日本の国土だったのか、それとも悠久の時間だったのか。
 義経を匿ったことを口実に源頼朝は大軍を率いて平泉を攻め、迎え撃った藤原泰衡の軍勢は全滅、兵どもは夢のあととなった。
 アイヌ、蝦夷、奥州藤原氏──途切れそうで途切れないその糸は三内丸山を源流とする一本の系譜につながっていくような気がする。

 自然とのつながりが濃厚で、広く交易を興した人たちが北方で根を張った力強い暮らし。それは、弥生から大和、やがては東京へと連なる豊葦原瑞穂の国で展開された文化に対し、絢爛豪華で根っこが太く、喜怒哀楽が生のまま閉じ込められている。
 久遠の空に想いを馳せた縄文の息吹──。


下北がいいだべ

 土偶とにらめっこをしていたら、数少ないバスが出てしまった。青森発一一時の十和田湖行きへ乗るためにタクシーを拾う。二〇分の車中で運転手との会話が弾む。津軽弁(といってもわかるように話してくれる)で運ちゃんはこういう。
「白神が騒がれでるけど、下北がいいだべ。白神はブナが黄色くなるだげだけど、下北の秋は赤や黄色に染まる。自然がそれだけ濃厚ですよ」「青森は魚がいい。駅の右側にある魚市場で食べてみてくださいよ。一品でも注文できますから」。
 接客サービスと観光情報代金込みで一、八六〇円也であった。


主人は川島の出身です

 災害復旧工事の間、バスは奥入瀬渓流をバイパスで迂回するが、その出入口は通ることがわかった。
(よし、奥入瀬渓流を歩こう)
 青森側の焼山から十和田湖の子の口まで五時間で歩ける。しかし今回は時間の関係で子の口付近のみを散策することにした。
 座席に座ろうとすると、隣でおばさん二人が「こっち側がブナが見えていいわよ」と、どの席に座るか言い合っている。ぼくは「そっちが眺めがいいんですか」と話に割り込んでいく。世間話をするうちに、温泉が目当てで青森を何度か訪れたことのある京都の人だとわかった。

 おばさん曰く「昨日は怖れもなく恐山に行って温泉だけ浸かってきたけどよかったわ。ほんとうは体を清めて恐山に登るらしいんやけど、私たちはいい湯に浸って帰ってきたのよ。罰当たりかしら。下北ってほんとうにいいところね」「ドラマのように時雨が吹いて風車がカラカラ音を立てて……だったら雰囲気あったのにね」などとはしゃいでいる。鬼の居ぬ間のおばさん二人温泉旅なのである。
 徳島から来たというと、「実は主人の実家が川島町(徳島県)なのよ」と一人のおばさん。津軽に来て、バスの後ろで関西弁の三人が大声で盛り上がっている。


おおらかな千人風呂

 八甲田山麓には沼や湿原が点在し、それらを包み込む森がはるか十和田湖まで樹海となっている。車窓からも、森を百メートル入れば俗界と隔絶されることが実感できる。
 路線バスは何カ所かで観光客のため五分程度休憩する。
 「萱野茶屋」では、一杯飲むと三年長生きするという茶がふるまわれた。八甲田山を過ぎれば珍しい温泉が次々と姿を表す。

 酸ケ湯温泉は、一晩浸かると皮膚が溶けるという酸の強い白濁した湯である。湯治場には長期滞在者のために自炊施設が併設されている。ここの名物は木造りの大きな建物のなかにある男女混浴の千人風呂。おおらかな湯である。
 ぼくは混浴風呂には入った経験がない。教師をしている知人の女性たちはかつてこの湯に挑んだが、コンタクトが曇って視界が見えないのを幸い(?)に、「頭隠して○○隠さず」のすっぽんぽんで入ったそうだ。

 ──湯煙に浮かび上がる娘の白い肌。束ねた髪、細い首筋、つんと揺れる乳房、豊満な肢体……。視線に気づいた女に無言の合図を送る。それから半時間後、湯にほてったからだを癒すために宿の一室で見知らぬ女と抱き合う。蒸気が吹き出すように女の口許から吐息がこぼれ、女は畳に爪を立てた──。
 想像力と創造力が「オートマチック」に作動してときめいたが、どうせ婆さんばっかりだろうと止めた。次のバスまで二時間待たなければならないこともあった。そこで次の蔦温泉で降りることにした。


瑠璃色の「赤沼」とは?

 蔦温泉の周辺には七つの沼がある。そのなかの一つ「赤沼」へ行ってみたいと思った。
 大正時代に赤沼を調査研究した湖沼学者吉村信吉は、「水の色がもっとも青く世界一美しい」と学会に発表した。昭和五四年の環境庁の調査では国内第三位、本州でもっとも透明度の高い湖沼で深さ十八メートルまで見通せるといわれている。

 蔦温泉で荷物を預け、傘を借りた。歩いて二〇分ほど青森側に上がってトンネルの手前で左に入る小路があった。「赤沼」という標識はないが、ここだろうと見当を付ける。ブナ原生林を半時間ほど歩くとふいに山の割れ目に水面が見えた。
 静かだ。沼の向こうで流れ込む滝の音がかすかに響いている。湖底には沈んだ流木が横たわり、波ひとつない沼に奇妙な鳴き声がこだまする。いつのまにか小雨はやみ、日の光が山間の凹地にさっと下りてきた。
 三〇分、一時間……。瑠璃色の水をたたえた静寂境に佇んでいる。


木の香がヒトを眠らせる温泉

 七沼のひとつ蔦沼を訪れたが、赤沼の後では大したことはなかった。
 蔦温泉に入ろうとすると、京都のおばさん二人連れにばったり出くわした。「住まば日の本、遊べば奥入瀬…」。大町桂月はここに滞在して原稿を書いた。
「今日はここで泊まることにしたのよ」(1泊1万円)
 酸ケ湯は何度も行っているが、あまりにも湯治場的でこっちのほうが落ちついて好きだという。「赤沼はよかったですよ」「蔦沼よりも?」「比べられませんね。ぜひ行ってください」とけしかけておいた。

 古い湯と新しい湯があるが、まず古い湯に入った(入湯料四二〇円)。
 ブナの浴槽の下からこんこんと無色透明の湯がわきあがる。源泉がちょうどこの下にあるらしい。誰もいない。板にねっ転がってみる。お湯があふれだしてブナの板の上をすべっていき、背中をひたひたと撫でていく。この温もりで眠りたい。
 新しい湯では、一人の男が微動だにせず浴槽の傍らで寝そべっている。こちらはブナの香がいっそう濃い。
 水音がブナ材に当たる。その瞬間、「ポツン」という打音に、「ツゥン」という糸のような短い残響を引く。水と木のほの暗い共鳴箱に身体を預けると、無意識界への入口がぽっかり口を開けている。

 四国には、細やかな気配りの若夫婦がひっそりと営んでいるヒノキ風呂の温泉がある。徳島市からは約四時間、高知市からでも二時間以上はかかる四国山地の奥深く山懐に抱かれている。


 飼い馴らされた渓流

 奥入瀬の十和田湖側の入口、子の口で降りる。次のバスまで一時間、夕涼みがてら奥入瀬を散策する。
 十和田湖には水門があるため奥入瀬渓流の水量は一定している。そのため水際まで植物が生えており、道路と散策路が水辺にある。
 もし晴天の観光地と曇天の観光地があるとしたら、ここは晴天の観光地である。たまたま曇っていたせいか、夕方六時頃だったせいか、それとも道路が封鎖されていたせいか、人にはそれほど会わなかった。
 人は溢れても水は溢れることはない奥入瀬。飼い馴らされた庭園の流れもいいが、四国にはもっと清冽で透明で野性的でしかも人々の生活が濃い川がある。


 ホテルの皮をかぶったユースホステル

 博物館ユースホステルは、バスターミナルのある十和田湖駅のすぐそばの十和田湖グランドホテル内にある。ホテルとまったく同じ食事、施設を使いながら、ユースホステルの会員は一泊二食で五二〇〇円で利用できる。この日の利用者は、台湾人の母とその息子とぼくの三人である。

 母親は日本人であるが、台湾に渡って二十年を越える。息子は日本語がまったくできないが、母親が日本語で話しかけるとうなずく。短い会話は理解できるのだろう。母親は英語が理解できるが話せない。「一九九七年に香港が中国に返還されてから、多数の人が資産を抱えてカナダのバンクーバなどに渡ったと聞いているが、実際の生活はどのように変わったか」と息子に英語で聞いてみたが、わからないようだった。
 母親は秋田の秘湯に行きたいが、息子は温泉にまるで興味がない。そこで仕方なく明日は会津若松にラーメンを食べに行くという。

 ここの食事はよかった。夕食は、十和田湖産ヒメマスの刺し身にきりたんぽ鍋。ひたすら満足。
 朝食のみそ汁はきのこや漬物。これが絶品。こんなにうまいみそ汁は滅多に食えない。出汁は化学調味料ではなく昆布と鰹節。さっぱりと薄味でありながら口のなかに幸福感が残る。近所の山で採れたきのこ(名前を忘れてしまった)の風味が漂う。お碗をすすっていると、ああ、もう後がない。

 大きなホテルでこの味を維持するには、よほどしっかりしたオフクロの味の番人がいるはず。しかもこれは東北の一般的な家庭の味ではない。関西出身の一人のおばさんによってこの味が守られていると推測しているのだが…。山菜の漬物もうまい。

 東北は山菜の宝庫である。道端に直径五〇センチを越えるフキが密林のように生い茂る。八甲田・十和田樹海は果てしなく深い。山菜採りが遭難したり熊に襲われても不思議ではない。

 夏至の東北は四時過ぎから明るくなる。天気予報では雨であったが、果して本格的な雨となった。西日本では川が氾濫している地域もあるらしい。
 今日は盛岡でレンタカーを予約している。十和田湖からJR十和田南駅までバスで約一時間。途中で地元のじいさん、ばあさんがぞろぞろ乗り込んできた。歩くのに難儀しているような年寄りばかり。聞こえてくる会話は、「んだ、んだ」という相槌以外はわからない。年寄りたちは、あるひなびた温泉で「よっこらしょ」と降りた。観光客がほとんど寄らない地元の湯治場なのだろう。
 バスはいつのまにか秋田県へと入り、十和田南駅に着いた。そこからJR花環線の快速列車で盛岡まで二時間弱。急行のないローカル線である。相変わらず雨は降っている。


 嵐の八幡平と地球の鼓動

 せっかく車を借りたのだからと、盛岡郊外の八幡平へ行ってみることにした。借りたのはリッターカクラスであったが、その料金でファミリア4WDの一六〇〇CCが用意されていた。この車、エンジンのトルクが太いわけではないが、ブレーキとハンドリングは安定感があり、コーナーに入るのが楽しくなってしまう。背の高いワゴンやRVよりは、セダンやハッチバックが好きだ。
 下道を走って一時間ぐらいで八幡平分岐点、そこから一時間弱で頂上に着いた。ガスのため数十メートルの視界を八〇キロで抜けていく。突風が吹き荒れていて車の窓が開けられない。雪渓があったが車から降りられなかった。

 岩手八幡平を秋田側に降りること約二〇分で、後生掛(ごしょがけ)温泉に着いた。
 温泉の裏には谷沿いの散策路がある。土の割れ目から噴煙が吹き上がり、灰色の湯だまりがぐらぐら煮え立つ。そのとき突風がサングラスを吹きとばした。硫黄臭の充満する谷底へと転がっていく。
 風雨に打たれて湯が恋しくなった。入湯料四〇〇円を払って湯に入る。ここも典型的な湯治場で、蒸気風呂や火山湯、泥湯、外の露天湯などさまざまな湯がある。泥湯で老人に話しかけられたが言葉がわからない。身振り手振りで話をする。外の露天風呂は混浴だが誰もいなかった。

 嵐の八幡平を後にする。早池峰山に登るのは明日しかないが、天候は回復するだろうか。六月とはいえ、東北の二千メートル峰で雨に打たれると疲労凍死の可能性がある。実はモンベルの登山用雨具を旅の途中で紛失したのだ。
 憂鬱な気分で八幡平を下っているうちにガスが晴れて日が射した。そして前方に虹が出た。
 岩手山の裾野の小岩井牧場や高原の地形がくっきり見えるとともに、灰色の景色がみるみる天然色に変わっていく。車を止めて夢中でシャッターを押した。強風が憂鬱な気分とガスを吹き飛ばした。
 盛岡ICまでは東北自動車道で半時間。そこから国道四号線を南下すること一時間で花巻へ入った。

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