青森から遠野まで──日本の源流を訪ねる旅〜日本列島を這っていくからおもしろい〜その2

花巻ユースの名物おばさん

 なんとか探し当てた花巻ユースは、田んぼと森とが接する場所にあった。ゆるやかな丘陵にひらかれた田園とそれを取り囲む里山。森に面したテラスでのんびりと本を読むのもよさそうだ。
 食事の準備が整った。たっぷりの料理が空腹に吸い込まれていく。やや濃い目の味付けはこの地方の昔からの味だろう。前日の十和田湖博物館ユースでもそうだったが、外食している雰囲気はなく自宅で食べているみたいだ。野菜は無農薬の自家栽培がたっぷりと出される。量は多かったが、誰も残さなかった。一般の宿泊客と違って作り手とそれを味わう者の顔が見えるのがユースのいいところ。この日は、東京の男と西宮の女の子、それにぼくの三人。女の子は仕事を辞めて初めての一人旅だという。

 ここのおばさんは話好きである。
 食事が終わって三人で話していると、おばさんがいつのまにか話に加わって女の子にさりげなく話しかけている。
「仕事やってないんだったら料理を習うといいよ。男の人は一番喜ぶよ、女はそれがいのちだからね」。
 おばさんはしみじみと語っている。それを今風でないと片づけられないのは、言葉に気持ちがこもっているからだ。女の子も深くうなずいている。おばさんにとっては、日々の決まりきったサービス業ではないのだ。
 電話が鳴るたびに、「さてさて、私が電話を取るまでに何回鳴るかな」と言いながら別室から「よっこらしょ」と出てきて受話器を取る。ユースの規定では夜一〇時以降は飛び入りを受け付けないところが多いが、夜中の十二時頃に「泊めてくれ」とかかってくることもあるという。
 かかってきた電話の応対を聞くともなく聞いていると、宿泊先に窮しているらしい。「トイレでもどこでもいいから泊めてほしい」。相手はユースの会員ではないが、そう言われると人のいいおばさんは困ってしまうのだ。おばさんは受話器を置いたが、こうしたことを受け入れていくのがユースだからねとつぶやいていた。どこかに泊めてあげるつもりだろう。

 朝七時二四分に新花巻から盛岡へ電車で行くという女の子を送っていくことになっていた。女の子は新幹線に乗るのが始めてで「ワクワクする」らしい。ぼくは早朝のうちに早池峰山麓の河原の坊まで行きたかったので、彼女を途中の新花巻駅まで乗せていくのだ。
 ところがご飯のスイッチが途中で上がってしまい、時間がずれた。七時を過ぎてもミルクだ、ヨーグルトだとおばさんは次々と出してくれる。時間を気にしながらも、おばさんはまだあれこれ女の子と話を続けている。
 ふと時計を見たおばさん、「あら、たいへん、そのままにしといていいから、早く早く」と追い立てる。世話好きなおばさんに短い礼を言って小走りに車へ向かう。
(おばさん、元気でこれからもお節介を焼いてください)
 新花巻駅で彼女が間に合ったかどうかは確認していない。


みちのくの空に悠久を求めた人

 東北を舞台に活動を続けるアーティストに星吉昭さんがいる。
 星さんは、姫神せんせいしょんという音楽ユニットを結成。「奥の細道」などアルバムを立てつづけに発表後、「姫神」と名を改めてソロ活動に入った。

 星さんがこれまで取り上げたテーマは、奥の細道、遠野、平泉、イーハトーブォ、東日流(つがる)、縄文などで、それらを集大成したのが二枚組アルバム「森羅万象」である。
 シンセサイザーには音の真空、間合いがない。打ち込みのリズムにしても心臓を刻むようで生理的に違和感がある。そうでなければ、ヒーリング音楽と銘打って荘重な響きの持続音が退屈に埋めているだけ、といえばシンセ奏者には失礼かもしれないが、少なくともぼくは聴こうとは思わない。

 ところが、星さんの音楽はシンセサイザーでありながら合成音の嫌らしさがない。それどころが音の隙間に無言の意思が込められている、と思う。
 「森羅万象」に収録されている「風と星と青原と」を聴く。
 弦の淡彩の伴奏に乗って笛が控えめに旋律を奏でる。低弦がさりげなく運命を暗示するが、笛の音色はしだいに高みに誘われ孤高の空に羽ばたく。
 次にそのメロディーは鋭い音色の琴に受け渡される。琴は弦の伴奏に断片的な刻みを入れるだけで旋律はうたわない。それだけに万感の想いが迫る。
 琴はいつしか笛の旋律に乗り移り、主旋律より高い調べをうたう。空間を自由に舞いながらどこまでも昇っていくんだ、と思った瞬間、旋律を笛に返す。
 高い調べを知ってしまった笛は、空への憧れを痛切に秘めたまま主旋律を淡々とうたいながら消えていく。
 兵どもがみちのくの空に描いた悠久の夢を追想せずにはいられない。


一期一会

 大迫町方面をめざして右折し、国道三九六号線と合流すると三〇分でワインのまち大迫を通過。ここのワインは添加物を加えないぶどう一〇〇%が売り物。さらに四〇分で早池峰山麓の河原の坊へ着いた。
 国道三九六号は山間部を抜ける三桁の国道だが、道幅は広く車は八〇キロ前後で流れている。道が狭くなるのは河原の坊の手前一〇キロ少々だけだ。

 早池峰山は信仰の山であるとともに、エーデルワイスによく似たハヤチネウスユキソウなどが自生する高山植物の宝庫でもあり、東北きっての名峰である。
 河原の坊から登りはじめた。沢沿いの樹林帯には、広葉樹をはじめ豊かな植生が酸素を吹き出している。風が吹くと木々の雫がふりかかる。まだ雨は降ってこない。

 一時間で沢から離れ、ごろごろした大岩とトドマツ帯に入る。雨の雫を宿した森はあくまで明るい。いい雰囲気だ。
 樹林帯を離れると白、赤、黄色、うす紫などの高山植物が点在するようになった。一一〇分で打石と呼ばれる巨岩をすり抜ける。

 頂上に近づくにつれ、風が強くなった。それでも高山植物が目に入ると、つい立ち止まってレンズを覗き込む。

 この日の登山客は全部で十人程度、全員が防寒暴風の冬山装備をしている。ぼくは荷物の軽量化のため予備の服もなく、平地の恰好のまま。それでも花を見るとはっと虚をつかれて足を止めてしまう。


 花も嵐も踏み越え早池峰山を後にする

 沢を抜けた頃から、大きな岩が点在する高山植物帯に入った。足元には雨に打たれて深翠の石ころが転がっている。早池峰山特有の蛇紋岩である。
 歩みを進めるうちに突然視界が開け、歩きはじめて二時間三三分で頂上に立った。
 前日の嵐は引きずっているが、雨は依然として降らない。頂上に置かれた観世音菩薩像の写真を撮り、登頂の記録のため、そこにいた人にシャッターを押してもらった。
 山頂には宮城県のパーティーが四人、地元岩手県の単独行が一人。どの登頂者も長居は無用と決めていた。

 今回のコースは河原の坊を起点とし、頂上から小田越に降りる三角ルートである。鎖場にさしかかる頃、風はますます強く吹いた。他の登山者は岩影で突風をやり過ごしている。ぼくは体温を維持するため立ち止まるわけにはいかない。鉄ハシゴを握ると冷たさで掌が凍りつきそうだ。
(吹き飛ばせるものなら吹き飛ばしてみろ!)
 風がシャツを風船のように膨らませたが、手に息を吹きかけ姿勢を低くして一歩一歩降りていった。「御門口」を過ぎて、樹木のトンネルに入ると、ようやく風は止んだ。

 河原の坊の樹林帯は広葉樹の多い比較的開けた背の低い森であるが、こちらはヒバなどの大型針葉樹に下草の生い茂る視界のきかない森である。出会い頭に熊と遭遇しないよう口笛を吹きながら通りすぎる。東北では熊は里にまで出没するので油断はできない。

 下山を開始して一時間半後、大きな鳥居のある小田越の登山口へ。さらに三角ルートの底辺をなぞるように河原の坊までの車道を歩いた全四時間半の行程だった。
 岩手山、早池峰山──みちのくの霊峰は一度もその頂を見せてくれなかったが、どっしりした山懐の深さが気に入った。


遠野の語部たち

 車は再び大迫町を経由し、約一時間で遠野へ入った。
 南部地方では、馬と人が同じ屋根の下で生活を営んでいた。それが曲り家である。なかでも千葉家は南部曲り家として最高の完成度を誇り、往時には作男十五人、馬二十頭を飼っていた豪農である。
 この家は、飛騨の合掌造りと並んで日本十大民家の一つとされる。しかしぴんと来ない。ぼくは明日香や遠野は大好きだが、文化遺産にはあまり興味がない。魂の脱け殻をありがたがって見るよりも、今の暮らしとどのようにつながっているかを見たい。吉野川の第十の堰が好きなのは、死せる文化「遺産」ではなく、今も暮らしに使われる生きた文化「資産」だからだ。

 しばらくして団体さんが入ってきた。千葉家の前には広大な駐車場があり、バイパスが走り抜けているため観光コースに組み込まれている。この住居は今も家人が住んでいるが、生活の匂いはしない。

 遠野物語は、この地方の名士佐々木喜善が語部(かたりべ)から集めた素材を民族学者の柳田国男が書き留めたもので、一部に省略や変更はあっても史実とされる。だから当時の遠野の人々は、匿名の物語の背景や人名、家名を知っていた。
 昭和三四年には複数の村人がザシキワラシを見たことが新聞記事になっている。魑魅魍魎の暗躍する怪奇譚の背景には、東北の山村の厳しい現実、それを力強く乗り越えていく人々の営みが息づいているのではないか──。わずかな滞在時間であるが、全身全霊でぶつかってみたい。


オシラサマとザシキワラシ

 まず訪れたのが伝承園。ここでは地元のばあさんが世間話をしながらわらを編んでいる。作業を眺めるだけでもいいが、自分がつくることもできる。
 その昔、馬と結ばれた娘がいた。怒った父親が怒って馬の首を絞め殺したところ、娘が馬に包まれて天に昇った伝説に基づく民間信仰がオシラサマ。馬と娘の顔のついた棒に衣服を幾重にも着せた奇妙な人形(ひとがた)である。伝承園には千体以上のオシラサマが祀られているが、奉納されたものばかりだ。オシラサマは家の守り神、養蚕の神様として、たいていの旧家に祀られている。土淵の北川家のオシラサマは特に有名であるが、一般に公開していない。

 次に河童淵を訪れる。この辺りを開墾したのは阿部家である。
 ある日の夕暮れ、阿部家の裏庭の小川で馬が突然泣いた。阿部の人たちが駆けつけると、たらいの下から手がはみ出している。馬を川に引きずり込もうとして逆に馬に引き上げられ、家人に見つからないよう急いで隠れた河童であった。河童は「この家を裕福にするから許してけれ」と家人に謝った。何世代も前のことである。

 河童淵を訪れたとき、一人のじいさんがいた。「どこから来なすった」と聞かれて「四国は徳島です」と答えると「遠いとこからよう来なすった」と頭を下げる。そして「子どもは何人いますか」(土地の言葉で何と言ったのかわからないが、雰囲気でわかる)と聞かれる。「独身です」と答えると、「それは残念なこった」と同情する。この人は阿部与一という。
 阿部のじいさんはこれまで何度もテレビに出ている有名人らしい。もちろん現在に連なる阿部家の家長である。歳を聞いてみると笑いながら「八十八になりますだ」と大声で答えた。若い!

 帰ってからユースのペアレントにこのことを言うと、「それは幸運。阿部のじいさんは最近あまり出てこないから」と言われた。
 車に戻る途中のビニールハウスの前で、ばあさん三人が井戸端会議をしていた。そのなかの一人の肌がつやつやしていたので、「おばあさん、肌がつるつるですね」というと、「あんたもお世辞がうめえな」とテレ笑い。歳を聞いて今度はこちらがびっくり。皺のない艶やかな四十〜五十代の肌なのに、九十歳であった。
 その秘密は、東北の日照時間の短さ(紫外線による劣化が少ない)と、火山地帯なので化粧水に似た弱酸性の水がもたらすアストリンゼン効果(皮脂の分泌を少なくし、肌を収斂させる)のためだろうと推測しているのだが。

 遠野といえば、ザシキワラシ。その特徴は、
一、村の長者といわれる裕福な旧家を住処にしている。
二、しかも川べりや淵の近くにある場合が多い。
三、身長は二〜三歳から五歳ぐらいの子どもと同じくらい。
四、衣服は赤いものを好む。
五、顔の色は赤く、髪はおかっぱのざんぎり頭。
六、歩くときにトタトタと鶏のような音がする。
七、姿を現すのは夕方、特に雨上がりの日に多い。
八、住んでいる家が落ち目になると退散する。
九,その時は二人連れの子ども、あるいは花模様の着物を着た二人連れの娘が目撃される。

 このザシキワラシは河童ではないかと佐々木喜善は指摘する。
 遠野には河童の子を宿したという言い伝えは多い。生まれてきた赤ちゃんは真っ赤で耳まで口が避けており、びっくり仰天した家人が切り刻んで埋めた話がある。夜這いに訪れるのは人間のみならず、河童や蛇などの淵神もあったと伝えられるが、おそらくは、本人同士が気づかない近親相姦による劣勢遺伝、母体の慢性的な栄養失調や荷重労働ががもたらした奇形や発育不良であったのかもしれない。語部たちは村の昔話を「むかしあったずもな」と語りはじめる。


むかしあったずもな〜山に消えた娘たち(菊地照雄著「山深き遠野の里の物語せよ」より抜粋)

 青笹村の千葉新蔵の何代か前の話である。
 千葉家には器量良しの娘がいて、噂を聞いて庭先まで覗き込む者がいるほどであった。この娘が神隠しにあった。村中大騒ぎになり、捜し回ったが行方はわからなかった。
 ところが、ある日この娘がひょっこり帰ってきてこう言った。
「おらあ、六角牛(ろっこうし)の山の主のところさ嫁ごに行ってらのす。あんまり家が恋しいからちょっくら帰ったのす」
「六角牛の主というのはす、神様だべ、山男だべ?」
「おれは、夫から何事も願いがかなうという宝物をもらってきてらのす。人なみの嫁ごにならねえおわびにこれを置いていきますから」
といって、風のように山に走って姿を隠した。
 この家にはよく学生が訪ねてきて、根掘り葉掘りこの娘のことや宝物のことを尋ねてゆくが、昔のこととて当主にも定かではない。

 遠野から北東にある白見山は、三千町歩のブナでぎっしりと覆われた山である。マヨヒガといわれる山中の不思議な長者の家は、この深く暗い森が舞台である。
 マヨヒガでは人けのない部屋にお碗が並べられており、そのお碗を持ち帰ると裕福になる。しかもマヨヒガはその人を裕福にするためにわざとその姿を見せるといわれる。人々は夢中になってマヨヒガを探したという。
 この白見山で、山口村で死んだ女を同じ村のマタギが見たという評判が立った。村のオリエという女が死んで土葬にしたが、家の者が七日の忌日に墓参りに行くと、埋めた土中に穴があいていて白木の棺は破られていた。
 かつて死の判定は家族が行っており、二四時間を経ずにすぐに埋めていた。仮死状態の者が息を吹き返すこともあったに違いない。
 けれど、一度死んだ者は再び家の敷居を跨ぐことはできない。蘇った死者たちは山へ入らざるを得ないのである。

 初潮があれば女は慌ただしく結婚させられる。この当時の結婚はかど入れ婚であった。
 吉日を選び、夕方、両親や親戚の者数人に囲まれ、提灯一つの集団が黙々と歩く。真ん中に素足のままわら草履を履いて、身長に合わなくなった短い着物の裾から白いすねの出ている少女がいる。脇に抱えた風呂敷包みには彼女の全財産である二、三枚のせんだく(着替え)が入っており、これから待ち受けている夫婦の儀式の漠たる不安におののいている。婚家の複雑な人間紋様のなかで、もう一つの紋様を折り込むことができるか、夜明けから日没までの野良仕事に耐えることができるか、家風にはまって生活していけるか、それが試されるのが「かど入れ」の期間である。

 かど入れの後、結婚の披露が行われて入籍する。翌日から想像を絶する重労働が待っている。十五の小娘が自分の体重より重い水桶を何度も風呂やかまどまで運ぶ。さらに嫁姑という新旧のヘラの主権争奪がある。
 こんな肉体労働の極限にあっては夫婦生活も満足にいかなかった。夫は、ゆすっても顔をひねっても目を覚まさないでくのぼうみたいな嫁を抱く。嫁は、翌朝起き掛けに下着の異常でやっと気づくというありさまであった。

 夜這いは独身より既婚者で多かった。年端もゆかない十四、五で夫婦生活に入り、男を見ることのできる年代になった頃には子どもができ、家のしがらみに幾重にもしばられている。女としての成長と現実の落差は広がる一方である。この夫婦間の心理のひずみを、生活と家とをこわさないでうたかたの恋と快楽を両立させたのが、この地方の夜這いであった。
 肉体と心にヤスリをかけての壮絶な生活戦争に耐えきれなくなったとき、女は戦線離脱の方法として山に入るか、首くくりをするか、いずれかを選択するよりほかはなかった
 山は生業の場であるとともに、幽界としての山との二重構造になっていた。六角牛(ろっこうし)山はその恰好の舞台だった。

 六角牛山は石灰岩の山塊であり、空洞がいたるところにあった。加えて山菜、きのこの宝庫でたんぱく質となるイワナや獣も多かった。
(山へ行けば生活できる──)
 夏の一時期を除いて食べるには困らない環境があった。

 遠野で民宿を経営しているA氏は、かつて宮古林業(株)の遠野責任者として多数の焼子を抱えて炭の増産に当たっていた。
 ところが昭和二十年代の後半、木炭からガス、石油へと転換が始まり木炭の需要は激減した。A氏は会社の資産を確保するために偽装倒産し、債権者を逃れて時効の成立する八年間、山に籠もって過ごしていたという。


 遠野物語のふるさと〜山口地区

 続いて、山口の水車小屋とデンデラ野を訪れた。
 山口はもっともザシキワラシが出没した地域で、遠野物語成立に深く係わっている佐々木喜善の生家があり、遠野物語の核心の地である。

 デンデラ野は、六十を越えた年寄りが自主的に家族と離れて山中で共同生活をした場所である。老人たちは、昼間は農作業を手伝うが、夜はここで寝泊まりをしながら死期を待つ。食い扶持を減らしながらも労働力は提供し、家族に負担をかけずに消えていく。丘の上の田畑となった今でも、下界から隔離された寂しいところだ。

 山崎のコンセイサマを見る。これは女性に御利益のある石の神様で山崎地区に多い。最大のモノは長さ一・五メートルもある。これらは彫刻したものでなくあくまで自然石であるというが、なかなか写実的である。男根と女陰がセットになった石もある。
 今回の遠野訪問にはぜひとも見たいものがあった。それが山口周辺だろうと目星を付けてきたがここにはなかった。六時を少しまわったのでとりあえず宿に向かう。


創造力を働かせる、に異論あり

 遠野ユースは、旅好きのホステラー(ユースの宿泊客)がこの地で創業してペアレント(ユース経営者)になった。この日は、ぼくを含めて男2人、女2人。
 夕食はフランス料理のような洗練された雰囲気。ともに食事をすることで初対面同志がすぐに打ち解ける。年齢が似ている男女二組なので合コンみたいだ。
 東北は始めての由紀さん、かつてJTBで旅行雑誌を編集していた杉並区の万弓さん(趣味は島めぐり)、同じく東京出身のサラリーマンで趣味が道の駅めぐりの徹さんである。食事の後は、ヘルパー(ユースのお手伝いをする人)の佳子さん(神奈川県出身)が夜の談話室に加わった(以下、敬称略)。

 夜の九時に談話室に集まってくれとのペアレント氏。まずは、四〇代の若さで歌手の村下孝蔵が亡くなったことを伝えてくれる。それから名物の遠野観光案内を部屋の片隅で始めた。

 遠野盆地はかつて湖であり、アイヌ語で「高原の湖」を意味する「トオヌップ」が遠野の語源になった。そこから見る遠野の四季折々の表情がいい。田に水が入った頃には鏡のように盆地を囲む山々を映し出し、かつての湖が出現する。初夏の青葉もいいが、冬野の静寂がいちだんとすばらしい。
「遠野は奥が深い。雰囲気を味わうだけでも1週間はかかる。残された遺跡を一つひとつ車でまわったところで大したことはないが、自転車で田んぼの畦道を走りながら創造力を働かせてはじめて感じられるものがある」とペアレント。
 一週間かかるというのはさもありなんと思う。ただし創造力を働かそうと努力することなく、もっと直観的にすぱっと飛び込んでいきたい。


八ツ墓村の鍾乳洞は遠野にあった

 遠野には、観光ガイドブックにほとんど掲載されていない見どころが多い。例えば、映画「八つ墓村」で地下鍾乳洞の撮影をした鍾乳洞がある。
 いつだったか、近所の老婆が崖から足を滑らせ、暗黒の鍾乳洞に落ちた。たまたま洞窟を探検していた観光客が血だらけの老婆を発見し、びっくりして地上に引きずり上げたところ、顔中血だらけの老婆はまるで何事もなかったかのように歩きだしたという。遠野物語は今も生きている。

 七〜八年前には熊の当たり年があって、小学校の校庭で先生が頭を噛まれて重症を負った。遠野ユースから一キロの田んぼにも出没して近所の者が大怪我をしたという。
 ぼくはあるお社の写真をペアレント氏に見せ、「これを見るために四国から来た」と言った。当然場所を教えてくれるものと思っていたが、彼は「自分の足で探してごらん」の返事。これはどうしたことか。
 遠野の観光案内でたびたび紹介される心象風景であるが、どこにも社の名称や場所が記されていない。ぼくはこの社に「首をかしげた神様」と名付けたが、謎は深まるばかり。周遊券の関係で明日の昼過ぎに盛岡を出る新幹線に乗らなければならない。万弓とともに談話室にある遠野の資料を漁ってみたが、場所を特定できなかった。

 ペアレント氏が引けたあと、四人+佳子の間で話はますます盛り上がった。
 遠野には、「ひっつみ」という郷土料理があるのだが、伝承園のがうまいと徹は言う。ところが「伝承園は味が落ちた。うまいのは遠野駅近くのもみじ庵」と遠野通に反論されたという。その理由は二つある。
 一つは、伝承園の料理名人がもみじ庵に移ったからという説。もう一つは、出汁に使っていた地鳥が手に入らなくなり、普通の鳥に代わったからという説。遠野のリピーター徹によれば、伝承園でも十分うまいという。

 徹は東京から深夜に一般道を走ってここに来た。愛車ジェミニはすでに一六万キロを走行。道の駅めぐりのため、一般道を深夜に走って距離をかせぎながら営業時間内に訪問してスタンプをもらう。道の駅なんてどこでも同じに見えるが、実はその一つひとつに味わいがあると徹は語る。
 西日本代表(?)で来ているぼくはビールを飲みながら問わず語りを始める。
「四国は空海が開いた土地、東北には蝦夷の残像が感じられるように、四国にも何かある。それは四国に住んでいると気づかないが、四国に戻ると感じられるものだ」
四国へ行ったことがある徹は「わかる。人情が濃いからな。四国の人はみんな四国から出ていかない。そんなことをいうのは四国人だけだ」と賛同する。
 佳子は「八十八ケ所に行きたい」とこれも乗り気。
 島めぐりオタクの万弓は出羽島に今にも旅立ちそうな雰囲気。
 ヒトとヒトのコミュニケーションの限界距離が破れ、数時間前まで見知らぬ者同志がいつのまにか、顔と顔が数センチの距離になる頃、日付は変わっていた。


 首をかしげた神様はどこ?〜遠野「三人」物語

 遠野へ来る前に菊地照雄著「山深き遠野の里の物語せよ」を読んだ。
 菊地は地元遠野の研究家であるが、遠野物語の背景となった史実を距離を置いて淡々と読み解いていく。こうして読み手は遠野の深部へおずおずと踏み込んでいく。ところが踏み込めばますます霧が深まる。そこで明らかになるのは、鏡に映し出された鏡のような遠野物語の多重構造、ビルゲイツも真っ青のマルチタスク・ウィンドウズなのである。

 それはそうと「首をかしげた神様」は、人家のまったくない田んぼにぽつんと置かれた茅葺きの小さな社。そのてっぺんにベレー帽のような屋根を小粋に被っている。
 JTBの「ひとり歩きの東北」には「山口の水車小屋」とのキャプションがあったがこれは誤り。地元の郷土書に「門前権現」の記述を万弓が探し出したが、これも疑問がある。もしかして「撮影」のためだけに置かれたオブジェなのだろうか。
 それとも「かつて」は確かには存在したのだが、今はもうなくなっているのだろうか。日本の風景はほんの数年で激変するのだからそれもあり得る。遠野の代表的風景と決めてかかったのは早合点なのだろうか。
 観光資料には場所や名称の記載がまったくないし、遠野通のペアレントに場所は教えてもらえない(親身な人ゆえに何らかの思慮であろう)。これには何か裏がある、何とか突き止めたい──と思った。

 翌朝、万弓に「車でまわってみませんか」と声をかけた。彼女がナビゲーターとなり、遠野のリピーター徹が道案内をすることになった。限られた時間で遠野の田舎道を走るには彼の土地勘が必要だ。徹の旅は、道の駅めぐりを除いて無目的「のんびりぷらぷら」の旅である。だからこそ、こうして自由な時間を楽しんでいる。

候補地その1〜土淵から山口地区
 ここは有名な水車小屋のほか、北川家のオシラサマ、遠野物語を柳田国男に語った佐々木喜善の生家(今も子孫が住んでいる)、さらにかつての姥捨て山「デンデラ野」があり、遠野らしい雰囲気を残した地。昨夕訪れたが成果はなかった。

 候補地2〜ふつかまち駅周辺
 千葉家の曲り家、続石辺りから猿ケ石川を越えて南下した地区であり、南には駒形神社がある。遠野より少し下ったところで人家はけっこう多く、それらしき姿は見当たりそうにない。地元の商店で聞いたが「見たことない」との返事。けれど道の駅「遠野風の丘」のなかにある「遠野ふるさと公社」で聞けばわかるだろうと教えてくれた。

 遠野ふるさと公社の事務所に一人の女の子がいた。「これはどこにありますか」と写真を見せたところ、女の子は場所をさっと示した。それは遠野中心街から早瀬川を少し上った青笹町付近にあるらしい。観光地図ではわかりにくいので、青笹町の駐在所で尋ねてみてはどうでしょう、と言ってくれた。
(やった!)
 思わず喜んで万歳をしているぼくに、女の子は笑顔を返した。
 一〇時半には遠野を立たなければならない。残された時間は一時間を切っている。徹を先頭に三人は胸踊らせて青笹地区に向かった。

 青笹町の駐在所に人はいなかった。そこで近くの小学校で遊んでいる小学生やそのお母さんに写真を見せたところ、「○○さんの家の辺りかねえ」といきなり核心に迫る返事。
 県道三五号線に戻って笛吹峠・六角牛山方面を進み、点滅信号を右に曲がるらしいが、間違ったところを右折したため、再び青笹小学校に戻ってきてしまった。今度はさらに六角牛山に近づいてみた。

 すると点滅信号があった。
 万弓とぼくはドキュメンタリー番組のように「点滅信号は確かにあった。スタッフに安堵の表情とともに緊張感が高まる。右へ折れた我々が見たものは──CM」などとおどけながら楽しんでいた。
 中沢川を渡ったところに木工所があった。橋の近くで車を泊めていた運ちゃんがいる。さらに先へ進んで橋を渡れという。目的地は近い! 我々は突進した。橋を渡ってしばらく行ったところで徹の車が止まった。そして、彼が指さす田んぼの真ん中に、──あった!


首をかしげた神様、春夏秋冬物語

 一面の田んぼのなかに首をかしげた神様はあった。観光コースから遠く離れて山を越えた盆地にちょこんとあった。うれしかった。三人で握手を交わしながら互いに写真を撮りあった。
 盛夏のせみしぐれにうずもれる神様、豊穣の稲穂の海に離れ小島のように浮かぶ秋の神様、そして一面の雪野原に白化粧の神様を見てみたいと思った。この神様のまわりを季節とともに村の暮らしが動いていく。
 旅に出るたびに再訪の理由が増えていく。

 六角牛山の入口にある六角牛神社に立ち寄った後、連泊の万弓をユースまで送り届けた。
 三人の見送りを受けて出発。「遠野風の丘」のふるさと公社の事務所を覗いたが、道を教えてくれた女の子はいなかった。

 時速八〇キロで流れる山間部のハイウェイ国道は、盛岡市内ではやや渋滞したが、遠野を出て一時間二〇分後、レンタカーを盛岡駅に返した。新幹線の出る二一分前であった。

 JR東北新幹線、東海道新幹線と乗り継いで新神戸駅に降りたのが一九時二分、徳島駅に着いたのは、二一時半を過ぎていた。

 駅のホームでさまざまな一期一会を思い出していた。
 徳島の時間が動きだすと少しずつ一週間の時差が戻ってくる。「どれだけの仕事が待ち構えているか楽しみだ」と諦観にも似た表情で風に吹かれながら列車を待っていた。


〔旅程〕
六月二二日 徳島〜淡路島〜新神戸〜東京〜盛岡〜青森(青森グリーンホテル)

二三日 三内丸山遺跡〜八甲田山〜蔦温泉と赤沼〜奥入瀬渓流〜十和田湖(十和田湖博物館ユース)

二四日 十和田湖〜盛岡〜八幡体〜後生掛温泉〜花巻(花巻ならの里ユース)

二五日 花巻〜大迫町〜早池峰山〜千葉家〜遠野市山口地区(遠野ユース)

二六日 遠野〜盛岡〜東京〜新神戸〜淡路島〜徳島

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