四国の川と生きるテキスト編その3


  水に潜る橋と水に浮く家

 川島町の学島の潜水橋を渡ると、善入寺島という広大な遊水地がある。ここは大正年間まで三千人が住んでいた川中島である。道路はこの辺りで川から離れ、河畔林を伴いながらアラスカのような雄大な風景が広がる。はるかな向こう岸、広い河原、水上をわたる鳥の声。竹林の裾野には石が積まれ、魚の住処となる。時折カヌーに驚いた魚が反転して川底が濁る。70センチを越えるナマズもいる。徳島市内から半時間のところである。

 吉野川の風物詩のひとつに潜水橋がある。潜水橋とは、大水の時に水に潜る橋。こうすることで洪水の妨げとならず、橋も流されない。川の両岸を短く結ぶ潜水橋は、歩行者や自転車にとって便利な橋である。

 菜の花に彩られる春の高瀬潜水橋、夏の竹林に映る角の浦潜水橋は眺めて飽きない。秋の脇潜水橋の夕暮れ。民家と段々畠を対岸に控え、南国四国の情緒が色濃い穴吹川の口山潜水橋。学島の潜水橋はもちろんだが、善入寺島を横切り、北岸の分派流にかかる小さな潜水橋も「こぶな釣りしかの川」の趣がある。

 吉野川の度重なる氾濫は、決して害だけをもたらしたわけではない。洪水のお陰で肥沃な土が運ばれ、それが農作物にいい結果をもたらすことがあった。
 かつての阿波藩は、名産の藍染の原料となる藍の作付けを奨励していた。石井町にはその名残りの藍屋敷田中家がある。
 洪水常習地帯に建てられたこの家の石垣は、高さ2メートルにも及ぶ。川に面した方角には屋敷を守るために木が植えられ、納屋の軒下には小舟が吊るされている。屋根に届くような大水の時には、母屋の茅葺き屋根を切り離して船として使うという。
 田中家は究極の洪水対策を備え、水利と肥沃な土を求めて川から離れなかった。建築されて数百年、実際にノアの方舟のような大洪水はなかったが、数百年起こらなかった希有の自然現象に対して、畏敬の念とたくましい想像力を持って暮らした人々の心が伝わってくる。


                                                       第十の堰物語

 二五〇年余りにわたって吉野川に溶け込んだ構造物がある。第十の堰である。当時の第十村にあったことからこう呼ばれる。この堰は農業用水確保のため、江戸時代中期に作られたものである。
石積みの景観は周囲に溶け込んでいて、付近は魚介類や野鳥の宝庫である。往時は、青石を積んだ堰の上を水が越えていき、その流れに乗ってアユやウナギがたくさん上っていった。

 阿波十二景の一つ「激流第十の堰」と記された昔の絵はがきには、満々と水をたたえた川面に白帆を立てた川船と、堰の南岸の浅瀬に仕掛けられたヤナが澄んだ水底の石ころとともに映し出されている。
「ここに立ったら、気持ちがすうっとするわ…」
 人々は土手の上から、広々とした風景を眺めていた。堰は、子どもたちの恰好の水遊びの場所であり、仕事が終わった大人たちは夕涼みがてら四方山話を咲かせたという。石積みの柔構造のため、大水が来れば補修は必要だっただろうが、地域の人々の手によって二五〇年にわたって維持されてきた。

 しかしそのために、上流と下流の水の循環、物質の循環、生態系のつながりが妨げられることなく自然に溶け込んだと考えられる。維持管理に地域の人々がかかわることで、川との密接な結びつきが生まれ、川を知ることにつながった。経済的にも地域に資する仕組みとして参考にならないだろうか。

 第十の堰を在所とする尾上一幸さんはこう回想する。

 さくら、菜の花、れんげの咲く頃は人生の節目の時であった。丁稚奉公や入隊が決まった子どもを親がわざわざ堰まで連れてきて、「これがお前の故郷ぞ」と見せていた光景を思い出す。カメラが普及していなかった時代は、それがせめてものことであった。

 春が過ぎる頃、子どもたちは川に入り、魚とりが始まる。ハエナワのエサは竹林から取ってきたミミズである。仕掛けた夜はどんな魚がかかるか楽しみでなかなか寝つけなかったものだ。竹林は洪水を防ぐために植えられたものだが、たけのこや釣り竿の調達場所でもあった。

 夏休みともなれば、子どもたちは毎日のように堰に泳ぎに来た。遊泳区域も学年や身体の大きさによって自然に決まっていた。小学校低学年は、浅瀬のある堰の上部で、少し高学年は向こう岸まで、高等科になれば、堰のうず巻く流れをどう泳ぎこなすかというようにである。水が澄んでいたので川底まで見透せ、アユ、イダ、ヨシ、ドブロク、アユカケなどが泳いでいるのが見えた。カニもいっぱいいて、堰は淡水魚の宝庫であった。

 子どもたちはひと夏を過ごすと、身体が日焼けしてたくましくなる。上級生の指導によって向こう岸(二百米) まで泳げた時の感激はひとしおであり、夏が終わるころには自慢話に花が咲いた。子どもは泳ぐことによって成長していく。
 当時は、堰の表面に水の流れはなくとも、積み石と積み石のすき間から水が流れ出ていた。その流れ込む水の音を堰の音ととらえ、梅雨や台風時の水量を音によって聞き分けてもいた。堰の表面に水が流れるようになれば、上流に雨が降ったと予測し、それによって農作業への気配りもできた。
 お盆の夜の食事には、八つ頭の酢あえ、素麺、茄子の味噌あえ、五目ずしなどが出された。自分で捕ってきた鮎の姿ずしは最高の味であった。食事の後はトマトや西瓜も出され、家族全員が今年も健康で先祖の供養盆ができたことを喜び合った。

 早米の稲穂が出る頃は、台風の時期でもある。笛や太鼓の音が秋の夜長に聞こえてくると、祭礼の準備が始まる。台風の被害を受けずたわわに実った稲穂を見て、百姓の喜びを感ずる。豊作はうれしかった。祭りのご馳走といえば何といっても糀で造る甘酒だ。すっぱさと甘さがかみ合った独特な味は忘れられない。

 一方、堰は落ち鮎の季節である。落ち鮎はあまり美味とは言えないが、豊漁となってどこの家にも鮎を焼く香りが立ち、秋の訪れを感じた。学校から帰ると蒸したサツマイモやサトウキビをおやつに食べ、神社に集まって遊んだ。

 十二月に入ると、水量の減った川で堰の補強工事が始まる。何台もの荷馬車によって、水が引いた堰の上にトロッコの線路が敷かれ、ふもとの山から青石が運ばれた。青石をトロッコに積むのを見にいくのが何より楽しみであった。
 堤防での雑草の野焼きは壮観である。大勢の子どもが集まって、西の方から火をつけると、西風に煽られ大きな火柱が立ち、みるみるうちに拡がっていく。
冬の吉野川は、五米くらい川底が透けて見える。野焼きの消火に汗だくとなった顔や手を洗うとき、ついでに口の中も川の水ですすぐくらい、きれいな流れであった──。


 河口から約一四キロにある第十の堰直下は、川と海が出会う場所でもある。今も昔も子どもの姿は絶えることはない。盛夏と晩秋の堰を覗いてみよう。


八月の堰

 自然観察会が行われた第十堰。野鳥や植物の専門家の話を伺ったあと、地元の漁師さんの案内で下流の船上から堰を眺める。堰の上を水が越えていく様子は、青石を積み上げた往時をしのばせる。
 やがて船は中州にたどりついた。水底の石がひとつひとつ数えられる。水が澄んでいるのは、堰本体という天然の浄水器をくぐりぬけた水が下流に湧きだしているからだろう。喜んだ子どもたちは、帰りの船が来ても水から上がろうとしない。
 中州は北岸から泳いで渡ることもできる。島にヤナギが一本生えていて、水面に影を落としている。恋人たちの避暑地、少年の隠れ家ともいえるような秘密めいた感じがする。


秋の第十の堰

 澄んだ水、沈んだ流木、陽光が射し込める水底は珊瑚礁のよう。あまりの美しさに居合わせた人たちは声が出なかった。幸運にも第十の堰の潜水に同行させてもらった一日である。
 時は大潮の干潮の時刻。船は堰本体に沿って進む。ところが不思議な現象に気づいた。堰直下の川面では、水割りウィスキーのごとく水がゆらめいている。この現象はどこでも見られるが、魚道のない南岸の方が見やすい。
 一方北岸は魚の宝庫である。1メートルもあるソウギョが岸辺近くを悠々と泳いでいる。南岸は海水が入ってくるが、北岸は引き潮時にはほとんど真水となる。夏に訪れた時も水底の美しさに驚いたが、水が澄んだ今の時期は息をのむほどである。そして堰直下の苔のついていないさらさらの砂…それは天からこぼれた銀の砂のよう。早明浦ダム下流でこれほど美しい川底を知らない。堰を通過する水が運んでくるのかもしれない。
 引き潮を選んで、第十の堰の水際を散策してみよう。この感動は体験してみなければわからない。

 十一月というのに、子どもが十人ばかり泳いでいるではないか。手に手に網を持ち、パンツ一枚で潜って魚を追い込んでいる。追われる魚はというと、アマゾンで見かけるような巨体をくねらせて泳いでいる。ここはほんとうに徳島なのかとびっくりさせられる。


 第十の堰は、もともと竹の籠に石を詰め、その上に地場の青石を積んだもので、堰の上を水が滑るように越えていき、その一部は伏流水となって下流に湧き出す。
 そのため、清流に生息するアユカケという魚や、生態系ピラミッドの頂点に位置するタカの仲間ミサゴも棲んでいる。このことは、餌となる小鳥や魚が豊富であり、さらにその餌となる小さな魚介類やプランクトンが豊富なことを示す。近年では、イセウキヤガラという貴重な水辺植物の日本最大の群落も発見された。また、シジミの産地として潮干狩りの人で賑わう。
 人間が堰を造り、川は堰に対して抵抗する。第十の堰は、地震や大水、流路の変遷などの自然環境や社会条件の変化にも柔軟に対応しながら、その時々に応じて堰が延長されたり補強されたりして少しずつ今日の形になった。それを下関大学の坂本紘二教授は「成っていく構造」と呼ぶ。「人工物でありながら、自然に同化しているのが最高の技術である」とも言う。

 第十の堰とは、人が川とかかわりながら、持続的に存続させていく仕組みであり、未来に継承していける絶妙の資産なのではないか。二五〇年の歴史がそのことを証明している。


 あめ色のハゼとアオギス

 四国山地の水はようやく海にたどりついた。そこには、広大な河口干潟が広がっている。海からの風が吹くときは、白波が幾重にも押し寄せてきて干潟を洗う。潮の香りを思いっきり吸い込んでみる。とてもいい気分である。
 干潟は、シオマネキという片手が大きなカニや、一五〇種類を越える野鳥の飛来地となっている。吉野川大橋が夕日を背景に浮かび上がる時刻には、たくさんの人々がここを訪れる。釣りをする人、潮干狩りをする人、犬と散歩する人、波打ち際で遊ぶ子どもたちなど、それぞれに楽しんでいる。こんな場所が街の中心部からわずか一〇分という距離にあるのは、水の都徳島ならではといえる。
 たくさんの生物を育んでいる干潟には、大切な役割がある。一個のアサリが1リットルの水を1時間で浄化することはあまり知られていない。一見何の変哲もない干潟も、たくさんの底生生物や微生物の助けを借りて天然の浄水施設として機能している。

 ハゼの色は水質を映し出す。汚れた水に棲むハゼは黒っぽい。吉野川では透き通ったあめ色をしている。旬のハゼをてんぷらにする。二度揚げにし、オリーブ油を少量足らすと香ばしくカリッと揚がる。白身でクセがなく何尾でも食べられる。

 昭和五七年五月、吉野川のアオギスは、天然記念物に指定されようとしていた。週間釣りサンデーの小西和人さんは、文化庁から内定の知らせを受けて上京した。いよいよ記者発表という段になって、マスコミは締め出された。別室に案内された小西さんに向かって文化庁の担当者は、「天然記念物には学術上重要なものという原則があるが、アオギスには論文がないので指定できない」と言った。文化庁はなぜ態度を急変させたのか。
 小西さんはその理由をこう説明する。天然記念物に指定されれば文化財保護法の規制を受け、生存に影響を及ぼす工事はできなくなる。当時、吉野川河口には港湾開発として埋め立てが計画されていた。開発中止を危ぶんだ運輸省、建設省の猛反対があったのではないか──。

 アオギス釣りは初夏の風物詩といわれた。船の影や船縁に当たるひっそりとした波の音さえ、この繊細な神経の持ち主は嫌う。そこでわざわざ船で脚立を浅瀬に運び、その上で釣りをしたのである。何と粋な遊びだろう。
 アオギスは河口の浅瀬に棲んでいる。大きくなるにつれて名前が変わる出世魚であり、三〇センチ級を徳島では「ボテ」と呼ぶ。しかし、東京湾から脚立釣りが消滅したように、汽水域の浅瀬がどんどん埋め立てられ、アオギスの生息環境が全国的に失われると、幻の魚と呼ばれるようになっていた。

 ところが、吉野川の鬼ケ洲で、ぼちぼち上がっているという情報が小西さんの耳に入った。そこで有志が集い、アオギス釣りに出かけた。それまでカラー写真のなかったアオギスを図鑑に載せるという目的もあった。そして、1尾だけ釣れた。こうしてアオギスはカラー写真にその姿をとどめることとなった。昭和五二年のことである。

 鬼ケ洲は、台風のたびに位置や形を変えていたが、海との接点にある大きな中州である。今は陸続きで面積も小さくなったが、かつては船で渡っていた。徳島市内の大岡の渡しの近くで生まれた小西さんにとって、この辺りは幼いころから遊んだ自分の庭。──その昔、竹やぶから伐りだした竹を竿にし、ハゼをさぐっていた晩秋のこと。突然、少年の竿をひったくっていった大物がいた。それは三五センチもあるボテだった。港湾計画で沖の浅瀬が埋め立てられる頃には、そこを産卵場所にしていたアオギスはこの国から姿を消し、少年の記憶と図鑑の中で生き続ける魚となった。


 潮が引いた干潟で、たくさんの種類のカニがはさみを振ってダンスをしている。黒っぽくて体が大きなシオマネキと、小さくて真っ白なハクセンシオマネキ、チゴガニ、アシハラガニ、ヤマトオサガニもいる。干潟をリズミカルに移動するのはトビハゼである。野鳥の世界に目を転じれば、はるかオーストラリアからシギ・チドリ類が渡りの途中でこの干潟に舞い降りてエサを補給していく。

  足に発振器を付けたホウロクシギが発見された。人工衛星の追跡によれば、オーストラリアを飛び立ったこの個体は、南大東島と吉野川で餌を補給したあと、シベリア方面へ向かうらしい。もし餌を十分に食べられなくなったらどうなるか。──海の上で力尽きるだけである。

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