第十堰ゆめのさと実行委員会

この文章は、第十堰審議委員会が県民の注目を集めていた1997年頃に西暦2006年を眺めた創作です。固有名詞は架空のものもありますが、お楽しみいただければ幸いです。 

 西暦2006年、第十の堰はにぎわいを見せていた。一時は利権絡みの可動堰建設により、撤去されようとした第十堰であったが、市民の夢と情熱がすばらしい成果を生み出し、今や年間百万人を集める観光地となったのである。その成功物語を見てみよう。


 事の発端は、釣り好きの仲間たちが、長良川のように悪名高い河口堰が吉野川に建設されることに驚いてシンポジウムを開いたのがきっかけであった(長良川では建設後八年目に撤去されたのは、政権交代した首相英断であった)。

 建設省の計画は、一千億円(実際はその二〜三倍はかかったであろう)をかけて、第十堰を撤去し可動堰を建設するものだが、この計画を「第十堰改築事業」と称し、市民の目を巨大公共事業からそらそうとしていた。

 ところがその実態は、高さ25メートル七階建てのビルに匹敵する鉄とコンクリートでせき止めた巨大ダムだった。河口堰がつくられた長良川の生態系がひどい、という事実が知られ始めた頃である。河口堰がなぜ深刻な環境破壊をもたらすのか。

 一つに、川と海の行き来を遮断することで、多くの生物が住む汽水域(真水と塩水が微妙に混じり合った水域)が消滅する。いくら電子制御でゲートを開閉しても、自然の川が持つゆるやかで絶えまない流れを再現することは不可能だ。河口堰は、堰ではなく「河口ダム」である。

 二つに、河口堰は川を湖に変えてしまう施設である。水の汚染の進んだ下流で水を溜めると、プランクトンやアオコが発生して水が腐る。それらは堆積してヘドロとなる。その水を飲まされるのは都市の住民である。「住民の生命を守るため」(誰がそんなことを言ったのか)の施設が供給する有害物質(皮肉なことに塩素を大量に使えば使うほど発生する。例えばトリハロメタン)を含んだ水を毎日飲まされるのは誰なのか?

 三つに、人工密集地につくられる巨大ダムが故障や災害で設計通りに作動しなかった場合はどうなるか。阪神大震災の教訓を持ち出すまでもない。

 長良川河口堰や諫早湾干拓に象徴されるこうした大規模公共事業は、誰のための工事なのか。ここにも「人間の良心の墓場」がある。

 吉野川でも同様の計画が進行している実態を県民に周知するため、また、吉野川のすばらしさを知ってもらうために、吉野川フォーラム実行委員会という市民団体が生まれ、ねばり強く活動を続けていった。 ここには若い人や女性が多く参加し、この指とまれの自由な雰囲気とユニークな発想にあふれていた。それまで、市民運動に縁がなかった人たちであったが、楽しい試みを次々と繰り広げていった。




 カヌーで川と遊び、川幅いっぱいにメッセージを描いた旗を掲げ、自然観察会、芋煮、月見、野外演奏会とイベントを重ねるたびに、参加者の笑顔であふれた。意気に感じて真先に吉野川に駆けつけたのは、カヌーエッセイストの野田知佑さん。さらに、C・W・ニコル、筑紫哲也、本多勝一、近藤正臣、大熊孝、梅原猛、小西和人、多田実の諸氏、あやしい探検隊有志など、そうそうたるメンバーが集った。「長良川、諫早湾の二の舞は許さじ、川はみんなのもの」という熱意はエールとなって堰に届いた。

 日本と世界の川を数十年旅してきた野田さんは、日本の川について「まず、水がきれいである。川の周辺の景色が素晴らしい。四季それぞれの変化。一漕ぎごとに風景の変わる絶妙の自然美。それに水温が高いから一年の半分は水遊びができる」と言う。しかしその一方で、「毎年、これが最後だろう、と思いつつ下る川が何本かある。近々ダムができる、ショートカットなどの工事があると判っている川だ。そんな川を行く時、ぼくたちは惜別の情をこめて、丁寧に、ゆっくりと漕ぐ。好きな女と別れる時のような痛切な想いの中をしみじみと漕ぎ下る」。

 早明浦ダムができる前の吉野川大歩危小歩危は、水深十数メートルの早い流れの底に、数千尾の鯉が上流を向いて泳いでいたという。水底の巨岩をいっそう透明に映し出す深い空色をたたえた日本一の渓谷も、ダムができてからは昔日の面影はない。池田ダムから下流の吉野川について、野田さんはこう言う。

「日本一遊ぶ場所が多い川。そして、日本一自由な川だ」
 自分を語らず、思想を語らず、自然を語らず、心の深いところにある郷愁をかきたてる人がいる。
 こうして、地元の人たちを中心に、全国からの応援団も巻き込んで吉野川への共感の輪を広げていった。

 その一方で、専門家や行政と同じテーブルで議論するシンポジウムを次々と開催した。1996年夏には『水郷水都全国会議・徳島大会』が開催され、全国から一般市民、行政、専門家ら九百人が集い、対等の立場で議論を深めた。その成果は、報告書『川と日本』として発表され、全国の水問題にかかわる人たちの話題を呼んだ。

 実行委では、一言も「反対」を叫ぶことなく、地道な調査や観測による事実を積み上げながら建設省と対話を重ね、マスコミも巻き込んで可動堰建設の根拠を科学的、客観的に崩していった。

 こうした市民の熱意が実り、国家財政が破たん寸前となった二十世紀末、事業の疑問性と不透明性から国民世論と大蔵省会計検査院の厳しい突き上げを受け、可動堰建設は中止された。県民世論も大多数が可動堰を否定していた。県民は選択を誤らなかったのだ。

 ある人がこう言った。「これほど人々に愛された幸せな堰はなかったのではないか」。

 建設省は、当時年間七億円の予算を駆使して洪水の恐怖を煽るパンフレットを作成し、市民にばらまいていた。「第十堰があるために、上流の水位が上がる」せき上げ現象である。

 そのせいか、可動堰は洪水対策と誤解する住民も少なくなかった。これに対して土地の古老は「大洪水の時は堰は水没する」とせき上げに首をかしげた。建設省の計算手法では、過去の洪水が痕跡と比べて1メートル程高く再現されるという実務上許されない欠陥もあった。

 吉野川198キロの集水域をはるか上空から眺めると、四国に降る雨の大半を集めていることがわかる。河口に近い川を一か所せき止めることがどうして洪水対策になるのか、誰もが変だと思った。

 決着はやはり科学的に検証する必要があった。フォーラム実行委が、吉野川の安全基準である一五〇年に一度の大洪水の水位を二つの手法で求めてみたところ、堤防への安全ラインを越えないことが判明した。この計算の信頼性は、実際に過去の洪水痕跡をぴたりと再現していることから実証され、良識ある専門家もこの結果を支持した。こうして可動堰計画の核心であった「せき上げ」の根拠は崩れ、県民も「つくられた洪水」の真実を見抜いてしまった。

 可動堰計画が中止された後も、本質的な安全性を高めるため、堤防の幅を広げたり、竹やヤナギを植えるなどの補強を行った。その時植えられた水害防備林が、今では県民の憩いの森として定着している。

 さらに、景観の美しさを考え、堰本体を昔の青石で覆われた形に戻した。その際に、堰の高さを分水に影響しない範囲でやや切り下げた。その結果、いつも堰の上を水が越えるようになり、青石の上を糸を引いて流れる往年の景観が復元され、はるばる東京から「江戸時代の堰を見るために」観光客が訪れるようになった。週末には、徳島行きの空路は列をつくって混み合う程の人気である。

 この工事は、ゼネコン受注の可動堰建設とは違って、地元の業者が連携して請け負った。可動堰建設に比べればはるかに少ない費用ですみ、県民の負担にはならなかった。何よりも、そのような自然工法を市民とともに進める手法を土木関係者が学んだこと、そのノウハウが残されたことが財産であった。

 ほとんど手を加えない工事であるにもかかわらず、着手に際しては、第三者機関による環境アセスメントを実施し、完成後も追跡調査をするモニタリング委員会を市民の手で設置した。吉野川下流の豊かな生態系を正しく評価するためである。


 堰下流の伏流水があるところは、子どものためにプールがつくられた。といっても、植生に覆われた砂丘のくぼみにある水たまりで、とても人の手が入ったように見えない。下流側は川とつながっていて、ここの湧き水を求めて魚が回遊し、その魚を眺めたり、追いかける子どもの姿が一年中絶えることはない。ここにはユニークな立て札がある。

「子どもはこの川で遊べ」
「(遊びを忘れた)背の高い子どもはもっと遊べ」

 青石改修計画は、住民の要望に基づき、県の予算と管理で行われた。近自然工法に精通した県の河川技術者の他に、各分野の専門家や市民団体がプロジェクトチームを組んで参加し、住民の声を反映させながら公開で計画を策定していった。

 吉野川大橋のたもとに、トロッコ列車の駅ができた。切り出した青石を堰に運んだかつてのトロッコを現代に蘇らせたもので、トロッコ列車の名称は一般公募され、「青い石の恋人」と名づけられた。

 青石のアクセサリーは、この車内でないと買えない。これをぺアで買って第十堰の上を手をつないで歩くと愛が深まるという評判で(そのココロは「大事YOU」だからだそうである)、わざわざこれを買うためにトロッコに乗る人もいた。

 堤防の中段を走るトロッコに揺られながら竹林越しに吉野川を眺める、そんなゆとりを楽しむ半時間の列車の旅の一興に、歌人になった気分で車内の所定の用紙に一句したためて車掌に渡すと、次回の無料乗車券が配られる。作品は一定期間車内に掲示される。

・梅山茶水仙瑞香(じんちょうげ)桜梅(ゆすら)望春(こぶし)菜杏桃──遙けし春を迎えにいく

・菜摘み野のそこはかとない淡彩の花絨毯になごむ春

(菜の花に覆われる春の土手を見にきてごらん!)

・夏初月麦わら帽子香高し

(春なのに夏がもうそこまで来ているような夏の隣の時間…)

・みずすまし明日の流れは知らねども人の暮らしの水澄ます堰

・夏雲を映して楽し水入らず

・水絵具水を得た魚水の駅

 列車は、駆けっこするぐらいのゆっくりした速度で走る。健脚を自慢する人たちが列車と競い合う風景も見られる。

 終点までに駅が三つある。最初の駅は、吉野川特産の藍がテーマ。敷地内に藍を作付けし、藍染が体験できるとともに、高知県の大方町の砂浜美術館、四万十川とタイアップして、五月の黄金週間に手作りの藍染Tシャツ展や蚤の市を開く。


 次の駅は、「食」がテーマである。本物の竹林にあつらえられた「葵竹庵」では、吉野川の恵み(新鮮な魚介)を客の要望(どんなわがままでも聞くという)のままに調理する。もちろん、お任せコースもある。料理法は、京都の吉兆で修行し、川魚や素材の良さを知り尽くした名人が助言する。

 名産の半田そうめんや、たらいうどんを提供するのは、「涼風亭」の水辺に張り出したテラス。野趣満点の麺の喉越しは食欲をそそる。ここでは、地元でとれた本物の素材、安心できる材料のみを厳選し、気取ることなく一流の味を提供する。観光客は、涼しげな水音を聞きながら舌鼓を打つ。

 竹細工の体験コーナーや名人の作品が並べられた「かぐや姫のため息」も併設され、竹林の手入れの際に伐採された竹を竹炭にして、入館者に配った。これが好評で、このブランドによる第三セクターがまもなく発足する。売り上げの一部は、世界文化遺産に登録された吉野川の竹林を保全するために使われる。

 三つ目の駅は「堰と遊ぶ」がねらいである。駅を降りればシジミの採集場があり、観光客が採ってきたシジミは、二〜三日前に採取して砂を吐かせたシジミと等量交換する、という気配りもうれしい。貸しカヌーもあり、おだやかな吉野川河口や第十の堰を水上30センチから眺めると、ほんとうに気持ちがいい。料理をする人のための炊事施設もある。堰に至るまでの空間は豊かな森に囲まれたキャンプ地となっている。ここを起点にカンドリ船によるエコツアー、帆をかけた川船による吉野川遊覧、一日漁師体験(アオノリ狩り)なども行われている。

 トロッコ列車の発着駅から下流は、150種類を越える野鳥の飛来地となっているため、最小限の散歩道と野鳥を観察するための施設(目立たないよう、堤防でカモフラージュされている)が設置されている。

 河口干潟は、重要な湿地と環境省が認め、さらにラムサール条約登録地となったことから、若い女性のレンジャーが常駐し、説明や保全活動に当たっている。彼女の給与を含めて保全の費用は、寄附金とここを訪れる年間十二万人の観光客の志で成り立っている。

 こうしたなかで県も、河口干潟を横切る二本の橋の計画をトンネル工事に変更、干潟の埋め立て中止を決定し、交通の渋滞緩和と干潟の保全の両立を果たした。

 川沿いの堤防は、地域によっては幅数百メートル(スーパー堤防)に拡大された。土地が高くなった堤防上に地元の人たちが住むので用地移転の問題は生じない。吉野川を見下ろす高台には、陶芸作家、藍染作家、ガラス工芸家たちの小粋な工房が軒を連ねる芸術家コミュニティも自然発生的に形成された。


(その昔、土手の上から広々とした川を眺めていた人たちがいた)

 堤防を降りれば、青石を張り詰めた温泉クアハウス、広大な敷地に名産の阿波三盆をぜいたくに使った菓子の里などが自然に溶け込むように点在している。

 宿泊の目玉は、小さいながら家庭的で、昼間はレストランとなり、宿泊客に朝食のみを提供するというスタイルの宿(B&B)である。吉野川生態系保全地域に指定されたこの地区は、都市計画法とは別に住民による自主的な建築協定やまちづくり協定が結ばれ、景観や生態系への配慮がなされている。

 この地域の十数軒の宿の経営者たちは勉強会を重ね、吉野川の風土を生かしながら、手頃な価格を実現した。主人自ら季節のきのこを求めて山野に分け入る、前日仕掛けた仕掛けからギギ(美味)やテナガエビ(これも美味)、モクズガニ(これまた美味)を引き揚げて料理する、河原の野草でおかゆと野草づくしでかれんに彩る、阿讃山脈から切り出したサヌカイト(黒くて緻密な安山岩。叩くとよい音がする)を楽器にして、縄文時代の衣装を着たスタッフが宿泊客を迎えるなど、それぞれが工夫をこらしている。お気に入りの宿で連泊して、のんびりする若い女性の常連も少なくない。なお、堤防の高台には、静かな高級宿が一軒あり、こちらの方は数年前に予約が埋まるといわれている。

 値段や規模にかかわらず、宿の経営者が共に目指したものは、「一人のお客様のために最高のおもてなしを」である。その理念を徹底させたのは、地域を愛し、自然や文化、芸術、心理学に深い造詣を持ち、高い理想を持って足元から地道に実践することの大切さを説いて回った中小企業診断士阿部氏の熱意である。

 このようなさまざまな人々の努力が実を結び、吉野川を中心とする広域商業地域が形成されようとしている。

 徳島市の南に位置する小松島市は、それを補完する機能を持つような独自のコミュニティをつくりだした。

 自営業者の自己実現(夢)を果たし、それが地域の生活者に支持されることを目指した商業集積が水辺に形成され、落ち込んでいた商店街は、川を軸にした『水辺コミュニティ』により、活気を取り戻した。それは、かつての国道をつぶして小川をつくるという大胆極まる発想を実現したものである。小川のほとりを散策すると海にたどり着く。そこはフィッシャーマンズワーフをお手本とした港町である。かつては四国の東玄関として栄えた海のまちも過日の賑わいを取り戻そうとしている。

 コミュニティの特徴は、株式会社(一口一万円の株式と百円カンパを募り、できるだけ多くの市民にかかわってもらう)が土地を買い上げて流動性が高い新しい借地権の方式を開発し、新規事業者の「ちょっとやってみよか」や脱サラからの転向を容易にし、若者と高齢者の経営者をバランスよく募集した。

 客の自由な回遊のために仕切りのない長屋形式をとったので、川で遊びながら、車を置いて歩きながら、おしゃべりをしながら、音楽を聞きながら、商売、生活、買い物、散策、遊びの境界を取り去って「ながら」を楽しむことを徹底させた。これも阿部氏の発案といわれている。

 この県は日本でもっとも下水道の普及が遅れている。しかし、下水道整備が遅れたことが怪我の巧名となり、流域自治体では、住民による合併浄化槽の設置がすすめられた。

 合併浄化槽は、施工までに長い年月と巨費を要する下水道に対し、わずか数日の施工期間と数十万円で使用可能となる。しかも地下トンネルで遠い海へ流す下水道と違って、各戸の敷地内に設けられた浄化槽からきれいな水を近くの用水に戻すことで、「春の小川」が蘇り、そこに棲むメダカが戻ってきた。自分の排水を見つめることで子どもの環境教育にもなった。

 合併浄化槽は、微生物の働きを活かす方法なので、管理システムの整備が欠かせない。石井式(乳酸菌飲料の容器を多数沈めて微生物の働きを活性化する)のような高性能な方式を導入した。管理をうまくやれば、BOD1ppm以下(清流)も可能で、下水で池を作ったり、掃除に使う家庭も現れた。こうして合併浄化槽の普及が、吉野川の水質を大幅に改善した。

 当初は、可動堰強行推進の姿勢で市民の失意と反感を買った行政や政治であったが、民意を反映させる道を選ばざるを得なかったことが歴史の転換点となった。

 どうして転換したのか。その物語は別の機会に委ねるとして、住民(NPO)を中心に、行政・企業が参加するという図式は、市民が自主的に『第十堰ゆめのさと実行委員会』を組織し、ユニークな提案や汗をかいての作業を実践していったことがきっかけとなった。


 ある意味では、一番厳しい現実におかれるのが、三十代の人である。現場を指揮することから、官民を問わず、さまざまな矛盾に直面する。

 組織は、大きな問題には全く無力であり、小さな問題にはきめ細かく迅速に対応できない。自然環境や社会条件が日々変化する現代にあって、自己増殖と保身を目的に社会の実態とかけ離れてしまった「組織」。その歯車と化した自分に気づく。

 そのためだろうか、三十代の仕事のできる人たちが、仕事をやめてNGO活動をしている例が少なくない。これらの問題点を助言するコンサルタントを生業としたり、自給できる程度の農地を耕しながら晴耕雨読の生活をしている人もいる。

 なぜ、そんなことになるのか。不況で企業の仕事は減っているが、社会が必要とする仕事は確実に増えている──つまり、企業(行政)が提供する仕事が、実情にそぐわなくなったからである。そこを満たす(正す)ために、自然発生的・自主的に起こったのが、市民運動なのだろう。

 世界が幸福にならないうちに、個人の幸福はありえない、と語った先人の言葉を思い出す。

 第十堰を背景に地域づくりに発展した市民の活動は、そこに暮らす人々の実践であり、自分たちの手でやっているという高い参画意識、目標に向かってみんなが協力して達成した時の胸のすくような快感が媚薬となり、少ない予算ですばらしい成果が継続して得られた。

 こうした地域づくりは、全国で緒についたばかりである。それぞれの地域が独立国のような自主性を持って、自然と共に生き、先人の文化を資産として未来に伝えていく。そのもっとも可能性を秘めた地域が、四国である。



四国三郎は、吉野川上空を川に沿って下ってきた。

「どうして堰が必要だったのかしら?」
「今の旧吉野川が本流だった頃、徳島城下に水を引くために、藩主が小さな水路を掘ったところ、流れ込んだ水がどんどん水路を広げていった。それが、現在の吉野川(当時は別宮川)らしい。そのため、水が来なくなった旧吉野川流域の村々が藩主に懇願して作ったのが第十の堰という説がある」
「それなら堰を作らなくても、もっと上流から水を引けばいいんじゃない?」
「そうかもしれない。地図を見れば、水はまっすぐ今の吉野川めざして流れるのは当然だし、旧吉野川に水を分けるために、無理に堰を作ったのではないかと…」
「ところがそうではなかった?」
「そう、空から見た時それがわかった。この辺りは、吉野川の氾濫が作りだした沖積平野で、四〜五百年前の第十堰付近は海であり河口だった。ところがその東には、鮎喰川が流れ込んでいた。この二つの川が土砂を運んで沖積平野をつくるとともに、吉野川の土砂が鮎喰川を東に押し、鮎喰川の土砂が吉野川の流路を北へ押しやった。その堆積作用の結果が吉野川三角州であり、北へ向かう現在の旧吉野川と東に流れる鮎喰川ではないかと」
「空から見ると一目瞭然ね」
「第十の堰は二つの川のエネルギーがぶつかった場所にあり、川の流れの屈曲点に位置している。さらに平野のほぼ中間にあって、強烈なエネルギーの集まる場所なのかもしれない」
「しかも、大地震の巣である中央構造線が近くを通っている」
「吉野川の強大な力を分散させるためにも堰が必要だったのではないかと思うんだ」
「だったら、堰を撤去すると、微妙な均衡が崩れて予想もしない災害が起きるかもしれないってこと?考えてみれば、250年も存続してきたその本当の理由を今まで考える人はなかった。第十堰に秘められた知恵が、21世紀にわかるなんて不思議ね」
「土に触れてわかることもあれば、空から眺めてわかることもあるんだ」
「水だけが知っていたんだね」
 
△四国の川と生きる
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