あめ色のハゼとアオギス
 
 四国山地の水はようやく海にたどりついた。そこには、広大な河口干潟が広がっている。海からの風が吹くときは、白波が幾重にも押し寄せてきて干潟を洗う。潮の香りを思いっきり吸い込んでみる。とてもいい気分である。
(波が打ち寄せる河口はウィンドサーフィンのメッカ)

 干潟は、シオマネキという片手が大きなカニや、一五〇種類を越える野鳥の飛来地となっている。吉野川大橋が夕日を背景に浮かび上がる時刻には、たくさんの人々がここを訪れる。釣りをする人、潮干狩りをする人、犬と散歩する人、波打ち際で遊ぶ子どもたちなど、それぞれに楽しんでいる。こんな場所が街の中心部からわずか一〇分という距離にあるのは、水の都徳島ならではといえる。

 たくさんの生物を育んでいる干潟には、大切な役割がある。一個のアサリが1リットルの水を1時間で浄化することはあまり知られていない。一見何の変哲もない干潟も、たくさんの底生生物や微生物の助けを借りて天然の浄水施設として機能している。

 ハゼの色は水質を映し出す。汚れた水に棲むハゼは黒っぽい。吉野川では透き通ったあめ色をしている。旬のハゼをてんぷらにする。二度揚げにし、オリーブ油を少量足らすと香ばしくカリッと揚がる。白身でクセがなく何尾でも食べられる。

(シオマネキは泥地に住んでいる)
 昭和五七年五月、吉野川のアオギスは、天然記念物に指定されようとしていた。週間釣りサンデーの小西和人さんは、文化庁から内定の知らせを受けて上京した。いよいよ記者発表という段になって、マスコミは締め出された。別室に案内された小西さんに向かって文化庁の担当者は、「天然記念物には学術上重要なものという原則があるが、アオギスには論文がないので指定できない」と言った。文化庁はなぜ態度を急変させたのか。

 小西さんはその理由をこう説明する。天然記念物に指定されれば文化財保護法の規制を受け、生存に影響を及ぼす工事はできなくなる。当時、吉野川河口には港湾開発として埋め立てが計画されていた。開発中止を危ぶんだ運輸省、建設省の猛反対があったのではないか──。

 アオギス釣りは初夏の風物詩といわれた。船の影や船縁に当たるひっそりとした波の音さえ、この繊細な神経の持ち主は嫌う。そこでわざわざ船で脚立を浅瀬に運び、その上で釣りをしたのである。何と粋な遊びだろう。

 アオギスは河口の浅瀬に棲んでいる。大きくなるにつれて名前が変わる出世魚であり、三〇センチ級を徳島では「ボテ」と呼ぶ。しかし、東京湾から脚立釣りが消滅したように、汽水域の浅瀬がどんどん埋め立てられ、アオギスの生息環境が全国的に失われると、幻の魚と呼ばれるようになっていた。

 ところが、吉野川の鬼ケ洲で、ぼちぼち上がっているという情報が小西さんの耳に入った。そこで有志が集い、アオギス釣りに出かけた。それまでカラー写真のなかったアオギスを図鑑に載せるという目的もあった。そして、1尾だけ釣れた。こうしてアオギスはカラー写真にその姿をとどめることとなった。昭和五二年のことである。

 鬼ケ洲は、台風のたびに位置や形を変えていたが、海との接点にある大きな中州である。今は陸続きで面積も小さくなったが、かつては船で渡っていた。徳島市内の大岡の渡しの近くで生まれた小西さんにとって、この辺りは幼いころから遊んだ自分の庭。──その昔、竹やぶから伐りだした竹を竿にし、ハゼをさぐっていた晩秋のこと。突然、少年の竿をひったくっていった大物がいた。それは三五センチもあるボテだった。港湾計画で沖の浅瀬が埋め立てられる頃には、そこを産卵場所にしていたアオギスはこの国から姿を消し、少年の記憶と図鑑の中で生き続ける魚となった。


 潮が引いた干潟で、たくさんの種類のカニがはさみを振ってダンスをしている。黒っぽくて体が大きなシオマネキと、小さくて真っ白なハクセンシオマネキ、チゴガニ、アシハラガニ、ヤマトオサガニもいる。干潟をリズミカルに移動するのはトビハゼである。野鳥の世界に目を転じれば、はるかオーストラリアからシギ・チドリ類が渡りの途中でこの干潟に舞い降りてエサを補給していく。

 足に発振器を付けたホウロクシギが発見された。人工衛星の追跡によれば、オーストラリアを飛び立ったこの個体は、南大東島と吉野川で餌を補給したあと、シベリア方面へ向かうらしい。もし餌を十分に食べられなくなったらどうなるか。──海の上で力尽きるだけである。


シギ、チドリの飛来地となっている吉野川河口干潟。徳島の市街地のすぐそばにある海と川との広大な接点は生物の宝庫であるばかりか人々の憩いの場となっている。河口付近では架橋工事が進んでおり、生態系や景観に与える影響が懸念されている。さらに詳しくは→ とくしま自然観察の会

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