アグネス・チャン 「メランコリー」

  「ひなげしの花」をうたう清楚なお姉さんに憧れた子どもだったなと思い出した。いま聴いてもいい。そして「ひなげしの花」はアグネスのためにつくられた曲だと気付いた。高いところからひょんと降りる音の動きが、中国語(広東語)のような抑揚であるばかりか、「来る来ない 帰らない帰る」「愛してる愛してないあなた」のような助詞を省いた歌詞が効果を出している。彼女のリズム感の良さが早い日本語のテンポに無理なく乗って愛くるしい。そして選抜高校野球の行進曲にもなった「草原の輝き」、ぼくがもっとも好きなシングル曲「妖精の詩」へと続く。

 春の訪れをうたう「妖精の詩」の萌えるような草原の芽吹きに、妖精のようなアグネスが春と恋の予感を重ねて「季節の扉のすきまから 水晶の絵具箱」と歌い上げ、「そっと開くと 恋の色」と結んだ(これ以上の説明は必要ないでしょう。いまでも春の訪れにときめきを覚えます)。

 アグネスのヒットはこの三曲にとどまらない。「星に願いを」「小さな恋の物語」「ポケットいっぱいの秘密」「美しい朝が来ます」。リアルタイムの世代が聴けば「あっ、聴いたことがある」の曲ばかり。いずれも ボーイソプラノのような透明度のある声を活かしている。 日本でのデビュー曲は「ひなげしの花」だが、香港でのデビュー曲「サークルゲーム」も収録していて14歳のアグネスが聴ける。

 リズム感のいい、異国の愛くるしい少女は、数年のうちにさらに成長した。アグネスの真の魅力は、70年半ばから80年代前半にかけてうたわれたアルバムのなかにあるのではないかと思える。それを知らしてくれる唯一のアルバムがアグネス・チャン ベストセレクション〜メランコリーという2枚組のベストアルバム。ファンが選んだ楽曲を中心に構成され、アグネス自身が曲のコメントを付けていることもさることながら、アルバム(もちろんいまでは手に入らない)から選曲された唯一のベストアルバムである。

 アグネス自身は、カントリー&ウェスタンやフォークなどに傾倒していたようで、アイドルというよりもシンガーを目指していたようだ。日本に来て数年、二十歳を過ぎる頃には、舌足らずな日本語は姿を消し、、中低音がしっかりと全体を支えるなかで伸びやかな高音にますますの磨きがかかり、ビロードのような音空間を描く。ユーミンの楽曲をうたった「白いくつ下は似合わない」は彼女の成長の跡が伺える佳曲だ。

 シングル曲をもうすこし紹介すると、「ハローグッバイ」は柏原よしえでヒットしたが、もともとアグネスの曲のB面(?)であったらしい。カナダへ留学して日本へ帰ってきた1977年、吉田拓郎が書いた「アゲイン」も名曲だろう。

  アグネスの声の心地よさは、透明感のある声質以外に、伸ばす音符をつなぐ際の、うたうような「アグネスレガート」にあると思う。音をつなげても音程が自然と揺れる(無意識にそうなるのだと思う)のが彼女の歌心かもしれない。語り掛けるような演歌や切々と訴える情感表現には向かないけれど、オールマイティーにカバーする必要はまったくなく、持ち味を活かせばいい。

 寝る前にアグネスのこのアルバムをかける。1枚目の後半には、70〜80年だのアルバムから選曲されているミッドテンポ、バラード、フォーク調の曲が多く、至福の時間が訪れる。その辺りで最後まで聴き終わることなく眠ってしまうぼくがいる。「心に翼を下さい」「白い灯台」「雨模様」「ひとつだけ」「愛はメッセージ」「Try Again」。 翌朝目覚めることが祝福されているようなおだやかな気持ちにさせる。アグネスヒーリングだ。2枚目も、アーテストアグネスのボーカルを楽しめる。

 アルバムでは、前述のアグネス・チャン ベストセレクション〜メランコリーが無条件で指を折るべきもの。音質もかなり良くて特に70年代後半以降の録音は空気感が感じられる。
 懐かしのアグネスに浸りたい人、ぼくのように「妖精の詩」が聴きたい人は、1枚ものの「ベストアルバム」(ただしアルバムの曲はほとんど入っていないし、リマスタリングも鮮明だが潤いのあるアナログらしさが欲しい。しかも発売して時間がそれほど経過していないが入手が困難となっている)。

  惜しいのは、「ぼくの海/Children of the Sea」 がこのどちらにも収録されていない。いまのアグネスの活動につながる平和と子どもをうたった曲で、恋愛路線や青春路線とはまた違った「聴かせる、しかも切ない」楽曲なのだけれど、現時点では、アグネス・チャン CD-BOX (6枚組)でしか聴けないようである。

 アグネスは、90年後半には広東語のオリジナルアルバム、アメリカデビューのアルバムも発売されている。広東語のアルバムは特に楽しめたし、英語版はメッセージソングといっていい。



1枚ものベストはHMVで入手できる。



アグネス・チャンは、こんな本も書いている。食と音楽は切っても切れないもの。

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