吉野川第十堰〜市民がつくる百年の地域、川と生きる千年のしくみ (これまでの概要を1400文字程度でご紹介)

吉野川には江戸時代につくられた石積みの堰がある。この堰は江戸時代につくられ、今日まで少しずつかたちを変えながら旧吉野川へ分水の役割を果たしている。

第十堰を撤去し、巨大な可動堰ができることを釣り好きの徳島市民が知ったのが1993年夏のこと。まずはシンポジウムを開いて人々に知ってもらおうと吉野川シンポジウム実行委員会(姫野雅義代表世話人)が発足。以後数年にわたって趣旨に賛同する知識人らを巻き込み、ほとんど知られていなかった可動堰計画について、楽しいイベントやフォーラムを通じて市民に知らせた。その一方でデータを積み重ねて事業主体の建設省に資料の公開と建設の根拠をねばり強く求めていった。

1996年、全国から千人を超える参加者を集めて水郷水都全国会議・徳島大会が開かれ、建設省も交えて各分科会で活発な議論が行われた。第十堰の話題は、地元の人気ラジオ番組にもシリーズで取り上げられ、県民に広く知られるようになっていった。

1997年、国は建設の是非を審議する第十堰建設事業審議委員会を設置。しかし実態は事業推進のお墨付きを与える機関に過ぎなかった。吉野川シンポは、可動堰建設の根拠となっている洪水水位が安全ラインを越えないことを実証。そのデータを審議委員会に突きつけたが、建設推進派が多数を占める審議委員会では可動堰建設容認の結論が出された。ここから徳島市での住民投票へのカウントダウンが始まる。

「投票に行こう」の黄色いプラカードを持つ人たちに雪が積もっていく。道行く人たちは笑顔で手を振り、これまで政治に関わらなかった人たちが自らの意思で一人またひとり運動に加わっていく。「みんなで決めよう」が合い言葉。

1998年12月2日深夜、署名集めが終わった。選管によって確定した有効署名総数は105,535人。徳島市の有権者の過半数に達していた。市議会によって条例案は一度は否決されたものの普通の市民が市議会議員選挙に立候補し、市議会勢力を塗り替えて可決した。

2000年1月23日、ようやくたどりついた住民投票で可動堰反対が9割を占めた。地方自治法に則って示された民意は重い。小池徳島市長はただちに建設反対を表明した。

そして2000年8月、与党3党は可動堰計画を白紙凍結と決定。最初のシンポジウムが開かれてから8年目のことだった。

しかし国土交通省は「中止」を明言せず、可動堰計画の復活に含みを残している。市民は可動堰の代替案を自らの手で模索し、人と川との豊かな関係を築こうと「吉野川第十堰の未来をつくるみんなの会」(のちに「NPO吉野川みんなの会」に発展)を創設。大学の研究者を迎えて森林の保水能力(緑のダム機能)の研究がいまも続けられている。

徳島の吉野川に芽生えた市民運動は、そこに住む人たちが楽しみながら関わっていく生きた民主主義のプロセス。滔々と流れる大河のように、豊かな未来へつないでいく。

みんなの会では、今後の活動資金を広く求めています。詳しくは、NPO「吉野川みんなの会」へ。