休みの日に聴く「蝶々夫人


  休みの日が来ると、どこにも出かけず、スピーカーの前に寝転がる。そしてあのオペラに浸る。

 それは「蝶々夫人」。このオペラには,日本の旋律が随所に散りばめられている。お江戸日本橋がヨーロッパのオーケストラ(それも例えばウィールフィルで)で奏でられるとなぜか興奮する。
 いまから見ると、百年前の日本はきっと異国情緒(?)あふれる国。食べるもの、生活習慣の急激な変化により、日本人の骨格、顔の相は劇的に変わってしまった。もし、平成の日本人が明治初期に時間旅行できたら、どんなに物珍しいことだろう。
 
 あらすじを紹介すると…。
 長崎生まれの蝶々さん由緒ある家系であったが、父の切腹もあっていまは没落している。その蝶々さんをアメリカ海軍の中尉ピンカートンが見初める。ピンカートンは現地妻の快楽を蝶々さんに求めただけで結婚生活を深くは考えていない。友人のシャープレス領事はピンカートンのそんな態度を批判する。

 婚礼の日、蝶々さんが丘を登ってくる場面、お供の友人たちの賛美のささやきが幾重にも繰り返されるさざなみのよう(ドビューッシーか?と思えるようなファンタジーで)。
 蝶々さんもまた、花や海をめでながら胸をときめかせて坂の上の家(ふたりの愛の巣となり、後に悲劇の場となる)をめざしてしずしずと上がってくる。聴いているぼくも現実を忘れ、胸の奥がむずがゆくなるような幸福感に包まれる(このまま終わればいいのに)。

 結婚式に先立ち、蝶々さんは、祖先の魂が込められているという仏様を捨てる。あなたの国の神様に身を委ねるという意思表示をした蝶々さんはもう戻れない。自分一人で決断して自らの退路を断ってしまった。「運命に従って」のけなげな蝶々さん。フレーニの可憐な歌唱にうっとりしてしまう。
 おごそかななかにもほほえましい結婚式の終わりに、宗教を捨てたことに怒った親類の僧侶が乗り込んでくる。罵りを受けて蝶々さんは顔を覆い泣き崩れる。しかしピンカートンのなぐさめに徐々に安寧を取り戻していく。

 夕闇が訪れ、いよいよ第一幕の見せ場、愛の二重唱が幕を開ける。プッチーニは蝶々さんのために世にも甘美な旋律を用意し、30代後半のフレーニとパヴァロッティが(まるでこれまで封印していたかのように)綿綿と伸びやかな歌唱をつくす。
 夜のとばりに包まれる頃、蝶々さんはおずおずと「可愛がってくださいね」とささやく。「物静かで地味な人柄」の蝶々さんだから、媚びを売るのではなく、嘆願するのでもなく、気品と甘えを混ぜながら徐々に盛り上げ、「大海のように深い愛情を…」と結ぶ(こんな場面でオーケストラを従えてヒロインを抱きながらうたってみたいと思うのはぼくだけではなさそう)。
 「たくさんの星に見つめられている」と恥じらう蝶々さんに、「みんなねむっている」と誘いかけるピンカートン。静かな夜にすべての祝福を受けて、これからふたりの夜が始まる。二重唱は高音を登り切って締めくくり、星空(オーケストラ)さえも、もうこれ以上は…とグロッケンシュピールの響きとともに夜の静寂に落ちていく。
 第一幕で効果的に使われるグロッケン(鉄琴)は、最初、蝶々さんが登場の場面で、次に婚礼の神父の読み上げの場面で、最後は愛の二重奏を締めくくって使われる。蝶々さんを西洋と東洋を結びつつ、蝶々さんを祝福するかのようである。第一幕の蝶々さんの幸せの絶頂で時間を止めておきたい。けれど、しばらく休んで第二幕に手を伸ばしてしまう。

 続いて第2幕(CDは2枚目)。ときは流れ、ピンカートンはアメリカへ帰国し、その帰りを女中のスズキと待ちわびる蝶々さんという場面。
 コマドリが巣を作る季節には帰るというピンカートンの言葉を信じて待つ蝶々さん。スズキにはそれが信じられず、蝶々さんを案じて涙ぐむ。蝶々さんは彼が帰ることを信じて疑わず、スズキをたしなめ、有名なアリア「ある晴れた日に」を披露する。

 この歌には、蝶々さんの一途さ、無邪気さはもちろん、自らを鼓舞するように、小さな希望を信じる諦念にも似た決意がある。歌手は、凛とした気品とすがりつくような思いを秘めて、決して語りすぎず、嘆き節にならず、音楽に身を任せてほしい。「美女桜のような可愛い奥さん」とあの人が言ってくれた言葉をかみしめる蝶々さんの誇りさえ感じられる。

 ピンカートンの手紙を携え領事が訪ねてくる。「蝶々夫人」と呼びかけると「ピンカートン夫人です」と訂正するけなげな蝶々さん。「作者好みの男に従順な悲恋のヒロイン」「時代錯誤の女性観」などの意見もあるかもしれない。それでも、洋の東西、時代を問わず、蝶々夫人が人々の胸を打つのはなぜだろう? ぼくにはいまでも蝶々さん(のような人)は世界中に、そしてぼくの身の回りにもいるように思える。
 
 夫の手紙を読むシャープレス領事の言葉に、いちいち相づちをうち、感情を移入する蝶々さん。「まあ、なんてやさしい言葉」のフレーニの歌唱は蝶々さんの思いが乗り移ったかのよう。
 蝶々さんの態度を見て領事は真実を告げるべきかどうか苦悩する。「もし彼が帰ってこないときはどうしますか?」

 蝶々さんの受けた衝撃は深かった。息も絶え絶えに事態を受け止める。死ぬかと思った蝶々さんであったが、ピンカートンとの間にできた青い眼の子どもを連れてくる。その誇らしさ。
 領事が帰り間際に子どもの名を尋ねると、いまは「なやみ」だけれど、夫が帰宅すれば「よろこび」に変わると答える。

 領事が帰ったあと、蝶々さんはアメリカの軍艦が港に停泊していることに気付く。「ある晴れた日に」で夢にまで見た彼の軍艦がとうとうやってきた。蝶々さんははしゃいで庭の花を全部摘んで部屋中を飾ろうとする。
「たくさん涙を土の上に流したけど、今度は土がお花を返してくれるわ」
 そっと言葉を置く蝶々さん(フレーニ)のやさしさ(歌詞対訳があるからわかる)。女中のスズキと蝶々さんが奏でる「花の二重唱」は第二幕の憩いの場面。

 蝶々さんは、婚礼の時の帯を締め、あの日の赤いケシの花を髪に着けて障子に穴を空け、朝までピンカートンを待ちつつ眠りに落ちてしまう。ここで第二幕の第一場が終わる。
 第二場では、ピンカートンがアメリカで結婚していることを悟り、子どもを託して蝶々さんは自害する。



 このCDは、若きフレーニ(蝶々夫人)とパヴァロッティ(ピンカートン)、そして磨き上げた美音で支えるカラヤンとウィーン・フィル。歌手、オーケストラ、録音(1974年だが臨場感は失われていない)と三拍子揃っている。奇しくも、フレーニとパヴァロッティは同じイタリアのモデナで同じ年に生まれ、双方の母親が同じ職場で働いていたという。当時はふたりとも三十代後半のはず。

 オペラは敷居が高いなどと思わず、何度か聴いて自分の宝物にできれば、人生に楽しみが増えることになる。 
 最初は歌詞対訳を見ながら物語の流れ、印象的なフレーズを覚え、しだいになじみが出てくると、目を閉じて耳で受け止める。言葉は違っていても人間の感情表現に国境や時代はないはず。

 蝶々さんは15歳のかれんな少女という設定だから、舞台では肥ったおばさんが配役されると違和感がある。時代考証、民族考証が日本人の目から見ておかしい部分が散見されるかもしれない。
 オペラはおとぎ話でいい。自分の人生と重ね合わせることで余韻をかみしめることもできる。第一幕の愛の二重唱など、恋人との初めての甘美なときを重ねてしまう人もいるだろう。

 仕事をしていて、頭の中にアリアが響いていることに気付いた。90年代にミュージカル「レ・ミゼラブル」を見るために大阪の梅田コマ劇場に何度も足を運んでいた。半年間は、寝ても覚めても道を歩いていても「レ・ミゼ」が鳴り響く。ミュージカル中のほとんどの楽曲を日本語と英語で歌えるほどだった。ああ、あのときの感じと同じだなと気付いた。オペラもまた楽しさ(毒)を持っている。

 蝶々夫人は、プッチーニ自身がもっとも愛した作品といわれている。作者が夢中になってつくり、その作品に作者が夢中にさせられているようだ。そんな作者と楽曲の思い入れ、結びつきを味わうのもこのオペラの魅力。
 蝶々さんは物語のなかでは幸せになれなかったけれど、プッチーニは蝶々さんのために全精力を傾け、蝶々さんのためにつくった作品。観客は、うっとりしながら、はらはらしながら、最後は蝶々さんに涙する。音楽的にはオペラ至上もっとも幸せなヒロインといえるかもしれない。

 CDの蝶々夫人は3枚組が多い。1枚ごとに食事をしたり、ワインを飲んだり、散歩をしたりなどして楽しめば、半日の過ごし方として悪くない(抜粋したハイライト盤ではせっかちでスローライフにならないでしょう)。ぼくはきょう2回続けて聴いた。
 休日の「蝶々夫人」は一週間の乾いた心に、しっとりとした感情を呼び起こすかけがえのないひとときになっている。


プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」全曲


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