『屋久島紀行〜楽園の扉を開く
 
 一九九三年十二月、屋久島は、白神山地とともに、ユネスコの世界自然遺産に登録された。国立公園区域、文化財保護法の適用を受ける地域、森林生態系保護区域などと重なりながら、幾重にも保全されている。
 屋久島は、九州最南端佐多岬の南約七十キロメートルに位置する、東西約二八キロ、南北約二四キロ、周囲一三二キロ、面積約五〇二平方メートルの島である。島そのものが隆起した花崗岩ともいわれる屋久島には、九州最高峰の宮之浦岳をはじめ、九州の高峰上位7つをしめる千八百メートルを越える山々が連なる。その主稜を総称して奥岳という。奥岳は各集落にとって信仰の山であり、奥岳に参りすることを「岳参り」と呼んだ。今 でも、集落ごとにお参りは行われ、岳参りに出た人をふもとで待ち受け、祀りごとをする。
屋久島は水の島である。平地の降雨量三千〜四千ミリ、山間部では八千〜一万ミリに達し、インドのアッサム地方に次ぐ世界最多雨地域となっている。千メートルを越える山が四六座を数え、花崗岩の岩肌を下り落ちる一四〇もの川は、無数の滝を形成しながら海に注ぐ。




 車でわたる(初日)

 愛媛の八幡浜からフェリーで大分の臼杵にわたり、そこから九州を横断するかたちで阿蘇カルデラを通過。熊本ICで九州自動車道に乗り、鹿児島ICで降りる。宮崎へ南下すれば意外に距離は長く、宮崎〜鹿児島間の国道一〇号線があまり流れない。しかも高速道路の熊本〜鹿児島間と、宮崎〜鹿児島間は距離にそれほど差がない。一度横断して南下するのが早いのだ。夜中に小松島の自宅を出てから一四時間、ようやく鹿児島港に着いた。一二年目を迎えたワーゲン・ゴルフは快調。徳島を出たときに満タンにした燃料が、約六百キロを走って鹿児島に着いたときには1/3ほど残っていた。一リットル当たり十五〜十六キロメートルぐらいか。


 島にわたる(二日目)

 鹿児島港に着くと、港内の市場食堂へ入った。地元客ばかりで満席だった。みんなが食べているものを指して「あれと同じもの」といって注文。それは、新鮮な魚のさしみが食べきれないほど盛られたさしみ定食。時価千二百円だった。
 フェリーで屋久島へわたる。島への負荷、経済効果を考えると、車の乗り入れは控えたほうがいいが、観光地以外の場所に行きたかったこと、滞在日数の関係で荷物が多いこと、車内泊ができること、などからやむを得なかった。
 錦江湾を出ると、飛び魚が跳ねる。船に驚いて、海上すれすれを百メートルぐらい飛ぶ。最初は鳥かと思った。
 ぼくにはある種の精神感応力がある。「イルカさん、出ておいで」と念じた。それから数分後、波間に尾が舞い上がった。二頭のイルカが船から二百メートルぐらいのところでデモンストレーションを始めた。イルカはしばらく遊んでいたが、やがて海に消えた。鹿児島〜屋久島間の航海中、イルカを見たのはこのときだけだった。ぼくは「ありがとう」の気持ちを送りながらシャッターを切った。

 宮之浦の港を出て南へ下る。周回路から五分ばかり入ったところの沢沿いにある、楠川の温泉に入った。屋久島では、道路の脇は原生林となる。手をのばせば届きそうな谷川を窓から見ながら、ぬるめのひなびた温泉が長旅の疲れを癒す。入口で番をしていた女の子に、この辺りでテントを張れそうな場所はあるかと聞くと、わからない、という。彫りの深い顔で内地の人とは違うと思ったが、言葉を聞くとフィリピンの人かもしれない。
 奥岳に降る雨は年間一万ミリに達する。単純計算では一日三十ミリ弱の雨が降る。雨が降らない日もあるので、どんな降り方をするのか想像がつかない。翌日は天候が安定していると予想し、初日の晩に、宮之浦岳の南側からの登山口、淀川(よどごう)登山口に向かった。途中の小屋で食事を作り、そのまま車中で寝た。静まりかえった闇のなか、なかなか寝つかれない。あまりにも静かすぎるので落ちつかない。人工の暗騒音が無意識のうちに子守歌になっている普段の生活に気づく。


 宮之浦岳をめざして(三日目)

 午前六時四十分、登山口を出発。どんな森が待ち受けているのかわくわくする。半時間ばかりで淀川小屋に出た。この小屋のまわりには水場がある。小屋を過ぎたところに吊り橋があり、視界が突然開けた。そこには見たこともない美しい川が流れていた。安房川支流の荒川、そのまた支流の淀川(よどごう)である。

 それは深山に突然現れた桃源郷だった。左岸の木が倒れて覆いかぶさりながらも、白い砂を敷きつめた床にたゆたう水は源流の姿態を見せず、朝の光が射しこんだ川面はいっそう輝き、樹木の影を落とした水は緑に沈んでいた。緑と白に分布しながらこぼれんばかりに水をたたえている。やがて前方にヤクジカが現れ、水を飲みだした。生まれたままの川の姿だと思った。

 宮之浦岳へは、一泊二日か、二泊三日の縦走路として登頂する人が多い。しかし、翌日の天候の悪化を予想して、一日で往復することにした。天気は快晴。高山湿原の小花之江河(こばなのえご)、続いて花之江河(はなのえごう)で小休止。ここからしばらく上りが続く。

 やがて森林限界を越え、笹の絨毯と石灰岩の巨岩が広がる尾根のトラバース道に変わった。今が盛りのヤクシマシャクナゲ、ところどころの湧き水と湿地が登山道を彩る。出発して四時間、宮之浦岳一九三五メートルの山頂に着いた。
 西には永田岳の雄姿、その向こうに口永良部の島影がかすんでみえる。北東には巨大杉があるといわれる尾根がなだらかに続き、小杉谷の北斜面が覗いている。地元の人の話では、山頂で三六〇度の展望がのぞめる好天は、一月に三日程度とのこと。山頂で二十分ばかり滞在した後、下山する。

 バックパックは六五リットル。四国ではほとんど使うことのない大きさである。石鎚山と三嶺(高知県フスベヨリ谷ルート)で使ったぐらいか。そのまえは、北アルプス、南アルプスの縦走のときに活躍したぐらい。ビバーグに備えてシュラフや非常食を詰めている。
 登山道は湿潤で、水が流れている箇所が多く、雨になるとしばしば徒渉が困難になる。十年使っている登山靴は足にはなじんでいるが、底はすり減っていて滑りやすい。ところどころ擦りきれたこの登山靴にはほんとうにお世話になった。もしかして、今回の屋久島行が彼にとって最後になるかもしれない、と思いつつ眺めていた。

 ぼくはどちらかといえば、山よりも、川・海が好きだ。幼い頃から自然のなかで遊んでいた。グッズを満載して4WDを乗り回す「アウトドア」とは本質的に違う、と思う。ぼくにとって海・山・川は、遊びの対象というよりも、生活そのものに近い感じがする。川について考える機会が多い生活を送っているが、その向こうに見えるものは二一世紀だと思っている。それは自然保護運動ではなく、循環する時間を取り入れて、自然と共に生きていく旅なのだと思っている。水着とゴーグルをポケットに入れて、世界中どこででもこの身ひとつで遊ぶ、思想よりも実践の人間でありたいと思う。

 午後からは天候は悪化すると予想していたので、下山を急いだ。それでも、フィルムを二本撮影していた。とはいえ、上りで快調に飛ばした負担が少しずつ膝に来ていた。足をかばいつつ、がまんの下りとなった。淀川小屋まで戻ったところで、淀川の清冽な流れで泳いでみようと思った。疲れた筋肉を冷却するとともに、尾根筋で直射を浴びて熱くなった頭を冷やしたいと思った。
 水へ入ったが、気持ちいいと思ったのは最初の十秒間で、すぐにつーんとしてきた。痛くなるほど冷たい(四国の海は、実は五月から普通の感覚で泳げる。もっともいい季節は夏ではなくて九〜十月)。
 結局、十五キロメートルの山道を、二十キログラムの荷を背負って、実歩行七時間強で歩いた計算になる。冷水にひたした脚は元気を回復した。この日は、島の南にある栗生(くりお)のキャンプ場に野営する。これより先、島の西側には一軒の集落もない。


 雨また雨・・・屋久島川物語(四日目)

 前日の無理な行程がたたって足の具合が思わしくない。踏みしめるとけだるい。雨が幸いとばかりに車でまわってみる。
 五月〜六月は屋久島でもっとも雨が多い。けれど、あえてその時期を選んだ。キャンプ場で居合わせた連中は、雨の屋久島が好きだというぼくに首をかしげた。テントを早々に撤収して、島の西側を回るために出発した。
 この日の午前は曇りときどき雨、午後からは土砂降りとなった。栗生からすぐ北にある大川(おおこ)の滝は水量が多い。滝は海から一キロ上流にある。滝を見たあと、川沿いの歩道をたどって海まで歩いてみる。汽水域のまったくない川である。波が立っているところが塩水、それより上流は真水。海の直前でもアメゴが釣れそうな川である(魚影は見えなかった)。川には中州があり、針葉樹も広葉樹も無秩序に生えている。ぼくはこの中州が気に入った。

 屋久島の川は雨でも濁らない。それは島全体が花崗岩でできており、川底も一枚岩だからである。それゆえ水の色は、花崗岩の石ころを反映してオリーブグリーンとなる。
 屋久島の急峻な地形は、無数の滝を持つ。鯛の川の河口にあるトローキの滝は、海に直接落ちている。日本には、知床とここにしかないそうである(実は徳島にもあるが場所は秘密!)。屋久島には滝が多く町から一歩入れば原生林の沢登りとなるため、河口から尾根までの川の遡行ができる。これは一般向きではない。ルート開拓の記録を見ると、命がけであったことがわかる。

 さらに時計まわりに進める。西部林道(舗装されている)は海の崖の上を走っている。山側には広大な照葉樹林の原生林が広がり、世界遺産に登録されている。屋久島の真価は、急峻な崖にはばまれた人跡未踏のこの照葉樹の森にあるといわれる。車をときどき止めて山を眺めるけれど、どこまでも続いている。道端には不思議なかたちの植物が目に付く。
 屋久島灯台を通過すると、島の北西部にある永田の集落に出た。栗生を出て久しぶりに見る人家である。島を時計にたとえるなら、宮之浦港は1時、安房は4時、尾之間は6時前、栗生は7時過ぎ、永田は10時の位置にある。そして島のほぼ中央に宮之浦岳がそびえている。
 ウミガメが上陸する永田浜、いなか浜を通りすぎる。高知県東洋町の生美海岸のような浜だ。でも、四国の海だって負けていない。

 屋久島第三の流れ、永田川を上ってみる。といっても川沿いに道はない。川に沿って道があり、町や村があるのが普通である。ところが、屋久島にある一四〇余りの川のうち、川沿いに道があるのは、宮之浦川、白川などであり、それにしても河口から三〜四キロぐらいまでである。屋久島一の大河、安房川に至っては、河口に掛かる安房橋から上流を見ると、満々とたたえた水が両岸の照葉樹林の岸を洗っている。道もなければ河原もない。カヌーなら上れると思うが、地図を見ると河口から十キロぐらいのところに滝の記号がある。安房川にしても宮之浦川にしても、海部川の半分強の短い川であるが、吉野川中流域のような豊かな水量を持つ。しかもそのまま飲めそうである。
 安房川には尾立ダムがある。これが屋久島で唯一のダムで、島の電気を賄っている。ダムへ車で行くためには(川沿いに道がないので)舗装していない林道を隣の尾根筋からたどる。山の保水力がしっかりしているせいか、ダムにつきものの水の濁りは感じられない。
 永田川の橋(河口から一・五キロ)から下を見ると、アユが無数に泳いでいる。マス科の魚もいそうだ。小雨の中、ルアーを投げてみたが、かからなかった。橋の上から眺める永田岳がかすんでいる。

 屋久島の川は水は澄んでいる。しかし、河原がない。川沿いに人の住む集落がない。たまにはそんな川もいいけれど、川で遊ぶ場所がない。やっぱり四国の川がいい。幼いころ、つくしを取った那賀川の小石の河原、毎日泳いだ勝浦川江田の潜水橋、広々とした吉野川中流の河原、そして一晩中、起きて焚き火を眺める海部川桃源郷…そういえば、明日はアユの解禁日である。

 港を出てすぐにある(財)屋久島環境文化財団に立ち寄る。ここでは一時間に一回程度、二〇分のビデオを上映している。巨大なスクリーンに、陸からでは見えない目がくらむような屋久島の空撮映像が繰り広げられる。これは必見だ。この島の唯一無二の個性を鮮やかに見せてくれる。

 雨は地面をたたきつけるようにますます激しくなる。志戸子のガジュマル林に来た。木根のからまったガジュマルは、太平洋戦争の兵士の気分にさせる。テントは諦めて、民宿「八重岳」に予約を入れる。ここは山屋がよく泊まる。一泊二食六千円で料理はかなり良い。


 縄文杉に会う(五日目)

 八重岳の主人は言った。「登山届けは出しましたか?」「いいえ」「じゃ、出してください」。屋久島では登山届けを警察に提出しなければならない。そして下山すれば連絡を入れる。厳しい環境を持つ山岳は過去に何人もの遭難者を出してきた。
「午後からはだいじょうぶでしょう」と主人。その助言を受け入れることにした。午前中は、有名な「千尋(せんぴろ)の滝」に向かう。宮之浦町(島の北西部)から、千尋の滝がある尾之間町(島のほぼ南)に向かう途中で太陽が顔を出した。滝へ向かう道を分かれて山道を三時間ばかりたどれば、有名な本富岳(もっちょむさん)がある。本富岳は尾之間の町の後ろにそびえる、大きな岩を持つ急峻な山である。この景色、どこかで見たことがある、と思ったら、かつて一月滞在した南太平洋、ボラボラ島のオテアヌ山とヴァイタペの町そっくりだ。
 本富岳は、独特の形をしている。町の裏手から急激に高度を九四四メートルまで上げる。角度を変えて眺めれば、男根にも女陰にも見えるといわれている不思議な山である。その途中の千尋の滝は、その周囲が花崗岩の一枚岩でできている典型的な屋久島の滝で何度見ても飽きない。

 ぼくは木が好きだ。何の変哲もない枝を山から拾ってきて部屋に置いておく。屋久島へ来た最大の理由は、屋久杉を見たかったからだ。
 屋久杉は、標高五〇〇メートルから一五〇〇メートルの間に分布している。杉の寿命は三百年程度とされるが、屋久杉は二千年、三千年と長寿を誇る。それは、この島が多雨地帯なので森林内が高い湿度を保ち、苔類が幹や枝を保護し、杉を水中保存している恰好になっていること、普通の杉の六倍の樹脂を持ち、そのため高い防腐効果があり、虫を寄せつけないからだとされている。江戸時代の切り株が未だ腐らずに土中に埋まっており、これを土埋木と呼んでいる。現在の屋久杉材を使った家具類は、土埋木を掘り起こしており、新たに伐りだしているわけではない。そのため将来は屋久杉材が市場から消える可能性が高い。

 屋久杉は、雨と強風にさらされることから背が低くずんぐりしている。そして栄養に乏しい花崗岩の地味に育つため、ゆっくりと育つ(秋田杉だと樹齢三百年程度で直径一メートルを越えるが、屋久杉は樹齢千年かかる)。そのため、軽いが年輪が密である。
 屋久杉は、実は固有の種類の杉ではない。内地の杉をここに植えると屋久杉になるし、屋久杉の苗を内地に移植すれば成長の早い普通の杉に育つ。特異な気象条件が育んだ杉といえる(これには異説もある)。
 島では、樹齢千年を越えるものを屋久杉と呼び、それ以下を小杉という。ちなみに、うちの神棚は屋久杉であるが、美しい杢目は眺めていて飽きることがない(今買えば、市価で十万円はするだろう)。

 岩川貞次氏(発見当時、上屋久町役場勤務)は、島の民族、民話に詳しい人として知られていた。昭和四一年に縄文杉を発見する前から、「法条山(小杉谷から高塚山に至る一帯の総称)には大人一八人で抱えるほどの大杉がある、との言い伝えを知っていた。発見から半年後の昭和四二年元日の南日本新聞では「生きつづける、縄文の春」とうたい、一面を費やして紹介している。
 山に入った南日本新聞の記者はこう語っている。「初め山が続いているのかと思った。斧を当てれば、今にも血を吹き出しそうな、すさまじい存在感があった」。下ばえの木が密生した切れ目のない深い森のなかで、幹はところどころ、みずみずしい苔に覆われていた。辺りの森全体が苔に包まれた蘚苔林(モス・フォレスト)だったという。

 縄文杉は、樹齢七二〇〇年説が定説となっていたが、X線や放射性炭素法で測定した結果、古い木を若い木が包み込んだ三本以上の合体木ということが判明した。空洞部分から採取した組織の年代は二一七〇年と出た。ただし、古い中心木については木を傷めるので測定できなかった。中心木の年代は相当古い可能性もある。しかし、六三〇〇年程前に南九州全域を襲った大火砕流のため(関東にまでその痕跡を残すほどの規模であった)、島の森林は全滅したとの説もある。
 一方で、南側斜面に生えていた縄文杉は火砕流の直撃を免れ、森の仲間たちとともに七千年の命脈を保ってきたともされる。火砕流に見舞われながら、例えばサルやシカなどの大型動物がどうして生きのびたかは解明されていない。

 数千年の生命を静かに養ってきた古木のたたずまいも、登山者の増加により環境が一変した。根が露出し、表土が雨で流されて枯れ死の怖れが出てきた。今では、展望台の上から眺めるだけで、木に触れることはできない。それでいい、と思う。多くの登山者は、記念写真を撮ればさっと通りすぎてしまうだけなのだから。
 岩川氏は生前「縄文杉より大きな木を知っているが、縄文杉がさらし者の扱いを受けているうちは、だれにも明かさない」と怒りと苛立ちを込めて語っていたという。それ以後、たくさんの人が幻の巨大杉を求めて原生林に分け入ったが、未だ発見されていない。ただし、地元の人は縄文杉より大きな木があることを確信している。というより、知っていて、黙っているのではないかと思う。

 明と暗をもたらした縄文杉の発見に対し、縄文杉を伐れ、という人も出てきた。阿蘇九重国立公園管理事務所長であった羽賀氏である。縄文杉見たさに山に入る登山者が、山の生態系に影響を与えているというのだ。「学術的な視座から屋久島を見たとき、より重要な価値は、実は縄文杉や大王杉という固有名詞を授けられた固体としての老杉ではなく、微細なバクテリアから屋久杉に至る無数の生物と無生物で構成された自然環境、すなわち生態系そのものなのである」と羽賀氏は言う。縄文杉を伐れ、という言葉は、森を愛するがゆえの苦渋の言葉であり、決して氏の本心ではない。これは、世界遺産に登録されて観光客が増えた一方、屋久島の自然に触れたいと思う人々すべてに突きつけられた課題となった。
 民族学者の実川氏はこういう。「自然を保護しようなどとは思わない。私たちが自然に守られながらともに生きている」。

 この島に住み着いた詩人の山尾三省氏の詩である。
 「祈りのことばは なかった
 祈りのことばは 霧
 あなたを飾る あなたの姉妹なる霧であった(中略)
 愛と業とは同じもの
 愛は霧 業もまた霧
 濃くなってはうすれ うすれてはまた濃いくなり
 生命を濡らす
 びろう葉帽子の下で
 山に登る
 人は意思ある水となり
 水は濡れて 山に沈む」(『山尾三省詩集』から「びろう葉帽子の下で その二十四」から抜粋)

  屋久島の山中に一人の聖老人が立っている
 齢およそ七千二百年という
 ごわごわしたその肌に手を触れると
 遠く深い神聖の気が沁み込んでくる
(中略)
 あなたが黙して語らぬ故に
 わたしは あなたの森に住む
 罪知らぬひとりの百姓となって
 鈴振り あなたを讃える歌をうたう(「聖老人」から抜粋)

 同じく詩人の松永伍一氏は、縄文杉を「抱いた」ため、うさぎのように山を駆け降りたという。それは「生理そのものに縄文杉を容れていた」からといい、縄文杉が見ている夢まで呼吸を合わせてみることができる「エロティシズム」の境地にまで達し、「愛を蓄えた者にはスピードがふさわしい」と語る。
 ふたりの詩人は、それぞれ、縄文杉を「生きつづけている神」だからこそ、仏に対するような信仰を人々から受けてはならない」と言う。この木を愛の対象にはしても、信仰のよりしろにはしない。
 縄文杉をめぐるさまざまな人の言葉の裏には、やはりこの杉に対する愛がある。それはこの地上でもっとも生きながらえている生命体に対する畏敬の念であるとともに、その生命体そのものを育んできた水の惑星に対する思いでもある。

 夢にまで見ていた。「縄文杉に会いたい」
 なぜだかわからない。ぼくを屋久島まで誘ったのは、彼かもしれない。テレパシーで呼ばれたように、何の計画もなくふらふらっと島に来てしまったのだから。

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