| 第1章 明日香へ | 第2章 南太平洋 | 第3章 四国 | 第4章 空へ | |||
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そらへ〜真空の海で魂が遊ぶとき どんどん年月は過ぎていく。できなかったことが実現し、できていたことができなくなってしまう。望むものが手に入っても、なお人は求めつづける。求める気持ちが、自分を中心の円となってぐるぐる回り続ける。渦はぶつかりあって融合したり、引かれあって反発する。 渦が同じ方向を目指す時、ひとつの潮流を作りだす。それがどんな方向に行こうとしているのか知りたいと思う。その流れに乗るとずいぶん楽になると思う。 しかし流れに乗ってしまうと、流れの外は自分にとって関係がなくなる。やがては渦を巻き込んでいる潮流そのものが衰退する可能性があったとしても気づかない。 渦は自分独りで回っているような錯覚を受ける。あるいは時としてその逆を意識しすぎて、必要以上に自制しすぎてしまうことがある。そうなると、潮流と渦は互いに監視しあう関係になってしまう。今、鳴門海峡をわたっている。 鯛が酒も呑まんのに酔うてもた 潮にのまれた鯛の運命 あらえらいこっちゃえらいこっちゃ 浮かれて浮いた鳴門のうず潮 渦と鯛との出入りがすんで 船を漕ぎだす漁夫の利よ。 (鯛とるんに道具はいらんでよ、網ですくいなはれ) 東西方向に平坦で、南北に高低があるとしたらコンパスは要らない。「北へ行く」の代わりに「上がる」という。神戸はそんなわかりやすい地形である。人々の生活空間がどんどん山をめざしているのが海から伺える。 大阪でミュージカルを見た。隣の席に天女のようなおだやかな表情をしている女性がいた。その心の微温状態が伝わってくるようだった。思い切って声をかけてみたら、神戸の女性だった。 坂を降りたところの、老舗の珈琲店でシナモンバターのトーストと、店のオリジナルブレンドを飲む。店の女の子が新聞を読みますか、と声をかけてくれる。まだ劇の余韻が醒めずにぼうっとしている。 ミュージカルは「レ・ミゼラブル」。ユゴーの原作にこんな雰囲気の詩があったような気もする。 宇宙をただひとつに縮小し、ただひとりを神にまで拡大すること──それは愛である。それは星に対する天使たちの挨拶である。 思うことは祈りとなり、肉体の姿勢がどうであれ、魂が跪く瞬間がある。無限を生きるためには、尽きることのないものが必要である。 離れ離れの恋人は、無数の空想によってその不在をまぎらわす。しかもその空想はふたりにとって現実である。 小鳥の歌、花の香り、子どもの笑い、風のため息、星のまたたき──。 太陽が作ったものすべては送りあうことができる。だが自然に言づけを頼む力とは何だろう。 珈琲をあまり飲まないのに、珈琲の味がわかるような気がした。最初に頬が熱い温度を湯気で感じる。鼻は香りの分子が蒸発する様子を捉えている。すると脳が、これは熱そうな液体だな、珈琲の香りだなと判断する。 唇がカップの厚みに触れると、舌の上を訪れる液体の温度を予感する。そして予想していたように暖かい珈琲の香ばしさが喉の奥へと広がっていく。舌の水平方向では、酸味と苦みが微妙に混じり合う味覚を感じている。 そこで一杯の水で喉を潤して、再び口へ運ぶ。今度はシナモンバターのこってりした艶やかな味が、パンのサクサクした触感とともに舌の上に通っていく。珈琲でさらっと流す。半分ぐらい飲んでしまうと、ミルクを少し入れる。かき混ぜないでミルクの渦の動きを楽しむ。 「珈琲で遊べるとは思わなかった」 「そう? 私はよくこれで占いをするのよ」 暮れゆく街の喧騒を背中に感じながら、橋の上から川面を眺めている。クリスマスの電飾をまとって水面に映える木の影。街の空気が肌に感じられる。雪がなくてもいい、暖かい時間を共有したい。そんな仮想体験のクリスマスを彼女は何度か過ごしたのかもしれない。 揺れようとしているぶらんこ──。いつも何かにときめいている人はときめきに出会える。それはときめいているから。 わくわくする心、わき上がる泉、円舞曲に乗って現れた春の妖精、うっすらと笑みを隠した視線をふりまく。でも曲の節目にリタルランドを忘れない。 雪折れ竹の傍らから人知れず角ぐんだ芽、日増しに強まる陽光に羽を伸ばし、野辺の宴を日数かぞえて待っている。その楽しさ極まるとき春は訪れる。 春の宴、探しに行きませんか。 行こうと心に決めた日から、ぶらんこは揺れている。 キーボードから手を離し、てのひらを返して腕時計に目を落とす。みんな営業に出掛けていった。残っていた営業部長も出張して営業部の留守を預かるは彼女ひとり。得意先への招待状の画面をいったん保存して、引出しのなかから、サムシング・スウィートを出す。それはミルキー。包みをほどいて口に放りこむ。あまさが口の中いっぱいに広がり、心なごむ。 電話が鳴った。慌てて舌の下に隠し、声をつくって受話器をすばやくとる。注文を復唱する弾む心をミルキーは知っている。 曇りの日のドライブ、憂鬱を吹き飛ばすように、どちらからともなく歌いだした。今日は3度目のデート、彼女の町から西へ2時間走ったところの高原へ向かっていた。彼は彼女の歌に聞き入っていた。田園の無人販売所で新鮮なトマト一袋を買い込んだところで彼女の歌は中断した。 トマトを差し出す彼女──。 そのとき灰色の空から雨粒が落ちてきた。歌の再開のきっかけは、エンジン始動とともに動きだしたワイパーのリズム。心の動揺を閉じ込めたまま、よく熟れたトマトがふたりの時間を取り持っていた。 木の十字架をくぐり抜け、蔦のからまる茶色の礼拝堂を通り抜け、坂を降りたところの七色の噴水の広場が待ち合わせ場所。よく磨かれたガラスの向こうに思い思いのポーズのマネキンが着飾っている。わずか一週間のいのちだけど、彼女たちは、季節の間の微妙な時間をひたむきに装いつづける。 抜けるような白い肌に似合う色は? 無造作に見えるような着こなしは──? 小麦色のからだを包み込んで見せるのは? 彼女たちの着るものは色あせることはない。スポットライトに照らされて誇らしげに視線を投げかける。それは、舞台が楽しくて楽しくて仕方がない女優の姿であり、いのち短し恋せよ乙女、明日の月日のないものを、と歌っているようにも見えた。 不思議な旅行 「クリスマスに予定は入ってますか」 「特に…」 「それなら、海に行きませんか」 実際は海に行かずに、煉瓦作りのレストランに行った。 「写真を撮ってもいい?」 冬の午後の光で彼女をやわらかく撮りたかった。でも、部分的に射し込む木漏れ日は予想以上に強く、彼女をキリンにしてしまった。 彼女が手を後ろに組んで口笛を吹く。その横顔の一瞬が固定される。85ミリf2・8。広角で無垢の椅子にすわって腕組みをしているところを、さらに標準レンズで小首をかしげた上半身の動きを収めた。 「あったかくなったら海に行こう」 「ここから近いの?」 「半時間ぐらい。ぼくだけのプライベートビーチがあって誰も来ないよ」 「ほんとう?」 店を出て彼女を送っていく帰り道、ちょっと変わった神社に行ってみようということになった。その場所にたたずむと軽やかな感じがするといわれている神社である。 その神社は、気延山から延びる尾根の中腹に位置する「天石門別八倉比売神社」。奥の小道を分け入り、山頂近くの茂みに五角形の岩が安置されている。 「この石、何か話しかけてくるような感じ!」 「ほんとだ」 「さわってみようかな」 「あっ!」 「変な恰好の人がおるっちゃよ」 気を失っていたらしい。気がつくと浜辺の船縁に寝ていた。声の方を見上げると、井桁の絣を来た若者が立っていた。その横に藍紫の矢絣の女もいる。 「死んどぅるかと思うたよ」 「手と足が別々についちょる着物は初めて見た」 「じゃっど、えい美童(みやらび)さん」 理解しにくい会話が頭上で交わされている。 (ここはどこ?) 一瞬のうちに何かが起こって、何がなんだかよくわからない。 「知っちゅう? 今日は若い衆組が毛遊びをする日ぜよ」 「わかいしゅぐみがもあしびをする?」 しばらく会話を続けてみてわかったことは、娘が精米をしているところへ、男が言い寄ってきて仲良くなる。それが若者たちが知り合うきっかけとなるらしい。そして気が合う同志が出掛けていって、一晩中うたい踊る。当然母親は娘を毛遊びに出さないが、こればっかりは親たちもやってきたこと。娘たちは気づかれないようにこっそりと家を抜ける。どきどきしながら迎えた初めての夜は、雪消の沢でふと顔を出した蕗の薹のように物馴れぬ様だったのだろうか。娘が身籠ったりすると、世話人や若い衆組が間に入って結婚を取り持つこともある。 毛遊びの日は、野良をしていてもそわそわして桶につまずいたり、思わず笑みが浮かぶのを親に勘づかれないようにする。時間の経つのが長く感じられる一日である。 お天道さんが西に隠れると、東の空に月が顔を出した。早く湯浴みして出ていかねぇあ。着替えは村はずれのお堂のなかに夕べのうちに隠しておいた。 月が氏神さんの木のてっぺんにかかる頃、あちこちで合図の口笛が聞こえてくる。木の下で行き合い、頭数が揃うと浜に出る。それから、月が山の端に隠れるまで一晩中うたい踊る。 さっきのふたりに名前を尋ねると、泰吉とカノといった。 「毛色の違う態(なり)しちゅう思たら、毛遊びかえ」 浜辺を煌煌と照らす焚き火。そして、灼熱の炎に負けじと青い光を晶晶と降り注ぐ望月。 ふたりの逢い引きはいつも樫の木の下。水汲みで豆ができたカノの手を泰吉が握る。好きで好きでたまらないから、つい力が入る。痛いっちゃよ、とカノが手を振りほどく。今度はカノが泰吉の腕に身を預けて頬をこすりつける。乙女の肌は敏感なんだからさっぱりと髭剃ってっちゃよ、とカノが所作で訴える。頭をかく泰吉。束の間の逢瀬に離れがたいふたりも、明日の太陽が顔を出せば、厳しい労働が待っている。 「カノちゃん、ぼちぼち行こか」 「うん」 細いうなじがうなずいた。月光がカノの横顔を照らす。ほほが紅潮して汗ばんでいる。泰吉はカノの袖を引いていく。裳裾の乱れを気にすることもなく、相見し人同志が、一組、二組と消えていく。焚き火で踊りあかす連中もいる。浜の明け方は寒い。砂の上には誰かが忘れていった帯があった。 「ここはどこだろう。日本にあんな風習があったっけ?」 「神社の裏山へ行ったところまでは覚えているけど」 喧騒に疲れたので、月が明るい砂利道を散歩した。焚き火で紅潮した顔のほてりを冷ましたかった。海から内陸へと向かうところに石段が設けられていた。高いところから海に浮かぶ月を見るのもいいだろうと石段を登っていった。 鬱蒼とした亜熱帯の樹木が月をさえぎり、玉なす露がうっすらと見える時刻になっていた。なおも進むと石標があった。井戸の跡らしき大きな石の配列には、羅針盤のような目盛りが刻んである。方角を知るためのものかもしれない。月の方角から時間を知るために石の上に立とうとした。すると、突然風景が変わった。 小意気な店先で、列をつくって順番を待つ女の子たちがいた。お目当ては、おいしいイタリアン・ジェラート。店舗の裏には畑があって、野菜やハーブを植えており、これがアイスクリームの材料になるらしい。当日つくった製品はその日に売り切り、売れ残りを持ち越さない。地元で取れた新鮮な牛乳を使い、添加物を加えず、素材をそのままジェラートにして出すという。なるほど、これはおいしい。牛乳のうまみがそのまま閉じ込められたバニラに、果肉を加えて清涼感あふれるトマトもある。 敷地には木炭を埋め込み、地下水の浄化に役立てている。建物の内外装は、地元の杉材を使っている。店舗の照明は省エネルギーのため蛍光灯を使っているが、開口部を大きくとって太陽光を取り入れている。杉が発散するアロマと四季の花が、空間に迫り出すように芳しい色香を発散させている。南にはテラスがあり、借景として、土手の向こうに急峻な山並みが望める。 店内に備えつけの端末機を操作して電子新聞を読むことにした。「今日のトピック」をクリックすると、変わった記事が目についた。 「出生率低下、推せん結婚制度導入」 合計特殊出生率の低下(〇・八六=二〇〇九年国生省統計) が著しいことに鑑み、政府は省庁間を越えた特別対策委員会を設置することを決めた。 一部の省庁ではすでに単独の取り組みが始まっている。健康科学省は、環境ホルモンと呼ばれる内分泌系攪乱物質をリストアップし、新規の化学物質の開発を中止するとともに、現在使用されている数百万種ともいわれる化学物質の削減を目標とした行動計画を策定した。環境省と国土保全省は共同で化学物質汚染の実態調査を行い、二年後をめどに報告書をまとめる。国民生活省が委嘱した結婚問題調査委では、結婚適齢期の男女を対象に、結婚紹介産業等で実績のある心理テスト、占星術、四柱推命等を適宜取り入れ、さらに遺伝子検査を加味して適合する可能性が高い配偶者を紹介し、紹介者との婚姻に関して一定の生活補助金と義務教育における嫡子の学費の一部免除等の法制化を答申した。その答申を受けて同省は法案のとりまとめに着手し、次期国会に提出する予定。 社説ではさらにその背景や過程を解説している。 出生率の低下は生産力の減少のみならず、人類存続に関わる重大な問題──。健科省に続いて国生省の結婚問題調査委の答申は、そうした危機感を背景にしたものといえる。 しかし、なぜ結婚しないのかに関して、「余暇が足りない」「結婚観の多様性を反映している」「子育ての負担が大きい」などの指摘も繰り返されたが、抜本的な施策が不可欠との認識では一致した。 ヒトの生殖能力の著しい低下に伴い、「種の保存率」が三〇年前と比べて1/4に落ち込んでいる(国生省)との衝撃的な報告が先月なされたばかりである。次世代に向けて効率的な遺伝子の組み合わせを模索することは究極の選択ともいえるが、一方では「国民の不安を煽るだけ」「優性遺伝子の選別につながる」との批判も根強い。化学物質のさらなる削減の推進など、環境改善に向けて早急かつ効果的な取り組みが急がれる。「人類の春」を再び取り戻せるかどうか、私たちはとてつもなく重い課題を背負っている。 「日付が合っているとしたら、未来にいるのね」 「なんか変だ…」 「どうしたの?」 「マムシだ。もう一度調べてみよう」 「マムシがどうかしたの?」 「とにかく、現代へ戻ろう」 「どうやって?」 「ええと…」 「この画面であの神社を探してみたら」 体にセンサーを着けてスコープを覗けば、三次元の疑似映像が体験できる。 「いいぞ、境内が出てきた!」 「確か、右手の奥から裏山へ通じる小径があったはず」 足をぶらぶらさせて少しずつ移動する。木につかまろうと手を伸ばしたら、机でうちつけた。 「痛い! でも、あった、あった」 ついに見つけたあの五角形の岩。画面の中で岩に触れてみた。すると…。 「ほら、戻ってきた」 現実の八倉比売神社が目の前にあった。こうして不思議な時間は終わった。 「またね」 車を西へ走らせ、高層マンションが立ち並ぶ新興住宅地に来た。道から少し入り、工事現場に差しかかったところで車を止めた。 空を飛ぶ前に研究所を呼びだしてみる。明瞭な音声が返ってきた。 「明日香さんと代わってください」 「あいにく出張しております。失礼ですが、どちら様でしょうか」 声ですぐ未来だとわかった。 「名ピアニストのファンです。思い出してくれましたか」 すぐにぴんときたらしい。 「お久しぶりー。お元気でしたか?」 「もちろんです。また生演奏聞かせてください。ところで彼女はどこまで?」 「明日香村へマムシを生け捕りに行ったんですよ」 「何のために?」 「マムシの体内の残留化学物質と内分泌系や免疫系との関係を調べるみたいですよ」 「さすが、いいとこ突いてる」 その時、教授が割り込んできた。 「帰ったばかりで疲れているだろうが、これから新しい仕事をやってほしい。説明する前に通信を暗号モードに変えてくれ」 「変更しました」 その時、電波が途切れた。 「この車は、地球を飛び出します」 それは教授の声ではなかった。 宇宙の選び方 (誰なんだ?) 「あなたの知らない、身近な存在です」 心にメッセージが届いた。 「意味がよくわからない。説明してくれませんか」 「宇宙空間に出るにはそれなりの準備が必要です。あなたが来てほしいと思ったからここにいます。あなたの役割は宇宙に出てNASAの協力のもと、極秘に任務を遂行することですが、それはうまくいかないかもしれない。だから私がここにいるのです」 「ここって?」 その時、ディスプレイに顔が映し出された。見覚えのある顔ではなかったが、何となく親近感を感じた。 「地球を出るってどういうこと?」 「私を信じて。ふたりの心が一つにならないと翔ばない」 いったい彼女は何物だろう。信じるって、何を信じるのだろう。こうしている間にもどんどん移動しているようだ。 「地球の誰かと交信したい?」 問いかける彼女の声が次第に薄れ、少しずつ身体の自由が失われていくと、肉体にちぎれるような痛みを感じた。 優里が珈琲を飲んでいたその時刻、珈琲の中に文字が浮かび上がってきた。他人には単なるミルクの渦にしか見えない造形も、優里には何かに見えた。 (何だかわからないけど、胸騒ぎがする) 研究所では突然の連絡不通に教授を始め、みんなが心配していた。 「連絡を取り続けてくれないか」 その頃、明日香は捕獲用の罠を仕掛けながら目印の旗を建てていた。風が強い午後だった。旗がパタパタとざわめいていた。 明日香は空を見上げながら耳を澄ました。 (何だろう、この感じ) 「彼の存在が感じられませんか。目の前にいるような…」 (私に話しかけてくるのは誰?) 「もしかして、別の宇宙にいるのかも」 (別の宇宙ですって?) 「多重宇宙のひとつで、今よりさらに良い宇宙を求めて旅立っていったのです。無事を祈ってあげてください」 わが背子を大和へやるとさ夜ふけて暁露に吾が立ちぬれし 〔万葉集 一〇五〕 それはエアクリーナーのモーター音ではなかった。その音が何なのか考えることさえ忘れていた。ただ地面に水がしみ込むように耳に吸い込まれていった。 灯は消されることはなく、窓のないこの部屋は落ちつかないほど明るくもないが、洞窟で生活している気分にさせるほど暗くもない。本当はもっと暗いのかもしれないが、瞳が慣れてしまっただけなのかとも思われる。 ピシャ、ピシャっという水音に混じって、音楽が聴こえてくることがあった。 脳幹の神経に触れるホルンの軋み、その背後で優雅な旋律が聞こえる。突然のけたたましい金管に優雅な旋律は四散し、いつのまにか、濁った全楽奏が天に向かって咆哮する。その灰色の雲の後尾から再び優雅な旋律が顔を出す。しかしこれは表面的な美をうたう偽りの旋律にすぎない。だが、なんと陶酔的な美だろう。 水の音は、体内から血液を排出される時に出る音だったが、意識を失った人間には知るよしもなかった。その音は間近に聞こえてくる。目を動かそうとしたら動かず、目を閉じようとしても閉じられず、しかしなお、いっそう確信をもって響いてくる。 血液の流れを胸が感じるときには、やはり単なるモーターの音なのかと思うこともある。意識が音からそれた時には、肉体の痛みとともに現実感が蘇る。でも、これが自分の痛みではないと信じると、お湯につかったときのあの武者震いの感覚がした。そして、走馬灯のように過去の情景が次々と再現されていく。それだけにいっそうなつかしく、それぞれの場面の出会いや出来事に手を差しのべたくなってしまう。 「くじらがいるぞ 二頭もいるぞ」 くじらが打ち上げられた浜辺に、漁師たちは手に手に棒を持って集まってきました。母さんくじらは弱っていました。潮が引くとかんかん太陽に照らされて、ますます弱っていきました。こどものくじらは心配で心配ではなれませんでした。 「こいつは病気だぞ。病気のくじらの肉は売れないし困ったな」 漁師のおじさんたちも大弱り。母さんくじらの目から涙がこぼれました。 「助けてあげてよ」 見ていた子どもたちの目から涙がこぼれました。弱った身体で母さんくじらはこどもに水をかけ続けました。 「母さんのことは心配しないで、おまえは早くお行き」 潮はますます引いていき、母さんくじらは息絶えました。 (おかあさん!) 子どもたちの声に励まされて、こどもくじらは旅立っていきました。 ──小さいころ、よく見た絵本だった。 小さな漆のお碗にうどんと薬味が盛られていた。それはふたりの子どものためにお母さんが用意したもの。ところが子どもはすぐに飽きてしまい、箸を放り出すとテレビゲームに夢中になってしまった。 (うどんがつらいつらいって泣いてるよ) (だって欲しくないんだもん) 台所のゴミバケツの中でそれは鮮やかに光っていた。白いうどんは肌色に染まって湯気が立ちのぼっていた。うどんになる前は小麦粉や海の塩であったが、今では、お碗の中で頭と尻尾をくわえあったウナギのように横たわっている。それはほんとうに艶やかで美しく生きている存在感を主張したので、しばらく見とれていた。ハクサイの切れ端がひっくり返った亀のように背中を丸めてもがいていた。椎茸は全部食べられたのか、見えなかった。出汁昆布もうどんの下になったのか見えなかった。ゴミバケツの中で生ゴミになった今でも、食べられることを誇りにしていた彼らの喜びが無邪気に見えるようだった。 そのうち湯気が出なくなった。表面の水気と潤いは消え、どちらかというとしなびた質感に変わった。つい数分前までの生の輝きは失せていつもの生ゴミに戻った。 白球を追う足元は砂埃で泥まみれ。あいつも肩で息をしている。練習が終わって、頭から水をかぶる。 対抗列車待ち合わせで五分停車、夕方六時四八分。四人乗りの対面座席にくずれて座る。窓枠ごしの西の空を雲が横切っていく。網膜にピントを鋭く結像させ、瞳はできるだけ多くの光を集める。視線が遠くへ吸い込まれていく。そのとき、太陽の近傍で青空に消え入りそうな光のしみが見えた。 (水星だ──) 明日の元気がまた湧いてきたような気がした。 もう一度会いたい、やり直したい、と思う。そうすると散らばっていた無機的な音の粒子が意思を持ちはじめ、リズムは不規則性を生じ、抑揚がついて旋律を作っていく。それが耳元で鳴っている音楽なのだろうか。時間とともに新しい秩序に移行しようとする衝動を音楽と呼ぶなら、この音は音楽であり、誰の耳にも心地よく響くに違いないが、まわりに人がいないのが心残りだ。 髪の毛一本 血の一滴まで 地球に も ど す い の ち 閉じる 射手座のかなたの光よ 力を与えたまえ 万物森羅万象余韻を聴く 音が生まれて泡となり また消えていく 始まりもなく終わりもない 真空の海で魂が遊ぶとき 時間はゆらぎ 光となる 肉体から光が消え 精神から哀しみが消えた 沈黙が訪れた 波が打ち寄せる さらに長い時間が経過した すべての音が消えた、と思われたその瞬間、音の粒子が暗雲を集めて膨張し、管弦楽の響きとなってなだれ込んだ。忽然と姿を現したのは、第九交響曲、第一楽章だった。 リズムが精妙に踊るスケルツォはベートーベンの十八番。熱狂のあまり飛び込んだトリオでは歓喜の主題の断片と戯れるが、後ろ髪を引かれるリタルランドとなって、リズムの乱舞を繰り返す。 はるか高みからしずしずと舞い降りてきた花びら、限りない憧れを込めて手さぐりで天の花園を逍遙する。時間が止まりそうな深い呼吸に、天上の世界がこだまする。 天の和声は一足先に人間界の和声に置き換えられ、地上の愛の出現を待つばかりとなる。天と地の境がなくなったとき、温かい旋律がうたいだした。肌の温もりで何度も何度も誘いかけるように繰り返す。第三楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの幽玄に咲いた二つの花は変奏を重ねていく。 (このままずっと終わらないでほしい…) それなのに、夢幻を覚ます金管が高らかに鳴り、花は天上の余韻に消えていく。 雷鳴のような響きが沈黙を突き破った。そして、長い休止……あのなつかしい主題が糸を引くような弱音で開始されると、旋律は低弦から順次受け渡され、オブリガードで彩られながら楽器を集めて管弦楽の大河となった。 歓喜 それは神から発する美しい火花 楽園の遣わす美しい娘 思いのままに変奏をつなぎ、フェルマータを伸ばす。ついに人の声とオーケストラがひとつに合わされ、凝縮された歓喜が解き放たれていく──抱き合う人々。ソリストの声が空間に高く舞い静かに着地すると、最後のプレスティッシモに突入する。虚空の彼方から始まった宇宙は、生命とともに新しい次元に向かい、光の空へと帰っていく。 気がつくと、無我夢中で指揮をしていた。激しく放たれたフォルテ、渾身の気を込めたピアニシモ、祈るように胸に抱え、しずしずと深い幻想の森に分け入る。頭が床につくかと思われたとき、ベートーヴェンから20世紀に手渡された音楽の力にすがっていた。 (とらわれないで、無心に) 音楽と心の境界はなかった。それでもなお、1%の理性を残しておこう、燃え尽きてはならない。楽団と聴衆を高いところへ運ぶのは、その1%の理性だと信じて指揮を続けた。 ─────! そのとき、脳に亀裂が入り、白い閃光が走った。 (射手座の彼方の光だ…) 叫びたいほどの歓喜のるつぼにたたき込まれた。光を失いかけていた細胞の一つ一つに生気がみなぎるのを感じた。 チンチラ猫が見つめている。 「お前は無事だったんだな」 いつのまにか、声の女性が「実在」しているのに気づいた。 「ここは?」 「私のオーラの中よ」 意識を集中して顔を見つめる。誰なんだろう。 「君の名前は、江美詩かな」 「そう呼びたかったらそうして」 「車は?」 江美詩は首を振った。 「だめだったか」 「もう一度翔んでみる?」 「……」 「あなたはわたしを信じていなかった。だから翔べなかった」 「ベートーヴェンを指揮していた」 「今のあなたに必要な音楽だったのでしょう。音楽ってほんとうに素敵だわ」 江美詩は続ける。 「本当にしたいことは何? しなければならないことは何? 心の傷は消そうとしても消えはしない。努力なしに切り開かれる地平線などないのよ。あなたは空を飛ぼうとした。それは失敗だったけど勇気があった。勇気は星が滅びてもなお輝いている」 体が何かに触れている感じがした。服を着ていない。 「はずかしい?」 彼女を覆っていた絹が消えた。 「きれいだ──」 「もう一度、翔んでみる勇気はあるかしら?」 「身体の自由がきかない」 「そうかしら」 意識が混じり合う不思議な感覚を覚えていた。江美詩が発するなめらかな息と、ぼくの呼吸が交じり合い、彼女がだんだんとおだやかな若葉色に照らされていく。 彼女のなまめかしい息を浴びるとみるみる熱を帯び、押し寄せる波がまとわりついて引いていく。掌の温もりを伝えていないので、未だ成熟していないように見えて、実はしっとりとしている彼女にするりと溶けていく。 (いい…) 細胞に込められた光が極限まで凝縮されていく。それは、宇宙に漂う前触れ…。 (あ ) 脈動するエネルギーが、体の隅々を駆け抜けた。 その瞬間、宇宙のどこかで名もない星が爆発し、放出された水素ガスの雲を赤く輝かせた。星の残骸のガスがやがて凝縮を始め、核融合反応で星に灯がともり、さざ波が打ち寄せる青い星を従えるまで、あと五〇億年──。宇宙はとどまるところを知らない。 「歌ってあげましょう。星の世界の七つの音で」 夕べ遅くひまわり咲いた 光のない闇にひとりで咲いた はるかな空をめざして ひとり旅立つ 誰も手を差し延べはしない 人知れず夜露に消えた涙は 朝(あした)に翔ぶためのもの あなた自身をみつめて ほら みつかるでしょう 満たされない想いはきっと消える 空と海のオルゴール メロディーつくるのはあなた 遠くまで響かせるのはあなた だから勇気を持って羽ばたいて 傷ついたまま空を翔んで ひまわりは知っていた 夜のあとには朝が来ることを そしてひまわりは知る 自分が太陽だったのだと みんな太陽だったのだと ため息のように、オーロラのように、ささやくように、浴びるように、さざめくように、奏でるように、空気を震わせ、七色の星の旋律で紡がれていった。 「もう一度、飛ぶ勇気はあるかしら」 「行こう」 (私が蘇らせてあげられるのは一度きり。でも私の力だけじゃない、空を飛ぶのは) 「ほら、もう飛んでるわ」 「ほんとだ」 月が青っぽい銀色の光を反射して輝いている。宇宙空間で見る月は欠け際の切れ味が鋭い。超微粒子のフィルムで輪郭強調処理をした画像のようだ。それなのに、姿がやわらかく感じられる。 「月が微笑んでいる」 「地球のかけがえのないお伴の星です」 「日本では、うさぎが餅つきをしているという言い伝えがあった。そして、竹から月のお姫様が生まれた」 「地球がなければ月はなく、月がなければ地球に生命は誕生しなかったでしょう」 「太陽と月って…」 「さあ、太陽系横断旅行に行きましょう」 太陽風をすり抜けるように、太陽に接近していく。近づくにつれて輝きはやさしくなり、直視できるようになっていた。 「熱くないのはどうしてだろう」 「物質界の太陽を違う側面から見ているからです」 「なつかしいな」 「太陽には太陽系を司る神様が住んでいて、人は生まれると、太陽と契約を交わします。あなたの知っている実在の世界が虚構で、虚構の世界が実在となる人たちがいるのです」 「…あったかい」 「いつもその光に照らされていることを忘れないで」 「ほら、太陽の近くを見て。水星がくっついているでしょう」 水星は太陽に近いため、滅多に見ることができない。天文学者でも姿を見ずに一生を終える人も少なくない。江美詩によれば、勤勉で才気あふれる商人の活気にあふれる星だという。 場面が変わり、炭酸ガスのヴェールをかぶった惑星が見えてきた。水星に次いで太陽に近い惑星、金星である。太陽との距離0・72天文単位、公転周期225日、半径は地球の0・96倍、質量は地球の0・82倍。自転周期は243日で地表の大気圧90気圧、うち95%が炭酸ガスである。 「それは金星の一面の姿…見てください」 江美詩は、美の女神のヴェールをまとい言葉を投げかける。 (まばゆい白さ、ここに極まる…) 空気のかすかな波が感じられた。金星のまばゆい光に包まれて彼女の肌はいっそうすべらかに浮かび上がり、金星は彼女の体からこぼれた白色の虹に包まれた。すべての色を映しながらも、どの色にも染まらない白と、純潔を示しながらも、すべての色と混じり合う白とが溶け合って至福のひとときとなる。抜けるように瑞々しい彼女の肌や微笑みも光の綾なす対流のようだ。この色、どこかで見たことがある──。 「真珠だ…」 アコヤ貝やクロチョウ貝の体内に入った異物を炭酸カルシウムが包み込んでつくられる真珠は、白を基調としながらも、その色調はときに黄色やピンクを帯びる。 「地球にとどまる時は、オーラの波を小さな球体に閉じ込めて物質界との距離を保ちます。それは真珠に似ているかもしれません」 「もしかして、金星、の人?」 「地球に生まれて金星に移動した人類です」 「地球に生まれた?」 「大きな脳の容量と高い運動能力を持ちながらも、闘いを避けてあなたたちの祖先に繁栄を譲り渡したやさしい人類の末裔です」 「やさしい人類?」 「私たちの祖先は、六十万年前に同じ系統から枝分かれした人類です。高度な知性とおだやかな感情を持って平和に暮らしていました。アフリカからあなたたちの祖先が進出してきた時も、快く迎えようとしました。ところが、彼らは必要以上に獲物を捕獲したり、欲しがるようになり、私たちが邪魔になってきました。ある部族の戦闘をきっかけに、組織的な攻撃を仕掛けてきました。すぐそばに肉食獣が迫っているのを知らなかった相手に注意を促すために弓矢を引いたこと、それを敵対行為と誤解したことがきっかけと伝えられています。 幸い私たちの祖先は寒さに強かったので高山や極地に逃れ、そこで文明を開花させました。例えば、地球人の言語は記号です。ABCであれアイウエオであれ、人によって少しずつ発音は異なれど、受け取る時は同じ記号として復元しています。ところが私たちは、それぞれの異なるABCを感知することができます。つまり、そこに込められた微妙な感情も察知しています。これにより、記号の識別よりも高度で単純なコミュニケーションが離れた距離でもできるのです。 骨格の太さ、筋肉の強度、動きの俊敏姓も優っていました。でも、優るということが、勝るということを選ばないことだってあるのです。攻撃を受けて私たちが応戦したなら、おそらくあなたたちの祖先が壊滅したでしょう。金星に移動することは、種の進化を促すものとなりました。金星といっても物質界ではなく、肉体を越えて移動させることのできる次元です」 「クロマニョン人との競合を避けて金星の別の次元に移動した人類?」 「二つの人類は、すべてが対立していたわけではなく、互いに訪問しあったり、道具を貸し借りして共同で狩りをしたこともありました。そのため、地球にとどまる道を選択した仲間もいます。今では混血してしまいましたが、穏やかな性格とやさしい目をしており、前頭葉が発達しているので何となくわかります。そのような特徴の人種は、やさしさゆえに迫害を受けたこともあったのではないでしょうか。しかし、温厚な考え方のクロマニヨンもいて、結婚することもありました。あなたの4万年前の祖先と、私の4万年前の祖先のように」 「どうしてそんなことまでわかるの?」 「ふたりの遺伝子が共鳴しあったからです。あなたもそう感じていたと思います」 江美詩はうつむいたようにも見えた。彼女は表情ひとつ変えずに微笑んでいた。 「明日香って女の子を知っている?」 唐突に思えた質問だったが、反応は聞かなかったことも含めて瞬時に帰ってきた。 「明日香は、あなたが理想の女性をどう見ているのかを金星に投影した姿です。優里は、あなたが現実の女性をどう見ているのかを木星に投影した姿です。あなたは直観的にそれを感じていたはずです」 「金星の明日香? いや、地球の江美詩なのかな?」 「地球にいるのは明日香、金星は私。でもこの二人は同時に会うことはできません」 「明日香と優里の関係は?」 「60度の角度です。あなたは明日香といにしえを旅しながら未来の技術に思いをはせ、優里と先人の知恵に触れながら持続可能な未来のヒントを得たのでは?」 いつのまにか、火星が目前にあった。 「極冠と大シルチスがはっきり見える」 ほの暗い情熱の赤である。しかし赤っぽい砂漠のなかにも、淡い橙色や暗緑色も認められる。 「闘いに明け暮れる人たちの星です」 ぼくの顔に現れた表情を読み取るかのように、江美詩は付け加えた。 「ただし、彼らは正義感を持っています。新しい時代を切り開くには必要なエネルギーです。決して否定する必要はありません」 火星には大洪水の痕跡が残っており、水が両極と地下に閉じ込められている。 NASAには、この氷を溶かして火星の気候を大改造する計画がある。まず、反射鏡をつけた人工衛星を極上空に配置し、氷を太陽熱で溶かす。こうして水蒸気が大気に広がると、温暖化ガス排出工場を稼働させて気温を上げる。やがて大気中の水蒸気が雨となって降り注ぎ、火星に海ができる。ここまでに百年。さらに光合成を行うバクテリアや植物を移植し、酸素をつくらせ、人類が住めるようになるまでに十万年──。この壮大な計画を成功させるためには、地球の微妙な生態系を完全に理解する必要がある。そうでなければ、生態系を他の星に再現することは不可能である。 火星と木星の間を公転する小天体の領域である小惑星帯に突入した。直径約千キロメートルの小惑星ケレスがそのいびつな形を見せている。母惑星から分裂した残骸のひとつと考えられる。 「前方にトロヤ群の小惑星アキレスが見えています」 小惑星帯の外側にあって、木星の軌道上を運行する小惑星群をトロヤ群と呼んでいる。トロヤ群は、太陽と木星とともにつくる正三角形の頂点に位置している。物理学の法則では、三個の物体間の相互作用は正三角形の配置のときにもっとも安定する。 「木星を中心に、先行する天体を理想とし、そこから60度の角度に位置する天体を現実とすると、現実と理想の位置関係、すなわち明日香と優里の存在が明らかになるのです」 無数の岩石片が漂う小惑星帯を抜けると、広々とした空間に太陽系第5惑星が見えてきた。太陽との平均距離約8億キロ、公転周期約12年、自転周期0・41日、磁気圏の尾はその半径の160倍にも延びている。四大衛星を従えて質量は地球の318倍に達する大惑星である。ミルクセーキ色の本体には赤道と平行して縞模様があり、これは大気の対流によって生じる物質の運動による。南半球には大気の巨大な渦運動による大赤斑が存在し、惑星の巨眼のようになっている。イオ、ガニメデ、エウロパなどの衛星群の影が本体に落ちている。 (すばらしい──) あまりに大きく距離がつかめない。荘厳であっても人を拒絶することなく、思わず引き込まれそうになる。そのたたずまいは何物にも屈しない意思の力にあふれ、淀むことなく明晰で、堂々とした輝きを放っている。 この星の尽きることのない泉にこんこんと創造の水が湧きだし、豊穣の果実と人生の黄金の時間を表しているという。太古の昔から地球の成長を見守ってきた星であり、惜しみなくその恵みを与えてきた。 「太陽になることもできたのに、自らの意思で惑星となった星。そして、射手座のあなたの守護星です」 「相補的な火星と金星、動きの早い水星と小惑星群、恵みをもたらす太陽と木星。地球から見て対称構造があるね」 少しずつ星の調和が見えてきた。こうした対称が太陽系を越え、銀河系を越え、宇宙の構造としてどこまでも続いているのだろうか。 木馬にまたがって空間を漂っている気分だった。宇宙では速度と時間は相対的なもの。 (この時間はいったいどれくらいの長さなんだろう) けれど、この時間はもうすぐ終わる。終わらないで欲しい気持ちと、次の段階を待ちわびる気持ちが交錯して、時間に対する願望を確認しかねていた。 「次は土星かな」 江美詩はそれに答えず、二人のやりとりにじっと耳を澄ましていたチンチラ猫に視線を落とした。 「あなたにさよならを言おうとしています。木星に帰る時が来たようです」 チンチラは顔を真上に向けて首を伸ばした。ブロンズの毛並みが木星の縞模様とそっくりであることに気づいた。病院の庭先で泥まみれの姿で拾われ、南太平洋でサメに囲まれようとした優里に知らせるために飛び込んでおぼれかけた猫。気高くひとりでいることが好きで空気のような存在だったが、必要な時に木星の恵みを呼び込んでくれたのかもしれない。彼女の誇らしげな後ろ姿が木星と重なると、ふさふさした尻尾を数回大きく振り、いつのまにか見えなくなった。あとには猫のない縞が残された。 (お伴をしてくれてありがとう) 「今の感覚で私の名前を呼んで」 「江美詩というのは地球の発音で、本当は〜〜〜なんだね」 「それが私たちの言葉。空気を震わさないかすかな波の存在がわかるでしょう」 「うん、空気みたいだ」 「地球の海に青い宝石が浮かんでいるように、宇宙にも青い宝石が浮かんでいます。太陽系のオアシス第3惑星です」 「ああ───」 輪郭がうすぼんやりしたゼリーのような球体。宇宙に浮かぶその姿は、ひときわ濃く青がにじんでいる。水に浮かんだ薄膜を透かして見る水の惑星。 プラチナ色のさざ波を反射する昼の海から、これから夜を迎えようとする深い紺碧まで青の階調のスケートリンクの上を偏西風に乗った雲の影がすべっていく。 境界を越えて夜の領域に入ると、小麦粉をスプーンですくって黒の画用紙に落としたような地上の光が見える。その光条が伸びて別の光条とつながるさまは、脳細胞のニューロンに似ている。 澄んだ水、濁った水、すべてを飲みこんだ大地には無数の生命の営みがある。地上に持ってくれば厚さ数ミリのオゾン層が、生物の体を紫外線の直撃から守っている。 太陽は地球との相互作用により、災いを恵みに変えた。太陽エネルギーが水を循環させて光とともに植物を育てた。植物は酸素を生産し、さらに太陽光で酸素が分解されてオゾン層が生成された。こうして、生存に適した環境が調った。そこで生まれた知的生命体が太陽の存在を認識する。このことは何を意味するのだろうか。 その頃、地球の大気圏に近づこうとしている物体があった。 「隕石が突入する。すでに地球の重力圏に入っているわ」 「大気圏内で燃え尽きて、壮大な流れ星になりそうだね」 「燃え尽きないで地上に落ちるわ」 恐竜が絶滅した要因のひとつとして考えられているのが、隕石の衝突である。衝突時の衝撃波が地球を襲い、生物を死滅させ、巻き上げた土砂が地表を覆った。太陽光の届かなくなった地表では、難を逃れた動物も食料難で次々と倒れていった。わずかに生き残ったネズミのような小型の哺乳類が、次の世界を支配する種となった、という説である。 「ところが、人類はもはや地球の進化の法則からはずれてしまった生き物です」 「どういう意味で?」 「例えば、体重当たりのエネルギー消費量には相関関係があります。人間は同じ体重のヤギと比べれば、40倍のエネルギーを消費しています。これはゾウに匹敵します」 「そんなに」 「人類は二度にわたって人口の急激な増加を経験しています。一つは約1万年前、氷河期の一時的な戻りをきっかけに、狩猟採集生活で生きていけなくなった人類が、小麦や稲を植えて安定した収穫をもたらすことを学んだ時。もうひとつは、産業革命で地球の化石燃料を自在に利用できるようになった時です。体重当たりの生息密度から算定すれば、適正人口は2億人ぐらいのはずですが、現実には30倍の60億人がいます。21世紀半ばにはそれも百億人を突破するでしょう。それは地球の自律作用の限界をはるかに越えたものです」 (もはや歓喜の歌を響かせることはできないのだろうか…) 90年代の初め、アメリカで「バイオ・スフィア2」というプロジェクトが発足した。ガラスで遮断された広大な空間にたくさんの動植物を移植し、地球の生態系を再現するもので、移住可能な宇宙コロニー開発の基礎となる実験である。その中で、数人が生活を始めた。 しかし、まもなく施設内の酸素濃度が減少しはじめ、ヒトが住むには困難になった。酸素を発生させる樹木や植物はふんだんにあったはずだった。 原因がわかったのはしばらくしてから──それは、土だった。肥沃な土壌を入れたところ、酸素を消費するバクテリアがたくさんいたのだ。生態系とはそれほどまでに微妙なもの、ということを学んだだけでもこの実験の意義は大きい。 隕石はこのまま地球に衝突するのだろうか。 「時間がない。NASAに知らせよう!」 「NASAは知っています。だから教授を通じてあなたに託したのです」 (そうだったのか) 「どうすればいい!」 「地球の未来を決めるのはあなたたちです」 (……) 「ぼくは行く」 「あなたは物質の世界の住人。今のあなたの思いを地球に伝え、地球からの思いを私に送って」 「待って!」 「星から生まれたことは忘れないで」 江美詩の手には真珠が握られていた。そして地球流にくすっと笑った。彼女の姿が少しずつ薄れていく──。 隕石は、大気圏突入とともに鮮やかに燃え尽きた。 (宇宙は与えられるもの、けれど選ぶもの。住みたいと思う宇宙を探してください) 渦を巻いた雲の遊び 翠雨に息づく蘚苔の森 空と海の接点が〈あお〉に滲む いつか星に育った生命が故郷を見るとき… 原始大気に包まれた灼熱の地表 地上のいのちもかつては星の燃料 太陽と月のたゆたう時刻に うっすらとその記憶を蘇らせる 黄昏は地球の黎明がこだまする モンスーンの三角州から 人類の生まれた大地溝帯から 有袋類の大陸から ロッキーの背骨から 地球の肺〔熱帯雨林〕から アルプスを従える大平原から オーロラ舞う氷土から 七色の風が集まってくる 宇宙一五〇億年の悠久のときの流れ そして四六億年前に誕生した水の惑星 気の遠くなるような時間のなかで 続けられてきたいのちのリレー つないでいく またつないでいく 風はひとつに溶けあい 壮大な流れ星が翔んだ 地球は宙(そら)のまほろばゆらめく大気水たゆたう生命しうるわし 真空の海で魂が遊ぶとき 二階の窓に女の子の影が映る。顔を天に向け、髪をかき撫でる仕種をする。濡れた髪が乾くまでの間、姿見に全身を映しているのかもしれない。手を交差させながらパジャマを首からくぐらせる。撫子色の円錐がつんと揺れる。間接照明の下、指先の軌跡にときめきながら腕をなびかせて舞う。それからベッドに横たわり、空間を舞っていた繊細な指が密やかなファンタジーを奏で、破瓜していない果実は蜜にあふれる。 男の子が女の子の横に腰をおろす。女の子が笑う。男の子も笑う。 言葉が途切れると、男の子は空を眺め、女の子は地面を見つめた。視線を合わせないまま、女の子の左手を軽く握る。突然男の子の顔が近づいて女の子は思わず目を閉じる。けれど首を横に振った。 「好きなんだ…」 ふたりともこの言葉の呪縛になる。 大雪が降った冬休み。いつもなら雪が降っても、午後にはぬかるみに変わってしまうのに、今年はお昼を過ぎてもまだ残っていた。さっきまでひばりのように話し合っていたふたりが無口になる。 「雪が降っているね」 「ええ」 時が過ぎてゆく。ふたりの気持ちがどこにも逃げ場がなくなってしまう。 通された部屋には描きかけの絵がイーゼルに懸かっていた。卒業を間近に控えたうららかな午後、ひねもすのたりのたりかなの一日に春告鳥が鳴いた。男の子の視線に女の子はうなずく。まぶたに口づけすると、背中にまわした左手の親指を人指し指と中指の間にすべらすようにして留金をはずし、紐を肩から落とす。ブラウスをまとったまま、女の子は腕を撫でられて指に口づけされた。指をからませて掌を抱え、ボタンをはずすと、白い月のふくらみが露になった。 「きれいだよ」 男の子は女の子を伏せると、重ねた身体を下へずらしていく。薄い素材の上をなでていく男の子の感触が伝わった。女の子の腕はやさしく解かれ、てのひらに吸い寄せられて上下に揺れる。男の子はわずかに親指に力を入れて包み込むと、つぼみに口づけした。ためいきが漏れる。 ある夏の夜…ふたり、街を逃げるようにやってきた。そして草むらに寝っ転がった。暮れきらない青の薄明、星がひとつふたつ輝きを増していく。誰もいないのに耳元でささやきあい、指で頬を突っ付きあっては子どものように笑う。いつしか降るような星の舞台となった。月のない長い夜、ふたり漂よう。 それは下から上へと身体の奥深いところまで押し寄せてくる潮のような感覚だった。ふたりがはじめて同じ感覚を共有したあの日、細胞が生まれ変わったかのようにひたすら海に溶けていく。 (真空の海で魂が遊ぶとき…) 女の子はさらに深い至福の瞬間があることを知った。ふたりの呼吸が同調する時、体が溶け合うように共鳴した。 女の子は少しずつわかってきた。無限の海に投げだされて漂う船ではなく、限られた広さの海に自分をあてはめて生きる心地よさ。その枠は自分を制限するものでも束縛するものでもなく、自立して生きるための拠り所でもあり、その海に自分を合わせることで自由を感じた。これが自分だと思っていたカタチはいくらでも変えられる、と気づいた。 生物の体の海〜変わっていくカタチ 四〇億年前、灼熱の海に最初の生命が誕生した。それから二〇億年、酸素を利用して生きる細胞が発生した。さらに一〇億年、その細胞が集まって単純な動物が出現した。その頃、海は豊かな生命を育んでいた。地上に大陸はあったが、生命のない荒涼とした大地だった。 五億年前、離れていた大陸が集結し、超大陸と巨大山脈が形成された。山脈は大気の流れを遮って雲をつくり雨となって降り注いだ。雨は谷を削り、いくつもの流れを集めて川幅数百キロメートルの大河が出現していた。こうして、海でも陸でもない「川」という環境が誕生した。 四億六千年前、最古の魚類が現れた。当時の海を支配したのは固い殻と強いアゴを持つ肉食のオウム貝。その脅威から逃れるために魚たちは川をめざしたのではないか? その頃の川に生命はいなかった。塩分濃度が異なるため、海の生物たちは、淡水に入ると浸透圧の違いで真水が体内に侵入し細胞が壊されてしまう。それを逃れるために、魚たちは固い甲羅とウロコで水の侵入を防ぎ、同時にエラから侵入する水は腎臓を強化することによって排出した。こうして、海から川へと新しい生命が広がっていった。 苔のような植物も川に適応していった。川には海と違って、滝や急流、植物の繁茂する浅瀬など多様な環境があった。ケイロレピス(三億九千年前)は、最初の背骨を持つ魚となった。背骨は筋肉を伴い、早く泳ぐことが可能となった。しかし甲羅だけでも早く泳ぐことはできた。それではなぜ、骨が必要となったのだろうか。 それは、カルシウムの補給のためである。海と違って川にはミネラルが少ない。カルシウムは神経や心臓の働きを調節するために欠かせない物質であり、生物はカルシウムなしには生きられない。ミネラルが不足しがちな環境に適応するため、多く摂取したときに蓄えておき、不足すればそこから取り出して使うための貯蔵庫が必要になり、それが背骨になった。カルシウムやマグネシウム、リンといったミネラルは海の成分であり、骨は生物の体のなかにある「海」である。川から発生したケイロレピスの子孫たちが、今では逆に海を支配している。 浅い藻が茂る水底、時に植物が腐敗して酸素不足にもなる環境に適応するため、障害物をかきわける強靱な骨を持ったヒレ、空気呼吸ができる肺を持った生物が現れた。でもそれは水中を歩くための足で、陸へ上がるためにもうひとつ解決すべき問題──重力があった。 一方、陸は紫外線が強烈に降り注ぎ、生物の生存には困難な場所だった。ところが、四億年前に陸へ上がった植物のため、地球に少しずつ酸素が増え始め、オゾン層が形成された。こうして、陸上では生存環境が整い、勇気ある開拓者の訪れを待つだけになっていた。 三億六千年前、はじめて新天地を目指したのは、イクチオステガ。重力に負けずに陸の上を歩く強い足と、大切な内蔵を保護し支えるための肋骨を発達させた。それは陸上の動物の祖先であり、自らの体内に海を持って、海から自立できた最初の生命となった。 宿ったばかりのヒトのいのち──胎児には最初、魚のエラのような器官が現れる。それが分岐して五本の指となり、両生類、爬虫類を経て哺乳類となる。ヒトは子宮という海で、進化のカタチをたどっていく。うぶ声は、海から上陸の証である。 川は、太古の海に生息していた生物が、進化の過程で陸に上がるために避けて通れない場所だった。生物は川という環境に適応することで、陸へ上がる準備をした。海がいのちの故郷とすれば、川はいのちの学校であった。豊かな川の恵みをいつまでもと祈らずにはいられない。 川の時間 「良く眠ってたね。足冷たくない?」 水辺で足を浸している自分がいた。見慣れた景色だと思ったら、海部川だった。 毎日川を見にくる地元の人、清冽な水を求めて都会から移り住んだ若者、ここを拠点に作品を発信する芸術家、天然アユの香に引き寄せられる釣り師たち。さまざまな人たちの思いを集めて海に注ぐ河口には、4キロにわたる白砂青松の大里海岸があり、生美の浜とともに「いい波」が立つ。 湧き水が藻をなびかせる支流母川(ははがわ)もいい。湿地をくぐり抜けた水が、オオウナギの棲むせりわり岩の辺りで川幅を広げると、碧色の淵が山水画の佇まいを見せる。 年降雨量が三千ミリを越え、平均気温が一六度以上の海部川上流の山間部には、ニホンカモシカ、サル、イノシシが生息する。ひとたび雨が降ると、王餘魚(かれい)谷の轟(とどろき)の滝には飛沫で近づけない。川沿いにわずかに開けた土地に水田と集落が点在し、海まであとわずかというところでさえ、アメゴが棲んでいると地元の人が教えてくれた。 初秋の一日、川遊びをしていたら、思いがけない生き物を見かけた。一瞬目を疑ったが、青や黄色の小さなスプーンのような熱帯魚の群れ。海から迷い込んだのだろうか。黒潮に乗って運ばれ、故郷に帰ることも日本の冬を越すこともできない南の海の魚たち…。 四国の海がもっとも快適なのは、九月から十月にかけてである。真夏の暴力的な陽射しはなく、渚は静けさを取り戻す。水の透明度は格段に上がり、クラゲは岸を離れる。依然として水温は高い。気温が凌ぎやすくなるため、むしろ水を温かく感じる。夏の名残をとどめた九月の風に吹かれて、ほんのり秋の隣の晩夏に浸る。 日焼けした腕を沢に浸す。ぽたぽたと雫が落ちる腕からは、西瓜の匂いがした。山からの湧き水は夏でも冷たい。沢が流れ込む水際に川海苔が生えている。 ゆらゆらりゆれゆらら──────── 葉っぱが一枚、また一枚流れてきた。流れに飲み込まれる葉っぱもあれば、流れに逆らおうとして沈んでいく葉っぱもある。流れに身も任せながらも自分で流れを選んでいるようにみえる葉っぱもある。 川は変わることなく、空からの贈り物をせっせと海に運んでいる。何も減らさず、何も付けくわえず…。 せせらぎに耳を澄ませば、やわらかなヤ行の音が聴こえる。 やあろよろ よろやろよろ やろんよろ 生命の活動によって生じるさまざまな背景音が潮が引くようにやんでしまう。風も止まる。その静けさを縫って、厭世観を感じさせる蜩の声が響きわたる。 かなかなかなかなかな ずぃじぃずぃじぃでぃじいぇ 草むらで突然思い出したように鳴く、擦り切れる虫の声。 ちょんぎいす ぎっちょ すいっちょん 河鹿の鳴く声が川面に木霊し、星がひとつふたつ輝きはじめる頃、水面のきらめきが溶暗していく。音のない水紋が立つ夕暮れ、河童が遊ぶ川の時間…。 夜になると、テナガエビが深みから這いだしてくる。浅瀬をヘッドランプで照らすとエビの目がオレンジに光るのだが、慣れてくると体の方が見えるようになる。ここにいそうだ、と思うとそこにいる。先入観を持って見つけるのがこつである。見つけたら周囲に気を配りながら、小さなエビタマを尻尾からかぶせ、網の上から指で胴体をつかむ。長い手をふりかざしてなかなか網から出ないこともある。夜の闖入者に驚いたモクズガニが川底を移動していく。赤腹のドジョウは玉砂利に体をくねらせている。 灯に照らされた水底は、波がなければ水があることさえ忘れてしまう。川の流れは一定に見えて実は小刻みに上下し、一団の水塊が川を走っていく。底の石ころが見えたり見えなかったりするのはそのためである。昼間わからなかった川底を滑っていく透明な水の存在に感動する。いつ見てもこのときめきは薄れない。 対岸の山から木の枝の折れる音と猿の遠吠え。流木を集めた焚き火は火の粉を舞い上げ、燃えたくない竹は火に抵抗して獅子脅しとなる。 「あっ流れた!」 流れ星がひとつ、ふたつ──。 ひたひたと天の川は夏の空にたゆたい、すうっと星が流れる夜の献立は、山菜とドンコのみそ汁にテナガエビの塩ゆで、川海苔をまぶした炊き立てのご飯、そして笹をあぶったお茶。 焚き火は風に煽られて燃え盛るが、やがて火の勢いが衰える。流木を投入する。黒い瞳に焚き火が瞬いている。炎のゆらぎを見ているとだんだん無口になり、火の向こうに素顔が現れる。暗闇にそこだけ灯る空間、その数光年先には星夜がある。焚き火をぼんやり眺めながら、麦酒でまどろんでいるうちに眠りに落ちた。 パチッパチ ザクッ 夏はいつか終わる… 川のほとりで夢を見ていた。朝になればうるさいほどの小鳥のさえずりがあることさえ知らずに。
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