小説「空と海」
第1章 明日香へ 第2章 南太平洋 第3章 四国 第4章 空へ

 森に包まれた川

 川沿いの曲がりくねった道を遡ること約一時間、西土佐村江川崎の集落で土地が開けた。ここから四万十川を下ることにした。ポリネシアのアウトリガーカヌーとは違う、折り畳み式のファルトボートを使う。布一枚を隔てたお尻の下に水を感じる。ここからの四万十川はひなびた土地を蛇行しながら海をめざす。水は山裾を洗い、静けさは心を洗い、川に身を預ければ考えごとは頭から消えている。
 水がぐるぐるまわる、船もぐるぐるまわる。櫓を漕ぐ手を休める、静まりかえる。陸から見えない水際に洞窟がある。近寄ってみる。静かだ。
チンチラ猫は船縁にちょこんと座っている。2級の瀬の波しぶきをぬぐおうともせず、毅然と前を見ている。水を恐れる様子はない。金色の綿毛が水面に映える。

 八色の鳥 さえずる河畔
 水底を走る鯉 川面を舞う鯉
 五月の若葉 沈下橋越しに涼しげ

 支流の目黒川は水が澄んでいる。本流との合流点では二色の水が境界をつくる。目黒川をひとかき潜ってみる。ぶなの森、滑床渓谷からの甘い水が葉っぱを運んでくる。水の法則に逆らいながらかき進むと過去を遡るような気分。ゴリが水底をピョコピョコ移動していく。
 岩間の沈下橋をくぐり抜けて休憩。河原で焼きおにぎりをほうばる。ミズスマシのように川に映る沈下橋の下をピンクや黄色のカヌーが通過していく。沈下橋の上からカヌーで飛び込む連中もいて歓声がわき起こる。
 曲がり角にさしかかって振り返ると向こうの山が霞んでいた。前方には四万十川旅の白眉、口屋内の沈下橋と清冽な支流黒尊川の合流点が見えてきた。
もうすぐ海、それなのに、鏡のような水面が悠然と移動していく。

 勾配差が少ないことから利水上の価値が低く、開発から取り残されたため「日本最後の清流」と呼ばれる四万十川。けれど、必然性のない護岸工事や林道建設などで土砂が流れ込み、水は濁りがちである。
 流域面積の88%が森林である四万十川は森に包まれた川。そこに345本の支流を従え、流域には七万五千人が住んでいる。かつては炭焼き職人が山に入り手入れをして川がクヌギやナラの森で覆われたころは、水量はもっと豊かで水は澄んでいた。ところが、昭和30年代に始まった拡大造林政策により、雑木林は「低質広葉樹」の名のもとに次々と伐り倒されてパルプ会社に安価に売られ、伐採跡にはスギやヒノキが植林された。今では人工林の割合が7割を占める。ところが安価な輸入材に押され、その人工林も手入れができない。

 十和村は、四万十川中流域の山間部に位置する。この村では「もやが川沿いの山にかかれば雨になる」「朝の夕焼け、田の水放せ。秋の夕焼き、鎌を研げ」などの言い伝えがある。また「アユが採れると、商店に客が増える」という。
 高知大学の大野晃氏によれば、里山(雑木林)が豊かに残されている十和村は、人口の減少率が低いという。これは何を意味するのか。

 十和村の青年畦地さんの話である。
──四万十川で泳いでみたが、ちょっと潜ったら底が見えなかった。昔は沈下橋の上から5メートルぐらいまですっきり見えていた。親父の代は「山から下の魚が見えよった」という。「ほんまかいな、そらちょっと大げさかな」と思うたけれども、それぐらい川の魚もおった。
 テレビでこだわりの逸品として、村の鍛冶屋さんがつくった皮剥き包丁が紹介された時のこと。こうぞ、みつまたの木の皮を剥ぐための小型包丁だが、果物ナイフに使えるのではと考えた。年間三十丁しか作られてなかったが、「テレビにこれ決まったきい、おんちゃ、ちょっと作ってや」というと、おじさんは「そら分かったと、ほな五十丁ば作っちょうがや」。
 そうして全国に放映されると、六千丁の注文が来た。これには驚いた。村ではありふれた物、何気ない暮らしが都会の人には珍しいんだということがわかった。全国の注目を集めると、地元の人がかかわってもらえる場面が出てくる。そして、一緒にやれる人たちがいっぱい増えていくと、双方向のコミュニケーションが生まれる──。
 畦地さんは、おもしろい村づくりこそが鍵だと言う。楽しみながら百姓をやってうんと稼ぐ。そうすれば、土建業で川をコンクリートで固める必要もなくなる。大切なのは、一人ひとりの心意気なのだ。
口屋内沈下橋の風情とともに、十和村広瀬の奥深いたたずまいは好きだ。

 四万十川最大の支流梼原川(こちらを本流にしてもおかしくない)がある梼原町では、1995年に「全国棚田サミット」が開かれた。
 梼原町には、棚田のオーナー制度がある。これは、都市の人に年会費(四万十円!)を払ってもらって維持管理に当てながら、時々は棚田を耕作してもらおうというもの。青空の下での作業はまちの人にとってたまらない魅力である。しかも一年の終わりには、収穫という喜びが待っている。
 欧米では、農業が環境保全に果たす役割を評価し、その保全を農家に義務づけるとともに条件の不利な耕作地に所得補償することを、国民の合意として制度化している。
 日本は食料自給率が異常に低い。しかもそれをさらに下げるために税金が使われている。ところが、休耕田に水を張っておくだけで生物は生息できるし、農地への復元も可能となる。そうしたことを奨励するような制度はできないだろうか。
 所得補償の算定には原価管理が前提となる。また生活者が農業や生産物に何を求めているか、それにいかに応えるかが鍵となる。環境保全型農業とは、先人の知恵を今の手法で蘇生させる持続的農業であり、そのことがまちとむらの暮らしをつないでいく。
 梼原川には津賀ダムがある。十年ぐらい前までは、このダムから本流との合流点までは一滴の水も流れない河原砂漠だった。水利権の更新時に流域の人々はダムの撤去を求めたが、電力会社は却下した。その代わり、下流に水を少し流すこと(河川維持流量)を約束した。津賀ダムと本流の家路川ダムがなくなれば、往時の四万十川が蘇るかもしれない。

 水路がコンクリートで固められて汚水が川にそのまま流れ込む今、生活排水対策は欠かせない。四万十川中流では微生物を利用した浄化槽を積極的に推進し、本流なみに排水を浄化しようとしている。熱心な人が一人でも自治体にいれば、少しずつでも変わっていく。
 都会からここへ定住して川漁師となり、漁の合間にカヌー教室を開く人もいれば、トンボ王国を作りだした地元の人もいる。このような流域の人々の試行錯誤の結果、今日の四万十川がある。
 高知県知事は、肝入りで政策研究所を発足させ、四万十川の景観の経済的価値を算出させた。その結果、自然のままの四万十川の景観の価値ははかりしれないとし、県の川沿いの道路拡張計画を中止させた。広い道路はコンクリート護岸が川に迫り出し、淵が消えていく。そうなるとざら瀬が多くなり、生息環境が単純になって魚は棲めない。
 四万十川では、行政と住民が力を合わせながら、流域のさまざまな人々の試みが実を結ぶ日も遠くない。

 中村市内の河原には子どもたちが遊んでいた。そのなかに、幼なじみの子によく似た女の子がいるのに気づいた。手入れの行き届いた艶のある髪。そして前髪がふわっと着地するあたりに観音様のような眉がある。鼻筋はまっすくで高くもなく低くもなく愛らしい。

 どうしても伝えたい気持ちがある。だから手紙に託す。いつまでも覚えていてほしいから、飾らない自分の言葉で、最小限の言葉で最大限の意味を込めて、さわやかな響きの日本の言葉で伝えたい。
 永遠の一瞬を分かち合いたいから、文章はどんどん膨らみながら上昇を続け、どんどんエネルギーを送り続ける。やがて、膨らみすぎて、どこに中身があるのかわからなくなってしまう。
ここで再び白い紙があらわれる。ペンの走った跡がない紙。あふれた文字の後では新鮮に見える。そこで、もう一度書いてみようと思う。
 こういうことを何度か繰り返した後、心の中にはわた雲が浮かんでいるような気分になる。書き終わった後のインクの匂いが好きだ。
 大切な言葉は入道雲のようである。

 きょうの空は星が見えそうなほど暗く澄んでいる。
 森のはずれから真っ白な雲が全速力で南から北へ流れた。
 雲は自由だと男の子は考えた。
 あんな帽子が欲しいと女の子は思った。
 こんな日は遊びの手をとめて雲を眺めた。線路の枕木の上から跳び上がっても追いつけはしない。
 雲は子どもが好きで、子どもは雲に憧れていた。だから綿菓子に人気が集まるのは当然だったが、大きな口を開けてほうばれば、瞬く間になくなってしまうのだ。

 すすき野原に かかしがぽつん
  同じように 一本足の女の子
   黄色いリボンのついたストローハットに白いワンピース
    すらりと伸びた素足を く の字に結んでいる
 かかしは相変わらずつまらなそうにしている
 もうひとりのかかしはこらえきれなくて足をついた
  (だめだわ かかしに笑われちゃう)
  そうしてケラケラ笑った
 こだまは返る 山の上
 すすきは歌う 風の中
 ワンピースは踊る 空の下
  空にはうろこ雲 ちぎれて浮かぶ
  ちぎるのは だあれだ だあれだ
 華奢な身体で大きな綿あめほうばっているあの娘
  (甘くてとろけそう)
 編み込んだ髪が飛び跳ねながら
 今日もチョウやハチと一緒に踊っていた

 雨に閉じ込められる六月は、束の間の晴れ間にのぞく空の純粋なまでの青に憧れる季節。うすいブルーとピンクのあじさいと、初恋の女の子を思い出した。





 四国を北上する

 南四国の海岸線を弓なりにたどると、室戸岬に着く。
 室戸岬は、陸が深海に張り出した場所にある。そのため、太平洋の回遊魚が接近する。沖合に鯨が出現し、波止でヒラマサが釣れることもある。
 岬は、南を指した羅針盤のようである。均整のとれた二等辺三角形のそびらで西北の風をやわらげ、日の出を東半分で受ける。
 室戸岬は弘法大師が開いた。大師が洞穴内で虚空蔵求聞持法という密教の修行中に明けの明星が飛び込んできて、行が成就したと伝えられる。この修行は、虚空蔵菩薩に帰依するという意味のサンスクリット語(真言)を百万回唱えるもので、広大無辺の智慧を授かるという。
 岬へと南下する一本の国道の左手には遮るものない太平洋、右手には山がすぐそばまで迫る。岩礁のオブジェを快適にすり抜けていくこの道も、時化になれば波をかぶる。そんな道さえなかった千二百年の昔、魑魅魍魎に悩まされながら険しい稜線を伝い、ようやくたどり着いた。そして金星が舞った。
 室戸は、空と海をめざす路である。

 波は何度も押し寄せてきて岩を洗う。そして飛沫をあげて泡立つ。けれど、岩に当たって砕ける波こそが、岩をも砕くことができる。
 岬から約半時間、生美(いくみ)の浜に来た。浜の南に流れ込む小川が砂を運んでくるためか、あめ色の砂をしている。裸足で歩くと、埋まっていくような感じがする。この微粒子の踏みごたえが好きだ。歩き方や走る速度を変えたり、重心の移動で足跡がちがってくる。けれど試行錯誤の結果は、大波の黒板拭きであっという間に消されてしまう。
 やわらかい砂に流路を見つけた小川は、河岸段丘を作って蛇行しながら流れる。水が当たるところは掘れこんで淵となり、反対側には土砂がたまって河原となる。
 木切れや石ころを拾ってきて水をせきとめてみる。すると、かえって砂が舞って掘れこんでしまい岸が崩れる。水は少しでも低い部分をめざして新しい川筋を作る。
 工事に五分とかからないこの小川でも、人間の思いどおりにはならない。人が手を入れると、水は自然の摂理を示し、その共同作業で川ができあがる。
 遠浅の白浜海岸で、制服の女生徒たちが波打ち際で遊んでいた。五月の声を聞くと、水はそれほど冷たくない。ふざけあっているうちにずぶ濡れになってしまい、そのまま海に入った。キャッキャッ言いながら水から上がると、ブラウスの裾をしぼり、パサパサの髪をなびかせて自転車に飛び乗った。

 徳島県最南端の宍喰町の海に面した丘にある宿泊施設から水平線が見わたせる。そこから海に向かって散歩道が延びている。散策路の果ては崖となり、波打ち際まで降りていくこともできる。日曜日には磯釣り客がちらほら見える。
 水が大気の層のように動く。岩を包み込んで白と深緑が混じり合い、エメラルド色の炭酸ソーダの余韻を残す。泡が消えると、水中の地形がくっきりと浮かび上がる。
 ここは食事もできる。「地球が丸い」と実感しながらの食事がおいしくないはずがない。声の大きな娘さんがメニューを持ってきてくれる。両手を添えて胸の位置で構えた膳を素早く置く。芝生のテラスに腰掛けて海を眺めていると、「お料理お持ちしました」と一声かけてくれる。
   とんかつを注文する。大きな肉の塊、皿から溢れて盛りつけられた千切りのキャベツ、きゅうり、にんじん。でも調味料はない。塩をかけて食べてもいいが、ここのとんかつはイノブタだから肉味が濃い。野菜をそのままぱりぱりと食べる。うまい。肉の旨みがジュウ、さっくりした野菜がさくさく。噛むたびに口のなかでとろける。
 この辺りは魚介の宝庫である。さしみ定食を注文する。イカ、マグロ、鯛の切れ端を大根とともに口へ放りこむ時、海と山の幸が分け隔てなく味覚を喜ばせながら舌の上を転がっていく。一口ごとに目を閉じてしまう。かつて海の底を泳ぎ回っていた時代の記憶をたどるようである。

 県境にある自家焙煎珈琲の店は、食べきれないほどの大盛りが売り物。波乗りをするために居ついた女の子が働いている。ここを離れられない若者や芸術家が集まり、地元で生まれ育った人たちとの歓談の場となっている。
 そのなかの一人、陶芸家の梅田純一さんは、歩いて日本国内を一周した経験から「日本で、田舎暮らしに適した究極の地域は室戸岬から半径四〇キロ圏内である」とし、山間部の川のほとりの小学校跡に住んでいる。作業場は時に交流の場となり、訪れた人は土をいじる。
 工房の外には見晴らしのよい庭があり、切り株の机や椅子を並べてある。そこから川へ降りていく小径をたどれば、手ですくって飲めるほどの野根川の渓谷がある。梅田さんは多作家である。日が落ちると一日の創作が終わり、地元の人が差し入れた脂の乗った大アユを七輪で焼いて客人とビールを飲む。ここは桃源郷である。
 アメリカの古典学者で友人のドナルド・キーン氏がここを訪れた際に、一句作った。

 行く夏や 別れを惜む 百合の晝(ひる)

 細長い那佐湾の入江を過ぎると、海部川が見えてきた。川づたいにオゾンを含んだ風が山から海へ、また海から山へと吹く。それを「海部川、風の聖域」と呼ぶ。私設天文台のある岡本山から上昇気流に乗ってハンググライダーが飛び立った。蛇行する川を見おろしながら空を散歩する。二時間後、広い河原にぽつんと立っている二本の柳をめざして舞い降りる。
 無垢の水をたたえた空色の淵に、せみしぐれが響きわたる頃、海部川の夏真っ盛り。釣ったばかりの鮎を遠火でじっくり焼く。弱いかな、と思うぐらいの火加減がこつである。
「いい香り!」。
 遊び疲れた一日の終わり、夕涼みに水浴びをする。ミネラルを含んだ水は程よく冷めたくて気持ちがいい。いつまでも浸っていたい…。
 そんな海部川も、道路工事により少しずつ姿を変えている。道が広がるたびに竹林がコンクリートになぎ倒され、淵がまたひとつ消えていく。
 川は淵と瀬が交互に織りなすハーモニー。人は水の綾に癒され、番茶は靄に打たれ、魚は竹林のざわめきを聴いて子孫を残す。

 十年前、大阪からサーフィンに訪れた西田裕一さんは、海部川流域の植生に心奪われ、サラリーマン生活をやめて移り住んだ。そこは、珍しい野性植物が咲き乱れる楽園だったのだ。
 絶滅危惧種であるユキモチソウはどこにでも見られる。夏の陽射しに照らされ、清流の岩場にかれんな彩りを添えているのは、ウナズキギボウシやイワタバコ。こうした豊かな植物相は上流の森が育んだもの。しかし、川の流れや風向きがわずかに変わるだけで消滅してしまう。絶滅危惧種であろうとなかろうと、この地上に現れたかけがえのないいのちを慈しみながら、西田さんはアルバイトで生計を立てながら一生をかけて海部川の植物を守っていく。
 その水で野点を行うこともできるという海部川。持続可能な社会が求められる次代に何を伝えていくべきなのか。それは地域にもっとも適したもの、地域にもっとも残されたものではないか。人と自然が共に生きてきた南国情緒あふれる流域の風土──私たちは未来に何を伝えるべきだろうか。


 海の断崖に続く傾斜の強い斜面に自生する照葉樹の森は魚付林と呼ばれる。魚付林の踏み跡を木を伝いながら注意深く降りていくと誰もいない渚に出る。山の湧き水がそのまま滝となって海へ落ちているところもある。泳いだ後の塩っ気を洗い流すのにちょうどいいし、冒険気分を盛り上げてくれる。
 そんな楽しみ方ができるのは、日和佐町から牟岐町にかけての無人の海岸線である。水が澄みきる冬には海底の地形が手にとるようにわかる。ここをカヌーでたどれば至福の時間が待っている。
 日和佐町の山中に滝があり、その奥に小さな湿原があることはあまり知られていない。

 主人がこつこつとレンガを積んだ喫茶店がある。分厚い木の食卓、押しても動かないどっしりした椅子、裸電球にかぶせたカバー、擦り切れた手すり、裸婦のデッサン彫像…。造形の実験は今も続いているらしく、渡り廊下や階段を次々と連結させている。西暦2050年ぐらいには完成するのではないか。

 田園の一角に、射手座生まれの女性が入れてくれる珈琲店がある。彼女はお客を見てカップを選ぶ。だが、同じカップに遭遇したことはない。珈琲の味覚に加えて、彼女はきょうのぼくをどう見ているのだろうか、という楽しみがある。
 ハイドンのピアノ協奏曲が鳴っている。ほとんど話題に上らない曲だが、アルゲリッチのレコードで聴くと、まるでモーツァルトみたいに愉悦感たっぷりにきこえる。
 フォーレ「ペレアスとメリザンド」がかかる。憂愁を帯びた佳曲だけど、あくまでも地中海の紺碧の空に浮かび上がる霞といったほのかな色調である。有名な「シシリエンヌ」もよいが、前奏曲の醸しだす斜めの残照を含んだトーンがたまらない。渚に黄昏が訪れるころ、アンセルメ・スイスロマンドの演奏でこの曲がしみ入る。
 続いてモーツァルト「フルートとハープのための協奏曲」。典雅な音楽だけど、演奏技術を要しないハ長調でかかれたとは思えない。微妙な陰影が明滅しながら、トリップのフルート、イェリネクのハープ、それにウィーンの弦が心ゆくまで歌ってくれる。
 音楽の詩情と音譜の実験が同居している作曲家はそう多くない。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」は、豊かな光とけだるさがひとつパレットに描かれていてまぶしいほどに官能が昂る。ピエール・モントゥーとロンドン響が紡いでいく。

「スピーカーを買おうかな」
「どんなの?」
「無垢の木のスピーカー」
「それっていいこと?」
「無垢の木はね、手でこんこんと叩くと、コツンという打音のあとにポーンと響きがつく。だから人の声に湿り気があって音が弾みながら自然に減衰していく。そんなスピーカーで森の音楽を聴けたらいいだろうなって思うんだ」

 なおも北上を続ける。勝浦川の橋を渡ると、北方に眉の形をした山が見える。紀貫之の土佐日記にも著された眉山(びざん)である。眉山と吉野川にはさまれた城下町徳島には、阿波藩主蜂須賀公が造らせた水路が縦続無尽に走っている。
 戦前は市内に狸が住んでいたとされ、人と狸にまつわる多くの逸話が残されている。武勇伝や義理固い狸の話、神様に祀られる狸など、どれをとっても人と狸の密接な結びつきを感じさせる。そんな狸界を綴った三田華子さんの「阿波狸列伝」は、義と勇気に満ちたロマンで、読み始めると時の経つのを忘れてしまう。
 吉野川大橋にさしかかり、優に千メートルを越える広い河口の、まさに海と出会うところで金色の波が燦爛していた。はるか西の四国山地に源を発した水がようやくたどり着いたところ。河口干潟の朝のきらめきを見ながら徳島の人はこの橋を渡る。里帰りの人は、この橋にさしかかって吉野川の雄大な流れと眉山が見えた時、「ああ、徳島に帰ってきた」と感じるという。
 この水が生まれたのはどんな処だろう。四国三郎で吉野川を遡る。


 吉野川の源を訪ねて

 白猪(しらい)谷を遡ること数時間。沢が細くなってくると、苔むした岩からひとすじの水が湧き出ていた。
 瓶が森の南斜面に発した小さな流れは、多くの支流を集めて四国三郎吉野川となる。海に向かって198キロメートルの水の旅の始まりである。

 吉野川の上流は、豊かな水量と深い渓谷を持つことから多くのダムが作られた。四国の水瓶といわれ、日本有数の貯水量を持つ早明浦ダムが建設されたのは昭和四八年である。
 日本列島が深刻な渇水に見舞われた1994年、巨大な早明浦ダムが干上がろうとしていた。ダムの底から姿を現した三階建ての建物は、高知県大川村のかつての役場である。今回の渇水では、多くの人がこの建物を見るため訪れていた。建物の屋上に上がる人もいて、ダム始まって以来の賑わいである。
 大川村は、村全体が水没することから、ダム建設に反対してきた。当時の様子を伺うため、村の教育長をしていた筒井さんを訪ねた。筒井さんは齢八十を越えるとはとても思われないほどお顔に艶がある。穏やかな口調で昔の村の写真を次々と見せてくださった。そのなかの一枚で、水遊びをする子どもたちの写真が目に止まった。

 川を土嚢でせき止めたのか、天然の瀞場なのか、子どもが水遊びをするのに恰好の場所があった。二十人ばかりのいがくり頭とおかっぱ髪、みんな真っ黒に日焼けして石ころだらけの河原に集まっている。はだしの足元から砂利がこぼれ、口元から白い歯がこぼれた。
 年長の男の子は高い岩に上がっては、ふうと息をつき、横目でおさげ髪をちらりと見ると、ここぞとばかりに水しぶきを上げた。流れを読み、岩影にできるわずかな淀みで休み、川を斜めに横切っては岩から岩へと伝い泳いだ。流れの落ち込みで発生する巻き込み波でぐるっと回ると、底を蹴って流心をはずれ、岸辺の反転流を利用して上流に向かった。
 水遊びが一段落すると、陸に上がって甲羅干しをし、むらさき色の唇に色が戻るのを待った。せみはせせらぎを聞き、せせらぎはせみの声を響かせた。川辺の葦にすねを切られる子もいたが、よもぎの葉をつけるまでもなく、冷たい水が洗い流してくれた。
 河原には、学校の先生や、親たちが交代で詰めていた。プールのない山村では、川は子どもたちの絶好の遊び場所となった。それでも日暮れには川で遊ばなかった。河童が遊ぶ時刻だから邪魔をしてはいけないのである。

 叱られて家を飛びだしてきた
 やごはとんぼになる さなぎは蝶になる 幼虫はせみになる
 みんな羽をむしってやる
 あぶらぜみが捕まった 黙って羽をむしられるだけ
  さあどうぞ きみのために
  空とべなくても なかない
  なきたくてもなけない
  ずっとおおぞらにあこがれていた
  ぼくのはねをきみにあげよう
  子ははねをむしった
  そしてせみのお墓をつくった
  夕暮れの河原の岩 ひざをかかえて鼻をすすった
 (河童に食べられたらいいんだ)
 そのとき人影があらわれた
 「家まで走ってかえるぞ」
 大きな腕に抱えられた

「子どもたちの歓声が聞こえてきそう!」
 白黒なのに、空の色が見える気がした。
「大人も子どもも、川で遊ばしてもろうた。鮎を百尾かけるくらい造作もなかった。川が唯一の娯楽の場だったんよ」
 この流れの下で鮎がひしめいていたのは昔話になってしまったのだろうか。
対岸へ渡るのに、自分で綱を引く渡し船の写真があった。
「こんな川船があったんですね」
「物資の輸送に使うとったもんですわ」
峠を越えていく人力車の写真である。
「荷車が険しい山道を越えてますね」
「村へ入るんも、出ていくんも、この道しかなかった」
 昭和四〇年頃に撮られたカラー写真があった。深く澄んだ渓谷が映し出されている。水量はとても多い。その左隅に写っている建物が当時の大川町役場だという。
「小高い川岸にあって、はるか下に水が流れとるでしょ」
 役場は、どんな大水もこの位置まで来ることはなかったという高台にあり、ダム反対運動の拠点とするため、ダムの計画が持ち上がってからあえて水没予定地に建てられたもの。しかし建築後数年でダムの底に沈む運命となった。
 ところが1994年、泥に埋もれた湖底から役場が顔を出した。水没してからおよそ二十年振りのことである。
「途方もない量の土砂がダムに堆積したんですね」
「造ったときには想像もできなんだ」
 筒井さんは、人口の推移をグラフ化したものを見せてくれた。往時は四千人を越えていた大川村の人口もダム建設後は激減し、今では七百人を切った。
「ダムの問題は一筋縄ではいかん。ダムの下の村は、電源開発の交付金が入るっちゅうて賛成にまわった。こんなに川が濁るんだったら、賛成せなんだらよかったって今では言っとる。最後まで抵抗した大川村も、一軒また一軒と立ち退いていった」
 コンクリートがせき止めた巨大な水塊に没した村。幼なじみや知り合いがいて、いつでも帰ってこられるのが村だった。帰る場所をなくした村人はどこへ行ったのか。
「見たこともない大金を手にして村を出たもんの、慣れん事業に失敗して悲惨な人生を送った人間も少のうないですわ」
 渇水で姿を現した廃墟見たさの観光客でにぎわう湖畔道路。その下をわずかに流れている泥水。これが今の故郷である。
「昔はもっと雨が降らん年があった。そのときでも谷の水は枯れなんだ。今や谷そのものに水がない」
 筒井さんは、冷たい麦茶をすすめてくれた。
「雑木を切って植林したもんじゃけん、水を溜める力が落ちた。林業ではもはや採算がとれん。手入れできんと荒れる。悪い循環じゃ。これではいかんと何年か前から雑木を植え始めた」
 春が来れば苗代を作り、稲を育てて、収穫の秋を迎え、山に入って薪を切った。仕事の合間に道具の手入れをし、用水や畦を補修した。川で釣りをし、森できのこを採り、枝打ちして薪を調達した。人と自然が搾取・破壊の関係にならずに、親密に結びつきながら営まれてきた数百年。親から子へ、そしてそのまた子へと受け継がれていった作業があった。ダムがなければ村人はずっとそこに住んだろう。

 岩のあいだから音がきこえてきます
 かくれているのは水のいのち
 これから川となって海へ下るしずくでした
 谷間に夏の陽が射してきました
 水の子は旅に出ることになりました
 山の小びとは一人ひとりに声をかけました
 だれにでも分け隔てなく接しなさいよ
 何も減らさず 何も加えず
 山の神様の贈り物を届けてくださいよ

 水を粗末にするなと教えてくれた人たちは山を下りてしまった。山の言伝てが海に届かなくなって半世紀が過ぎた。


 人里近くの山を里山と呼ぶ。その里山のくぬぎの樹にくっついて、飽きることなく口のブラシを動かしてるその虫は──?
「えいや」
 振り上げた気合とともに投げ出した。相手の身体の下にすばやく角を入れてすくいあげる。
今度は別の奴が近寄ってきた。
「えいや」
 また投げ出した。
 今度は茶色い図体の奴が来た。固い羽に二本の穴が空いているのは争いに破れた証。それでもゆずれない。
 夜行性だけど、お腹が減ると昼間からノコノコ出てくる。クヌギの雑木林が大好き。でも樹液が出るところは限られている。だから激しくぶつかりあう。オスは毎日が闘い。いったいいつ蜜をすっているのだろう。
 オスはメスより早く羽化する。オスだけの世界が数日続いたあと、メスが地上にはいあがってくる。やがてメスも樹液にたどりつく。オスとメスが出会えるのは今しかない。オスは激しく他のオスを追い払いながら、自らの子孫を残すべく求愛する。ひとりのメスが産むタマゴの数は三十個程度である。
 クヌギには、クワガタムシ、スズメバチ、カナブン、ハナムグリやチョウの仲間も集まってくる。ノコギリクワガタは体長5センチに達する。雑木林は、村人が生活のために手入れをしている半ば人工の森。この昆虫は、朽ちたほだ木や、ワラの堆肥を利用して産卵する。
 そして九月。毎日闘いに明け暮れた体が仰向けになるときが来た。地上に出てひと月、夏の終わりを告げるヒグラシの声とともにカブトムシの夏が終わる。次の年には彼の子どもたちが同じことを繰り返す。人の営みの添え物を頂戴して生きるカブトムシは里山にいる。


 山釣りのエッセイを書く熊谷栄三郎さんは全国の沢を歩く。
──四国で見つけたいもののひとつにサルナシの実があります。サルナシとはシラクチカズラに成る実で、北海道などではコクワの実といい、キウイの小型のような姿をしています。しかも一度食べたら忘れられない鮮烈な味がします。すっごく美味しいんです。サルナシには雄の木と雌の木があって、実が成るのは雌の木です。有名な祖谷のかずら橋の材料ですが、実が成っているのを見た人はいないんです。そういえば、吉野川源流にはマイタケも自生しています。東北だけではなく、全国の山で見つかります。
 戦前の推理作家に、森下雨村という人がいました。東京で名を成した後、郷里の土佐に帰って釣りばっかりして暮らした人です。おそらく絶版になっていますが、この人の作品に「猿猴川に死す」というのがあります。猿猴(えんこう)とは猿のことで、猿のようにすばしこい投網打ちの老人に付けられたあだ名です。ある日猿猴老人が川へ行くと、子どもが溺れていた。それを助けようと川に飛び込んだところ、頭を打って死んでしまったんです。釣り三昧の中にやさしい心根があった。四国にはそんな人がいたんです──。
 強風が焚き火の灰を散らす夜。十一月の吉野川の河原でほろよい加減の熊谷さんが「四国ってすばらしい処ですね」としみじみと話す。


 上流の村は、下流の都市に水や電気を供給している。しかも、森や棚田は降った雨を貯えては少しずつ放出する。さらに、森は二酸化炭素を吸収し酸素を供給している。
 千枚田などと文学にいわれ、山間の景観をつくってきた棚田の存在が注目されている。棚田は稲作に不利な土地で米作りを試みる人たちの汗の結晶であり、生活空間である。
 しかし棚田は、高齢者が細々と営んでいる。目に見えない上流からの贈り物に対して、下流の人々は何をお返しすべきだろうか。
 棚田を単なる生産の場のみならず、都市と山村の交流の場ととらえ、情報を発進している町がある。人口わずか二千三百人の徳島県上勝町である。ここでは、一人ひとりが主人公となってさまざまな形で生業を工夫している。全国から棚田の見学者を迎えた上勝町の標野ゆきさんの視点から見てみよう。

 いよいよ上流の棚田へ──。鬱蒼とした杉林を抜け、ぱあっと明るくなったと思ったら、そこには美しい曲線を描いた棚田が広がっていた。バスの中は「わあ」とため息まじりの声。夕日が稲穂を照らした風景にみんな息を飲んでいる。
 その昔、米は経済や生活の中心であり、いかに効率的に米を作るかが百姓の知恵であった。標高600メートルまで水路を張りめぐらせ、劣悪な自然条件と闘いながら築かれた棚田も、高齢化による耕作放棄や山林への転換が進んだ今、耕作する苦労は並大抵ではなく、数年後には維持できなくなりそうだともいう。「棚田は大きな水の器であり、ミミズの穴が都市を潤している」と棚田を守る会の谷崎勝祥さん。
 確かに棚田での農業はもはや経済的には成り立たなくなっている。しかし、降った雨を受け、時間をかけてゆっくりと川へ流す棚田は、すばらしい水循環のシステムでもある。近年、棚田に注目が集まるようになったが、棚田が持つ治水・利水効果はもとより、その文化的な意味、生態系に果たす役割については、村人も気づいていない。
 棚田を見た都市からの参加者は、「経済的に成り立たないものが排除されるのは時代の流れかもしれない」「棚田を初めて見て美しいと感じたが、崩れた様子を見るとあまりに作業が大変そうで自分の手でやってみたいとは思わない」などと感想を述べた。
 しかし今回の見学会は、自分たちの暮らしの意味を見つめ、それを外に向けて発信する絶好の機会となった。
 棚田の耕作は、農家にとって当然の作業であり楽しみでもある。少々大きな自分の庭を手入れするかのように、草を刈り、耕し、種を蒔いて畦を盛り、水を張り、苗を植えて成長を見守る。虫たちとも時に闘い時に助け合い収穫を迎える。
 四季折々に変わる田の表情。春には水を張った田ごとに月が映り、夏には青々と繁った稲が涼しげに揺れ、秋には頭を垂れた稲穂が黄金に輝く。それぞれが自分の手で作る風景──なんと贅沢なことか。そして、自分の糧を得る作業が知らず知らず周りの動植物を育て、水を守っている。私たちの暮らしは都市の生活に大きく関わっている。都会の人たちに「棚田の耕作はほんとうに楽しい」と白状するべきだ。
 勝浦川流域には、それぞれの生活があり、楽しさも苦労もある。しかし、現状が暗いと逃げずに、精いっぱい明るい未来へとつないでいこうとしている。棚田のミミズたちもがんばっている。これを問題提起として、川で結ばれた山村と都市の暮らしについて深く議論していただければ幸いである。 未来の勝浦川も美しく豊かに流れていることを信じている──。

 都会人のロマンだけではやっていけない山村。けれど、みんなの創意工夫と自助努力が的確な政策と結びつき、都市と山村の双方向の行き来が生まれ、流域が有機的に結びつくと、変えられる現実という魔法が生まれる。棚田や森林は、人がいてこそ存在することができる。夢を遠くへ飛ばすのは人。モノではなくてヒト。
(1998年2月、勝浦川では上下流の交流と生態系保全をめざす流域住民による自主的なネットワークが誕生した)。


 人は二十歳過ぎまで教育を受け、社会人となって働きはじめ、やがて家庭を築く。その過程で学ぶことを忘れ、感性を閉じ込め、社会の形式に自己を埋没させてしまう。どうしてそうなってしまうのか。
 それは、生活設計がやり直しのきかない直線になっているからではないか。人生九十年ともなれば、退職してからの時間が数十年残されている。その時間をどう過ごせばいいのか。
もしかして、他に自分の生きる道があったのではないか。自分がやりたいことは他になかったのか。社会から排除されることを怖れて、自分が傷ついていると人に言えなかったのではないか。ひとりの人間としてみたいこと、家庭人として果たすべきこと、社会人として望むことの間に距離はなかったのか。
 水はめぐり、季節は繰り返し、いのちは世代交代をする。それが自然の本質であるならば、人と自然の共生とは、何千年、何万年もかかって繰り返されてきた循環する時間をヒトの一生に取り入れることではないだろうか。
 循環する時間とは、一生のうち、何度か必要になる充電期間のことかもしれない。ボランティア活動、家族と絆を深める時間、自分の新たな可能性を試すための準備期間、若い時しかできないこともある。例えば、長い放浪の旅に出る…。
 そんなふうにやり直しのきかない直線的な生き方から、循環的な生き方へ変えてみる。間違っていたら人生は何度でもやり直せる、そのことに気づくこと。それが生き甲斐につながるのではないか。だとすれば、筒井さんは生き甲斐を見い出しているのではないか。
「大変でしょうけど、きっと未来の子どもたちに感謝されますよ」
「そう思て年寄りもやってますわ」
どうそお元気で、と辞した。ぼくは雑木林が水を育んでいるだろう、未来のこの村を想像した。

 ダムとともに泣き笑いの人生。
 おだやかな微笑みは絶えることはなく、
 人と自然の共生は循環する時間のなかにある──。

 ダム湖にかかる橋を渡り終えようとして、異様な光景に目が止まり、車を飛び降りた。目に写る画面の上半分は、青い空と緑の山。けれど、水が引いた下半分は泥の砂漠。このコントラストはいったい何だろう。
 今回の渇水では、ダムの恩恵をもっとも受けていた高松市が水不足に悩む結果となった。早明浦ダムの完成後、讃岐平野ではため池が次々と埋め立てられた。これに対して、独自の水源を持つ市町村では渇水はそれほど深刻なものにはならなかった。この明暗は、巨大ダムに頼る水源開発の限界をはっきりと示している。
 香川には満農池という大きな池がある。この池は、今日でも通じる高度な技術思想と大勢の人足を動かした情熱の人、空海によって修復された。密教を究めて自然の摂理を肌で感じ、俗界で最高の地位に昇りつめながらも、いつも人々と共にあった彼が生きていたなら、讃岐平野のため池をつぶすようなことはしなかっただろう。
 水を厄介物にして「早く出ていけ」と追い立てずに、「もう少し遊んでいけ」と歩かせる──ため池を作り、森や田に水を貯えてきた日本人。それは、時間的に変化する水量を空間的な広がりの中に貯え、時間をかけて対処することで、自然の変動のリズムに対応しようとしたものだった。
「今からでも遅くない。昔の人の智恵に学べ」
 再び地上に現れた村役場は、そう問いかけているように見えた。長い年月をかけて綴られた山村の暮らしには、箴言が隠されている。


 川とは…

 ダムの上流は、川底が上がって洪水の危険にさらされる。天候の予測がはずれたりゲート操作を誤れば、ダム放水による洪水に見舞われる。ダムの底にはヘドロや土砂が溜まり、数十年でダムが使用不能になっても対策はない。一方で砂の供給が途絶えた海岸線は浸食される。ダム湖には赤潮が発生することもある。水温が下がり、魚がいなくなった川から子どもの姿が消える。
 それでも「もっと水を」「もっと電気を」と新たな需要を煽る企業や自治体。だが、水や電気は無駄遣いされ、地球の豊かな地表をはがしていく。
 失われた水辺は二度と戻らず、水の底に沈んだ村は札束に化け、甘い汁をめぐって政財官の癒着と腐敗を生む。ダムに反対すれば、国や県に締めつけられて村は滅びるしかない。利権をめぐり村人同志が対立し、争いの村から人が消える。無人の村に立派な道路を付けても通る車はない。こうしてむらの共同体は崩壊する。
 戦後の日本の高度経済成長を支えた経済構造は、ある時代には重要な役割を果たしたかもしれないが、同時に、人(自然)が、自ら健全な身心(生態系)を保つ自律作用を失うことにつながったのではないか。
 すべてがそうではないかもしれない。しかし多目的ダムは、人間の良心の墓場である。


 二十年以上にわたって村を挙げてダム計画と向かいあっている村がある。徳島県の那賀川上流に位置する木頭村である。しかし木頭村も、反対運動に多大の犠牲を払った。ダムをめぐる利害の狭間で、村の実務をとりしきってきた温厚誠実な助役が自ら命を絶つという悲劇もあった。

 農林業の普及改善が村の振興につながると信じていた藤田堅太郎さんは、数十年前から村の有志とともにゆず栽培の研究に取り組んだ。その結果、ゆずは木頭村の特産品として定着した。しかし、いいゆずを収穫するには手間がかかる。年々高齢化が進む村人にとって決して楽な作業ではない。そこで、もう一本の柱として堅太郎さんが考えたのが銀杏である。自家所有の山林に三百本の銀杏を植えて試行錯誤を繰り返していた。
 堅太郎さんは助役とともにダム対策室長を兼任し、先頭に立ってダム反対を訴える村長を支えてきた。
 木頭村は藤田恵村長の下、ダムに頼らない村づくりの一貫として、村の産物を生かした製品づくりを始めた。なかでも大豆ケーキは、健康志向の現代にぴったりの食物繊維の多い低カロリー食品として脚光を浴びようとしていた。
 順風満帆に見えた事業であったが、さまざまな困難に直面した。堅太郎さんは律儀で人一倍責任を背負う人であったらしい。助役としての多忙な日々に加え、工場の実質的責任者でもあった堅太郎さんの心労は限界に達していた。平成八年九月のことである。
 ダム計画が持ち上がってから二十数年。村の将来を担った青年も還暦に達し、天寿をまっとうすることなく力尽きた。地域の意思をどうして国は尊重しないのか。村の助役を殺したのはダムではなかったか。
 堅太郎さんの死から半年後の平成九年春。建設省は、細川内ダムの建設を一時休止すると発表した。

 ダムを作れば国から巨額の金が入る。しかし木頭村は、ダムに頼らないむらづくりを選んだ。子どもや孫の代まで暮らしていける未来の村を目指して──。
 木頭村にエールを送ろうと、藤田村長のもとには全国から励ましの便りが絶えることはない。


 落ち葉ひとつ海にたどりつけない
 山の神様泣いている
 海の神様泣いている
 川は声を出さずに泣いている

 豊葦原瑞穂の国を豊かに流れた三万本の川は、息もたえだえである。川殺しの時代はまだ続くのだろうか。
 新潟大学の大熊孝教授はこう言う。「川とは、地球における水循環と物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」。


 徳島市近郊の佐那河内村で料亭を営んでいる岩本光治さんは、川による魚の味の違いを見究める。例えば、花崗岩質を流れる川の魚はおいしいという。概して小さな川の魚は骨が固く、大きな川の魚は骨がやわらかい。吉野川は大きな川にしてはいける方で、それは穴吹川などの支流の水がかかわっている。さらに、ダムや河口堰ができると海の魚の味は悪くなるという。いい川があるところにいい海があり、美味しい魚がとれる。岩本さんは環境問題の本質を、本物を見究める眼を通して語っているように思える。
 そういえば、人間の味覚を司る舌という器官は、亜鉛などの微量ミネラルが作用する。川のミネラルは魚の味に影響を与えるが、それを味わう人間の舌にもミネラルが欠かせない。

 山からの微量元素が海の生産性を支えていることを全国に知らしめたのは、『森は海の恋人』の著者、畠山重篤さんである。
 牡蠣の養殖に携わる畠山さんは、北海道大学の松永勝彦教授(海洋化学)と気仙沼湾の調査を進めた結果、そこに流れ込む大川が湾の生産量の90%を支えていること、また水深二十メートルまで川の水が浸透していることなどを突き止めた。松永教授は、広葉樹の落ち葉の堆積した土壌を流れる水に含まれるフルボ酸鉄という物質が、植物プランクトンの生育に大きく関与していることを明らかにしていた。
 こうして海の漁師たちが、上流の室根村の森に広葉樹を植え始めた。「牡蠣の森を慕う会」と名付けられたその活動は、十年目を迎えてますます広がりを見せている。

 森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく     (熊谷 龍子)

 『森は海の恋人』は、歌人熊谷龍子さんのうたから生まれた。畠山さんは次のように書いている。
──貝から真珠がこぼれるように、『森は海の恋人』というフレーズが誕生した。それは、武雄、一六、龍子と、百年がかりで育まれた、柞(ははそ)の森のしずくのような言葉であった──。
 柞とは、コナラ、クヌギなどの古称である。龍子さんは、田園歌人といわれた熊谷武雄の孫であり、農林業を営みながら、晴耕雨読の暮らしの中から歌を紡がれる。
 ある年の二月、熊谷さんと畠山さんは揃って徳島の勝浦川へ来られたことがあった。四国は初めてなので行きたかったの、と言葉を選んでおだやかに話される龍子さんと、決して雄弁ではないが、興が乗ると熱がこもってくる畠山さんは、森と海のような二人であった。
  森は海の恋人…その背景には、もう一度沿岸漁業を見直してみようとする漁師の心意気がある。身近な自然を通して、自分たちの暮らしを足元から見つめていこうとしている。
 こうしてみると、森や川を保全することが生活をささえていることに気づく。そうなって初めて、地域の活性化と環境保全が結びつき、環境問題に対する人々の意識や行動が生活感を伴って実践されるようになる。


  四国三郎の恵み、西から東へ

 数十キロメートルにおよぶ険しい渓谷、大歩危・小歩危は激しい瀬、深い淵、露出した巨岩を透明な水が洗う日本でもまれにみる急流渓谷である。かつては旅の難所だったが、国道が渓谷を走る今では、高松と高知を結ぶ四国の背骨となっている。
 大歩危から支流祖谷川を遡ると、平家の落人伝説で知られる秘境祖谷の集落に出る。祖谷の人たちには背筋を正すような凛と張り詰めた気配が漂う。男たちは土木工事に出かけ、女たちはソバやイモを家のまわりで育てる。お正月の雑煮は餅ではなく、イモである。
 祖谷の東にある霊峰剣山から、三嶺、さらにその西の天狗塚にかけては、風わたる笹原の縦走路となる。三嶺へはその南面の高知県上韮生川源流のフスベヨリ谷から沢を詰めていく。そこには鬱蒼とした深い森がある。

 見えないもの
 見えるもの
 人には見えぬもの
 鳥には見えるもの
 精霊は今もここに
 そこは深き泉水
 山懐に抱かれて
 静寂夢魂 生命無痕
 苔むし 屍さらす処
 流れて大岩
 ──そしてカミ宿る樹
 魑魅魍魎は汝自身かと問いかける
 風のざわめきやむことをしらず

 沢沿いには見たこともないような植物が密生している。樹木の一本一本に視線を移しながら足音を消して進む。ほのかに甘い沢の水、その冷たさを口に含みつつ胸突き八丁を匍匐前進すると、通称アオザレと呼ばれるがれ場が見えてくる。アオザレを左に眺めながら尾根に取りつくと、三嶺の頂上は近い。
 森のルールは森が教えてくれる。それを感じられる人だけが行けばいい。


 池田町を過ぎると、吉野川はくるりと向きを変えて西から東へ流れる。太陽が川から登り、川に沈んでいく。

 かんどり船の人 影絵となり
 竹林はざわめきを止める
 ヒグラシの声 遠く響き
 水紋があちら こちらで 泡立つ
 物音ひとつしない 川の時間
 ひたひたと 地球のしずく色に
 染まる みんな染まる

 池田町から善入寺島にかけては、長さ五十キロ、場所によっては幾重にも川を囲みながら、二七〇ヘクタールにも及ぶ竹林の帯が続いている。
 竹林は、地中にしっかりと根を張って土手を守るとともに、その枝で氾濫する水の勢いをくい止め、田畑に肥沃な表土をもたらす。それは水害防備林と呼ばれ、洪水から身を守るため、流域の人々が数百年かかって築き上げてきた。
 マダケを主とする吉野川の竹林は、さまざまに利用されてきた。建築材料、竹細工の材料、食べ物の包み、ときには子どもの釣り竿にもなった。
 笹の葉を洗って火でいぶし、お湯を注ぐと香ばしいさみどり色の茶になる。澄んだ川の淵を連想させる色である。竹の筒にご飯を入れて炊いてもいい。
 竹の子の煮つけはおいしい。鰹節と醤油だしにほんのりと甘さが漂い、コキコキとかぶりつく。うまい。てんぷらにしてもうまい。
 素材としての竹は軽い。裂けやすいがしなりがあり、編み上げると柔軟性があり、美しい造形を保ちながら強度は高いものに仕上がる。入手しやすく容易に加工できる竹は、大昔から細工にうってつけの素材だった。
 竹は六十年ないし百二十年に一度開花して枯れるという。しかし、十数年で元の旺盛な竹やぶが蘇る。伸び盛りの若竹は1日に1メートルを越えて生育することもあるという。竹の伐りだしは、樹勢が弱まる秋から冬にかけて行われる。
 真っ直ぐに伸びながらも、節があり、しなやかで生命力に溢れている。そんな竹に古人は神秘的な霊力を感じ取り、竹取物語などの民話も数多く生まれた。各地に、竹の神輿、竹を割る祭り、竹に火を放つ祭りなどがある。
 中国では、女子が針仕事がうまくなりますようにと、やぐらを庭に立て、お供え物をして牽牛と織女の星にお祈りをした。
 日本では、棚に機を設けて神の降臨を待ち、神とともに一夜を過ごす聖なる乙女の信仰があった。中国の星祭りである乞巧奠(きこうでん)と、日本古来の棚機女(たなばたつめ)の信仰が習合して七夕の風習になったと伝えられる。六日の夜には、五色の短冊に歌や字を書いて竹に結び、手芸や習い事の上達を祈り、七日には川に流して七夕送りをした。
 神が降臨される聖域として竹で依り代を作るのは神事である。最近では竹炭にして水の浄化に役立てるなど、その機能が注目されている。

 密生した竹林に分け入り、踏み跡をたどると、延命地蔵と彫られたお地蔵様があった。水難防止への祈りが刻まれているのだろうか。

 時間とともに老朽化する鉄やコンクリートとは違い、竹林は適切に手入れをしていくと、何百年も世代交代しながら再生していく。それは、いのちが循環する生きた堤防である。
 日本最大規模である吉野川中流域の竹林の回廊は、洪水と付き合ってきた先人の知恵である。世界遺産に指定して保全することはできないだろうか。


 水辺は、植物の宝庫である。水に近づくにつれて、河畔林、湿地の植生、抽水植物、浮葉植物の順に分布し、太陽の光が届きにくい水面下には沈水植物が生育する。陸と水が変化しながら接する水辺、海水と真水が接する水辺には、多種多様の生物が棲んでいる。
 生物の絶滅の速度を昔と比べてみると、一万年前は、百年に一種類くらいの生物が絶滅していたにすぎない。今では、一年に四万種類の生物がこの地上から姿を消しているという。生物は互いに影響しあい、つながりあって生きている。絶滅した種は二度と現れることはない。

 死ぬために生まれてきた遺伝子を知っていますか
 名前はアポトーシス死の遺伝子
 自ら計画して死ぬことで生物のカタチをつくる
 それを持つ生物は繁栄できた
 遺伝子も利他の心を持っていたこと 知っていましたか

 やがて訪れる死
 その設計図も遺伝子が書いた
 固体数が増えすぎると種は滅びる
 だから自然に死ねるのはいいこと
 生きることに一生懸命になれる

 生物の体を遺伝子の宿とすると、生物種が失われることは、遺伝子の多様性が失われることを意味する。進化論によれば、弱い固体を持つ遺伝子は淘汰されるはずだが、どうもそうではないらしい。生物が互いに関連しあって生きているように、遺伝子もネットワークとして生物間を越えて連携している可能性があるらしいのだ。
 農業では、数年で品種改良が必要となる。年数が経つと元に戻るからである。品種改良に際しては、その土地に生えている雑草を掛け合わせる。食料危機を救うのは雑草だ、という人もいる。
 人類にとってやっかいなインフルエンザやエイズ、がんなどの難病に効く薬効成分が、植物や微生物中に存在することもわかってきた。同じ種でも地域が変われば遺伝子は異なる。とりわけ生物種の宝庫である熱帯雨林は、かけがえのない蔵書(遺伝子)が無限に詰まった地球最大の博物館ともいわれる。生物の多様性、遺伝子の多様性こそが健全な地球の姿であると気づいた時、地球の生態系は危機的な状況になっていた。


 アメリカでは、生態系に影響を与える公共事業の必然性について国民から非難の声が上がった。そのため、行政に都合の悪いデータもすべて公開し、計画の是非を住民の判断に委ね、すべての情報(電話の打合せやメモまでも)を白日の下にさらして公開するという。南フロリダのオーメン博士から夕食を共にしながら聞いた話である。そして、事業の計画から実施に至るすべての段階で、住民を交えて、行政や専門家と論議を繰り返す。博士は、明治天皇の言葉を引用して「みんなで徹底して議論しよう。時間はかかっても、いい結果になる」とおだやかに語る。
 フロリダでは直線化した水路を、元の蛇行する自然河川に戻した。この教訓から得たことは、最初に道を誤ると、巨額の費用を投下しても復元できる可能性は低い、ということだった。

 アメリカ政府は「ダムの時代は終わった」と宣言した。建設を行わないばかりか、ダムを撤去して元の自然に戻すことも行われている。
 そのきっかけとなったのが、1993年にミシシッピ川で起こった氾濫である。数カ月間水没した地域もあり、500年に一度の大洪水といわれた。その被害を連邦政府が綿密に調査検討した結果、川を人為的にコントロールするだけでは洪水はもはや防げないと結論した。際限のないダム建設やコンクリート工事が自然を破壊し尽くし、そのツケが災害と財政難という形で人間にはねかえってきたのだ。
 そこで、自然と敵対するこれまでのやり方を改め、水を逃がしてくれる湿地や遊水地を見直すなど自然条件を生かしながら、被害に遇いやすい地域には保険制度で補償するなど、地域毎の危機管理(水管理のソフト面)に目を転じた。そんな総合的な水とのつきあいが大切と教えてくれた洪水だった。
 日本の国家予算は事実上破たんしており、出生率の低下、高齢化社会の到来からみて歳入はさらに減少する。そのうえ、多くのダムや堰などのコンクリート構造物が21世紀中に老朽化するという。そうなると、だれが建て替えるのか。
 持続的な社会であるためには、特定の施設に依存せず、流域全体で洪水に対処する必要がある。自然をねじ伏せる技術から、自然に寄り添う技術へと転換しなければならない。
 河川法はそのような方向性を取り入れて改正された。川は決して特定の団体や権利者のものではない。川を地域の人々の手に取り戻し、川と密接にかかわることが、豊かな地域づくりのための第一歩ではないか。

 水と光の国、四国は可能性を秘めている。原石に少し角度を変えて光を当ててやれば宝石となりうる。
 四国のことは四国で決めよう。心豊かに暮らす人が住む地域を創ろう。四国に限らず、日本の各地ですぐれた人材が野に咲いているに違いない。その人たちの夢が生かされる仕組み、生活者の声を反映した政治や行政──「地域主権」をめざそう。
 こんなことを言う人もいる。「四国という字には、八と玉が囲われている。すなわち、四国には神と王が隠されている」。
 ある人は「四つの国、八(八十八ケ所)を回ると、玉(美しいもの)に出会える」。
 別の人は「四つの国を合わせてしあわせ」と読む。こうした言葉遊びもおもしろい。
 四国はお遍路さんの巡礼する土地である。過去を忘れ、死に場所を求めてお大師さんと同行二人の旅に出る人の胸に去来するのは、そんなロマンではないにしても、八十八ケ所を四十日間かけて巡る旅は自分を見つめ直す時間に違いない。


  水に潜る橋と水に浮く家

 川島町の学島の潜水橋を渡ると、善入寺島という広大な遊水地がある。ここは大正年間まで三千人が住んでいた川中島である。道路はこの辺りで川から離れ、河畔林を伴いながらアラスカのような雄大な風景が広がる。はるかな向こう岸、広い河原、水上をわたる鳥の声。竹林の裾野には石が積まれ、魚の住処となる。時折カヌーに驚いた魚が反転して川底が濁る。70センチを越えるナマズもいる。徳島市内から半時間のところである。
 吉野川の風物詩のひとつに潜水橋がある。潜水橋とは、大水の時に水に潜る橋。こうすることで洪水の妨げとならず、橋も流されない。川の両岸を短く結ぶ潜水橋は、歩行者や自転車にとって便利な橋である。
 菜の花に彩られる春の高瀬潜水橋、夏の竹林に映る角の浦潜水橋は眺めて飽きない。秋の脇潜水橋の夕暮れ。民家と段々畠を対岸に控え、南国四国の情緒が色濃い穴吹川の口山潜水橋。学島の潜水橋はもちろんだが、善入寺島を横切り、北岸の分派流にかかる小さな潜水橋も「こぶな釣りしかの川」の趣がある。

 吉野川の度重なる氾濫は、決して害だけをもたらしたわけではない。洪水のお陰で肥沃な土が運ばれ、それが農作物にいい結果をもたらすことがあった。
 かつての阿波藩は、名産の藍染の原料となる藍の作付けを奨励していた。石井町にはその名残りの藍屋敷田中家がある。
 洪水常習地帯に建てられたこの家の石垣は、高さ2メートルにも及ぶ。川に面した方角には屋敷を守るために木が植えられ、納屋の軒下には小舟が吊るされている。屋根に届くような大水の時には、母屋の茅葺き屋根を切り離して船として使うという。
 田中家は究極の洪水対策を備え、水利と肥沃な土を求めて川から離れなかった。建築されて数百年、実際にノアの方舟のような大洪水はなかったが、数百年起こらなかった希有の自然現象に対して、畏敬の念とたくましい想像力を持って暮らした人々の心が伝わってくる。


                                                            第十の堰物語

 二五〇年余りにわたって吉野川に溶け込んだ構造物がある。第十の堰である。当時の第十村にあったことからこう呼ばれる。この堰は農業用水確保のため、江戸時代中期に作られたものである。
 石積みの景観は周囲に溶け込んでいて、付近は魚介類や野鳥の宝庫である。往時は、青石を積んだ堰の上を水が越えていき、その流れに乗ってアユやウナギがたくさん上っていった。
 阿波十二景の一つ「激流第十の堰」と記された昔の絵はがきには、満々と水をたたえた川面に白帆を立てた川船と、堰の南岸の浅瀬に仕掛けられたヤナが澄んだ水底の石ころとともに映し出されている。
「ここに立ったら、気持ちがすうっとするわ…」
人々は土手の上から、広々とした風景を眺めていた。堰は、子どもたちの恰好の水遊びの場所であり、仕事が終わった大人たちは夕涼みがてら四方山話を咲かせたという。石積みの柔構造のため、大水が来れば補修は必要だっただろうが、地域の人々の手によって二五〇年にわたって維持されてきた。
 しかしそのために、上流と下流の水の循環、物質の循環、生態系のつながりが妨げられることなく自然に溶け込んだと考えられる。維持管理に地域の人々がかかわることで、川との密接な結びつきが生まれ、川を知ることにつながった。経済的にも地域に資する仕組みとして参考にならないだろうか。

  第十の堰を在所とする尾上一幸さんはこう回想する。

 さくら、菜の花、れんげの咲く頃は人生の節目の時であった。丁稚奉公や入隊が決まった子どもを親がわざわざ堰まで連れてきて、「これがお前の故郷ぞ」と見せていた光景を思い出す。カメラが普及していなかった時代は、それがせめてものことであった。
 春が過ぎる頃、子どもたちは川に入り、魚とりが始まる。ハエナワのエサは竹林から取ってきたミミズである。仕掛けた夜はどんな魚がかかるか楽しみでなかなか寝つけなかったものだ。竹林は洪水を防ぐために植えられたものだが、たけのこや釣り竿の調達場所でもあった。
 夏休みともなれば、子どもたちは毎日のように堰に泳ぎに来た。遊泳区域も学年や身体の大きさによって自然に決まっていた。小学校低学年は、浅瀬のある堰の上部で、少し高学年は向こう岸まで、高等科になれば、堰のうず巻く流れをどう泳ぎこなすかというようにである。水が澄んでいたので川底まで見透せ、アユ、イダ、ヨシ、ドブロク、アユカケなどが泳いでいるのが見えた。カニもいっぱいいて、堰は淡水魚の宝庫であった。
 子どもたちはひと夏を過ごすと、身体が日焼けしてたくましくなる。上級生の指導によって向こう岸(二百米) まで泳げた時の感激はひとしおであり、夏が終わるころには自慢話に花が咲いた。子どもは泳ぐことによって成長していく。
 当時は、堰の表面に水の流れはなくとも、積み石と積み石のすき間から水が流れ出ていた。その流れ込む水の音を堰の音ととらえ、梅雨や台風時の水量を音によって聞き分けてもいた。堰の表面に水が流れるようになれば、上流に雨が降ったと予測し、それによって農作業への気配りもできた。
 お盆の夜の食事には、八つ頭の酢あえ、素麺、茄子の味噌あえ、五目ずしなどが出された。自分で捕ってきた鮎の姿ずしは最高の味であった。食事の後はトマトや西瓜も出され、家族全員が今年も健康で先祖の供養盆ができたことを喜び合った。
 早米の稲穂が出る頃は、台風の時期でもある。笛や太鼓の音が秋の夜長に聞こえてくると、祭礼の準備が始まる。台風の被害を受けずたわわに実った稲穂を見て、百姓の喜びを感ずる。豊作はうれしかった。祭りのご馳走といえば何といっても糀で造る甘酒だ。すっぱさと甘さがかみ合った独特な味は忘れられない。
 一方、堰は落ち鮎の季節である。落ち鮎はあまり美味とは言えないが、豊漁となってどこの家にも鮎を焼く香りが立ち、秋の訪れを感じた。学校から帰ると蒸したサツマイモやサトウキビをおやつに食べ、神社に集まって遊んだ。
 十二月に入ると、水量の減った川で堰の補強工事が始まる。何台もの荷馬車によって、水が引いた堰の上にトロッコの線路が敷かれ、ふもとの山から青石が運ばれた。青石をトロッコに積むのを見にいくのが何より楽しみであった。
 堤防での雑草の野焼きは壮観である。大勢の子どもが集まって、西の方から火をつけると、西風に煽られ大きな火柱が立ち、みるみるうちに拡がっていく。
 冬の吉野川は、五米くらい川底が透けて見える。野焼きの消火に汗だくとなった顔や手を洗うとき、ついでに口の中も川の水ですすぐくらい、きれいな流れであった──。


 河口から約一四キロにある第十の堰直下は、川と海が出会う場所でもある。今も昔も子どもの姿は絶えることはない。盛夏と晩秋の堰を覗いてみよう。


 八月の堰

 自然観察会が行われた第十堰。野鳥や植物の専門家の話を伺ったあと、地元の漁師さんの案内で下流の船上から堰を眺める。堰の上を水が越えていく様子は、青石を積み上げた往時をしのばせる。
 やがて船は中州にたどりついた。水底の石がひとつひとつ数えられる。水が澄んでいるのは、堰本体という天然の浄水器をくぐりぬけた水が下流に湧きだしているからだろう。喜んだ子どもたちは、帰りの船が来ても水から上がろうとしない。
 中州は北岸から泳いで渡ることもできる。島にヤナギが一本生えていて、水面に影を落としている。恋人たちの避暑地、少年の隠れ家ともいえるような秘密めいた感じがする。


 秋の第十の堰

 澄んだ水、沈んだ流木、陽光が射し込める水底は珊瑚礁のよう。あまりの美しさに居合わせた人たちは声が出なかった。幸運にも第十の堰の潜水に同行させてもらった一日である。
 時は大潮の干潮の時刻。船は堰本体に沿って進む。ところが不思議な現象に気づいた。堰直下の川面では、水割りウィスキーのごとく水がゆらめいている。この現象はどこでも見られるが、魚道のない南岸の方が見やすい。一方北岸は魚の宝庫である。1メートルもあるソウギョが岸辺近くを悠々と泳いでいる。南岸は海水が入ってくるが、北岸は引き潮時にはほとんど真水となる。夏に訪れた時も水底の美しさに驚いたが、水が澄んだ今の時期は息をのむほどである。そして堰直下の苔のついていないさらさらの砂…それは天からこぼれた銀の砂のよう。早明浦ダム下流でこれほど美しい川底を知らない。堰を通過する水が運んでくるのかもしれない。
 引き潮を選んで、第十の堰の水際を散策してみよう。この感動は体験してみなければわからない。

 十一月というのに、子どもが十人ばかり泳いでいるではないか。手に手に網を持ち、パンツ一枚で潜って魚を追い込んでいる。追われる魚はというと、アマゾンで見かけるような巨体をくねらせて泳いでいる。ここはほんとうに徳島なのかとびっくりさせられる。


 第十の堰は、もともと竹の籠に石を詰め、その上に地場の青石を積んだもので、堰の上を水が滑るように越えていき、その一部は伏流水となって下流に湧き出す。
 そのため、清流に生息するアユカケという魚や、生態系ピラミッドの頂点に位置するタカの仲間ミサゴも棲んでいる。このことは、餌となる小鳥や魚が豊富であり、さらにその餌となる小さな魚介類やプランクトンが豊富なことを示す。近年では、イセウキヤガラという貴重な水辺植物の日本最大の群落も発見された。また、シジミの産地として潮干狩りの人で賑わう。
 人間が堰を造り、川は堰に対して抵抗する。第十の堰は、地震や大水、流路の変遷などの自然環境や社会条件の変化にも柔軟に対応しながら、その時々に応じて堰が延長されたり補強されたりして少しずつ今日の形になった。それを下関大学の坂本紘二教授は「成っていく構造」と呼ぶ。「 人工物でありながら、自然に同化しているのが最高の技術である」とも言う。

 第十の堰とは、人が川とかかわりながら、持続的に存続させていく仕組みであり、未来に継承していける絶妙の資産なのではないか。二五〇年の歴史がそのことを証明している。



 あめ色のハゼとアオギス

 四国山地の水はようやく海にたどりついた。そこには、広大な河口干潟が広がっている。海からの風が吹くときは、白波が幾重にも押し寄せてきて干潟を洗う。潮の香りを思いっきり吸い込んでみる。とてもいい気分である。
 干潟は、シオマネキという片手が大きなカニや、一五〇種類を越える野鳥の飛来地となっている。吉野川大橋が夕日を背景に浮かび上がる時刻には、たくさんの人々がここを訪れる。釣りをする人、潮干狩りをする人、犬と散歩する人、波打ち際で遊ぶ子どもたちなど、それぞれに楽しんでいる。こんな場所が街の中心部からわずか一〇分という距離にあるのは、水の都徳島ならではといえる。
 たくさんの生物を育んでいる干潟には、大切な役割がある。一個のアサリが1リットルの水を1時間で浄化することはあまり知られていない。一見何の変哲もない干潟も、たくさんの底生生物や微生物の助けを借りて天然の浄水施設として機能している。

 ハゼの色は水質を映し出す。汚れた水に棲むハゼは黒っぽい。吉野川では透き通ったあめ色をしている。旬のハゼをてんぷらにする。二度揚げにし、オリーブ油を少量足らすと香ばしくカリッと揚がる。白身でクセがなく何尾でも食べられる。

 昭和五七年五月、吉野川のアオギスは、天然記念物に指定されようとしていた。週間釣りサンデーの小西和人さんは、文化庁から内定の知らせを受けて上京した。いよいよ記者発表という段になって、マスコミは締め出された。別室に案内された小西さんに向かって文化庁の担当者は、「天然記念物には学術上重要なものという原則があるが、アオギスには論文がないので指定できない」と言った。文化庁はなぜ態度を急変させたのか。
 小西さんはその理由をこう説明する。天然記念物に指定されれば文化財保護法の規制を受け、生存に影響を及ぼす工事はできなくなる。当時、吉野川河口には港湾開発として埋め立てが計画されていた。開発中止を危ぶんだ運輸省、建設省の猛反対があったのではないか──。
アオギス釣りは初夏の風物詩といわれた。船の影や船縁に当たるひっそりとした波の音さえ、この繊細な神経の持ち主は嫌う。そこでわざわざ船で脚立を浅瀬に運び、その上で釣りをしたのである。何と粋な遊びだろう。
 アオギスは河口の浅瀬に棲んでいる。大きくなるにつれて名前が変わる出世魚であり、三〇センチ級を徳島では「ボテ」と呼ぶ。しかし、東京湾から脚立釣りが消滅したように、汽水域の浅瀬がどんどん埋め立てられ、アオギスの生息環境が全国的に失われると、幻の魚と呼ばれるようになっていた。
 ところが、吉野川の鬼ケ洲で、ぼちぼち上がっているという情報が小西さんの耳に入った。そこで有志が集い、アオギス釣りに出かけた。それまでカラー写真のなかったアオギスを図鑑に載せるという目的もあった。そして、1尾だけ釣れた。こうしてアオギスはカラー写真にその姿をとどめることとなった。昭和五二年のことである。
 鬼ケ洲は、台風のたびに位置や形を変えていたが、海との接点にある大きな中州である。今は陸続きで面積も小さくなったが、かつては船で渡っていた。徳島市内の大岡の渡しの近くで生まれた小西さんにとって、この辺りは幼いころから遊んだ自分の庭。──その昔、竹やぶから伐りだした竹を竿にし、ハゼをさぐっていた晩秋のこと。突然、少年の竿をひったくっていった大物がいた。それは三五センチもあるボテだった。港湾計画で沖の浅瀬が埋め立てられる頃には、そこを産卵場所にしていたアオギスはこの国から姿を消し、少年の記憶と図鑑の中で生き続ける魚となった。


 潮が引いた干潟で、たくさんの種類のカニがはさみを振ってダンスをしている。黒っぽくて体が大きなシオマネキと、小さくて真っ白なハクセンシオマネキ、チゴガニ、アシハラガニ、ヤマトオサガニもいる。干潟をリズミカルに移動するのはトビハゼである。野鳥の世界に目を転じれば、はるかオーストラリアからシギ・チドリ類が渡りの途中でこの干潟に舞い降りてエサを補給していく。
 足に発振器を付けたホウロクシギが発見された。人工衛星の追跡によれば、オーストラリアを飛び立ったこの個体は、南大東島と吉野川で餌を補給したあと、シベリア方面へ向かうらしい。もし餌を十分に食べられなくなったらどうなるか。──海の上で力尽きるだけである。


 四国三郎とともに吉野川198キロの水の旅が終わり、優里は東京へ帰らず、ここで車を降りた。空の上から見えた虹、サメと皆既日食、ランギロア環礁の夕暮れ、ボラボラ島の少女、鳥の楽園、そして川と人とのとっても親密な物語。河口干潟から川に沈む夕日を眺めながら、彼女の胸を去来するものは何だったのだろうか。心の整理にひとりの時間が必要なのかもしれない。長旅をねぎらいながら、さよならといった。


Copyright(c)1999-2000 Office Soratoumi,All Rights Reserved