| 第1章 明日香へ | 第2章 南太平洋 | 第3章 四国 | 第4章 空へ | ||
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明日香へ コトッコトッ、コトッコトッ──。 夏木立を高原列車が抜けていく。 腕を組み直したり、足を曲げ伸ばしするうちに、千曲川が細くなってきた。車窓から八ヶ岳山麓を眺めながら西へ向かう列車は、小海線野辺山駅にさしかかろうとしていた。 清里駅と野辺山駅の間を日本最高の標高の線路が通る。どちらで降りようかと迷ったが、手前の野辺山駅で降りることにした。長時間列車に揺られていたので歩きたかった。両駅間を歩いたところでそれほど距離はない。中学の頃は天文学者になろうと思っていたし、野辺山には宇宙電波観測所がある。そんなこともあって、野辺山駅で降りた。 線路に沿って歩き、高原の風を受けながら観測所に着いた。キャベツ畑の海に突然現れた巨大なパラボラアンテナが八ヶ岳を背に林立している。南半球の離島の巨人像のように思い思いの方向を向きながら、休むことなく宇宙を見つめている。 空気は澄んでいて空は暗い。キャベツが逆光に葉を伸ばしている。視線を足元から走らせていくと、光を透かした葉脈がステンドグラスのように浮かびあがる。幾重にも重なりあうキャベツの海を白い蝶が空へと舞い上がる。さらに視線を上げると主峰赤岳が急峻な岩稜を突き上げ、ゆるやかな山麓の裾野へと続く。電波観測所を出てしばらく歩くと「飯盛山」の標識が見えた。 観測所の裏手から熊笹を縫うように散策路が始まり、高度をしだいに上げていく。いったん車道を横切り、再び山道が始まると、山の斜面をトラバースする踏み跡が続く。高原の一部が盛り上がり、碗に盛ったご飯のように鎮座しているので、飯盛山の名が付いたのかもしれない。 だんだんと頂上が近くに見えてきた。トラバース道から尾根筋をたどって分岐峰に着くと、そのピークで休憩している女性がいた。麦わら帽子にジーンズは山登りの恰好ではない。散策の途中で気の向くままに踏み込んだという感じである。あいさつをして通りすぎる。 標高1643メートルの飯盛山の山頂は土がはだけていた。山の南面には牧場があり、西方には高原の一角に赤い屋根の建物を含む三角形の居住地域が遠望できる。清里駅の付近だろうか。 眺めを楽しんでいると、清里方面から遠足の小学生が登ってくるのが見えた。喧騒が近づいてきて頂上直下の広場へ集合すると、山頂めがけて子どもが息を弾ませ駆け上がる。ついに小学生の一団と合流し、狭いピークは子どもたちの歓声であふれた。たくさんの黄色い帽子、レンゲツツジ、スズラン、里のとうもろこし畑を広角レンズで切り取った。 空気を腹一杯吸い込み、高原の植物に足を止め、樹木のトンネルをくぐりながら沢沿いを降りていく。汗を吸い取ったツイルシャツが冷たい。 寄り道をしながらようやく目的地の研究所に着いた。 「先生、お元気そうですね」 「歳を取るようではだめだ。ところで、車は何に乗っている?」 「マリンブルーのワーゲンゴルフです。室内は広いし、5〜6時間走っても疲れないし、硬めのシートに腰を降ろして計器に触れると気持ちが落ちつくんです」 「その車を一月貸してもらえないか?」 「どこにでもある車ですよ。それに先生は車の免許はお持ちでなかったのでは?」 「代車を用意しよう。ポルシェはどうだ」 「わかりました。でも、ぼくの車を何に使うんですか」 「研究用だ。ガレージにポルシェは置いてある。これに乗って帰るといい」 「車はいつ持ってくればいいのですか」 「君が車で来なかったのは誤算だったが、了解してもらえると思っていたし、旅行から帰るまで待てなかったので手配をしておいた。信州をあちこちまわっていたみたいだね」 「周遊券で、美が原、霧が峰、上高地をまわって千曲川を南下してきました。ここへ来る途中で道に迷いましたけどね」 「ほう」 「飯盛山から谷に沿って降りてきたんですが、ひまわり畑やとうもろこし畑を見ながらさらに川を下っていくと、道がなくなってしまったんです。普通は川を下れば里へ降りるはずが、清里では違うんですね」 「川を下れば町へ出るとは限らんよ」 ふたたび信州へ ドアを開けると女性がいた。 「お待ちしておりました。奥の部屋へどうぞ」 研究室まで案内され、ドアを閉めた。 「それではごゆっくりと」 教授は木を削って鳥の置物を作っていた。ナイフを握るごつごつした骨太の手は、木片より固そうだ。年輪を刻むことを忘れた脳は快刀乱麻の切れ味を持ち、眼光は鷹のように鋭い。 教授は、一年中灰色の薄手のジャンパーを着ている。黒板に向かって教鞭を取っていた頃、白墨の粉を避けるために着ていたのが習慣となった。数十年も着込んでいるので生地は痛んでいるが、黒縁の眼鏡とともに教授の人格の一部となっている。声は低く太い。癇癪持ちなのか、時折声を荒らげる。しかも一度も笑ったことがないという。齢七十を越えていても背筋はぴんと伸び、かくしゃくとしている。 「適当にそのあたりに座って。お茶は何がいい」 「美人がいれてくれるお茶なら何でも。助手を雇われたんですか?」 「番茶をちょっとあぶってもらおうか。それと、風鈴牧場の絞りたて牛乳」 「はい」 応接室の外にいたはずの女性が、いつのまにか部屋の隅の机で仕事をしていた。しかし、彼女はどこから入ってきたのだろう。怪訝そうな顔を見て教授がヒントを出す。 「瞬間移動したとは限らんよ」 「もしかして双子、ですか」 「未来君、明日香君をちょっと呼んで」 未来が一度出ていった後、もう一人の女性を伴って入ってきた。 「はじめまして。私は未来と申します。こちらは…」 「妹の明日香です」 「こんにちは」 「ふたりとも私の教え子だ。未来君は秘書で趣味はピアノ。明日香君は研究助手をしてもらっている。 部屋にはベーゼンドルファーが置いてある。したたるような高音の艶が特徴の楽器である。研究所にピアノが置いてあるのは理由があったのだ。 「先生、お話の途中ですが、例の論文が入手できました」 「そうか、あとで見ておこう」 「お二人とも将来が見えてきそうないいお名前ですね。ところで未来さん、よろしかったら一曲弾いていただけませんか」 「とても人に聴いていただけるような演奏ではありませんが、短い曲でいいでしょうか」 未来は鍵盤の上に指をそっと置いた。 (ショパン「幻想即興曲」演奏) 数分後、最後の和音が空間へ消えていった。 「すばらしい演奏でした。息の長いクレッセンドで盛り上がっていって、感情の頂点でふっとこぼれた情熱がため息となる瞬間、ピアノに触れる指を見て、ぞくぞくしました。一転して中間部ではセピア色の写真を胸に温めながらさらっと流し、それに渾身の力を込めたフォルテが対比される──切ない演奏でした」 「ありがとうございます。そこまで言っていただいて恐縮です。音楽にお詳しいようですが、何か楽器をされていましたか?」 「好きなだけで大して弾けませんが、ちょっとピアノに触ってもいいですか?」 「わあ、ぜひ聞かせてください」 椅子に座り、高さ調整、みぞおちの前で両手を合わせて精神統一。辺りは静まり返り、みんなの期待がいやがおうにも高まったところを見計らって慎重かつ大胆に音を出した。 (「エリーゼのために」演奏) 心の動きに従って律動は揺れ、無意識が刹那を支配し、そしてふたたび静寂が訪れた。 ふたりの姉妹は唖然としている。ただし、その反応は対照的だった。 「すばらしかったですわ。自分の力の限界を知らない若鮎のような推進力、目標に向かってひたむきな求心力、一瞬テンポが落ちたところこそ、ためらう心の葛藤という感じがしました」 明日香は視線をそらす。 (表情をつけすぎてピアノを弾く怪人百面相になった女と、爆発し損ねた芸術じゃない) 「みなさんのすばらしい演奏のあとに、口直しというわけでもないのですが、ちょっとレコードを聴いてみましょうか」 明日香が取り出したのは、ハンスクナッパーツブッシュ指揮、ワーグナーのジークフリート牧歌のLPである。 ベルトドライブのプレーヤーにレコードがセットされ、三三回転を選んでアームリフターを降ろす。数時間前に電源が投入されていたアンプのイコライザーをMCカートリッジに切り換え、ヴォリュームをゆっくりとまわす。白樺の木製キャビネットにマウントされたソフトドーム2ウェイスピーカーから音楽がひそやかに鳴りだした。 この指揮者は音譜をレガートでつながないし、情緒的に旋律をうたわせることもない。ただ、ミュンヘンフィルが室内楽のように楚々と鳴る。それなのに、対旋律や各楽器の響きが充実し、呼吸は深い。残響豊かな南ドイツの小さなホールでこんな演奏を聞けたらどんなにすばらしいだろう。本物の音楽に触れた喜びがあった。 「どうしてなんだろう、こんなにも音楽の彫りが深い…」 「どこまでもフォルテが伸びていくような…」 「音色が艶やかですね」 「静かなたたずまいなのに、抑揚がはっきりしている」 「レコードと針が接触して、溝と針が直接コミュニケーションしてるでしょう。光の反射を読み取るCDと違って、濃密な感じですね」 「大きな円盤の持つ慣性モーメントがエネルギーに変換されて、音の実在感に結びついているのかもしれませんね」 「何といってもダイヤモンドが信号を拾ってるんだから」 「量子化していないから音の隙間もないし」 おだやかな余韻を残して曲が終わった。 明日香のレコードコンサートのあと、車を見にいった。ところが、距離計がほとんど動いていなかった。 教授の視線は、どこか遠くを見つめているようであり、自らの内面深くに沈着しているようにも見えた。目を閉じると、ぽつりぽつりと問わず語りを始めた。 物質の生成と消滅にゆらぐ真空で 突如としてインフレーションが起こるとき 時間が生まれ空間が生まれ光が追い越していく 背景を満たす均等な放射と 泡のような銀河の配置 暗黒物質に未来を予見し 相転移で分かれた作用をひとつに集め 時空の化石となって閉じ込められた光を解き放つ 極小と極大は時間軸の差にすぎない── 量子の世界に相対性の橋を架ける すべて等しく部分に異なる奇跡の仕組み その思いを科学の名で語る 草原を駆けるひとよ 黒髪は風にそよぎ 白い歯は太陽にこぼれ 豊かな胸は大地に揺れる おまえが振り向いた瞬間 目の前に太陽が出現した どうしても突破口を見つけられないとき 微笑みが道を照らしてくれた その忘れ形見の娘たちが未知を照らす 「私の研究テーマは藐然を相手にしているようなものだった。しかし、ある日脳に亀裂が入り、混沌の闇で何かが収束を始めた。それを引っ張りだして光を当てる作業が続いた」 教授はさらに話を続け、理論の核心に入っていく。が、その概説は難解でとても記述しえない。 「私の実践があれに閉じ込められているのだ」 と彼が指さす方向には──。 「まさか」 「あの車はもう化石燃料は使わない。排気ガスも出さない。燃料は必要としないといってもよい」 「それが実現するなら、革命的な発見ですね」 「重力エネルギーを任意に変換して、その作用を循環する仕組みだ。これを重力場ユニットと呼ぶ。古典的なブレーキやガソリンエンジンも搭載しているが、ブレーキを使わずに重力のベクトルを変えてほぼ瞬時に止まることができる。コーナーを曲がる時も同様で、横Gを打ち消せるので感覚的には静止状態と変わらない。さらに、重力を上向きに作用させると…」 「空を飛ぶんですか」 「その通り。ただし、技術的にはまだ検討の余地がある。それから、地上を行く時は自動操縦ができる。ユニットが他の重力場、つまり障害物を感知して操舵装置に瞬時に帰還させるもので、乗組員の意思と感応する以上、無人操縦はできないがノータッチで運転することは可能だ」 ぼくの顔に現れた表情を見て取った教授は、 「深夜の高速で体験してみなさい」と言った。 明日香とともに 明日香が唐突に自分を指さして言った。 「私は射手座のAB型、あなたは?」 明日香はあどけなく笑う。肩に届かない栗色の髪をなびかせている。年齢不詳の感じがする。 教授から連絡が入った。 「こちらでモニターする限りは順調に行っている。調子はどうだ」 「とても不思議な気分です」 「もう一度確認する。行き先は奈良県高市郡明日香村。そこで、マムシの被害の実態を調べてほしい。航行頭脳の使い方は明日香君が知っている。衛星を通じて地球上のすべての道路と地形が出力できる。検索画面は研究所と直結していてさまざまな情報を引き出せる。左右の窓ガラスがディスプレイとなっているが、外からは見えない。重力場ユニットの影響により未知の現象が表れてくるかもしれないが、それは私にもわからない。その都度知らせてほしい。以上」 「明日香さん、動かしてみて」 夜間の高速は空いていた。 「やってみましょうか」 ガソリンエンジンから重力場ユニットへの切替えは、ステアリングホイールの蓋を開けて球体に触れる。このユニットで指紋を読み、同時に指先から神経波を測定して本人の照合を行い始動する。 期待と不安のうちにユニットを作動させた。瞬く間に時速200キロを越えた。さらに自動操縦に切り替えて時速320キロで車の間をスイスイ抜けていく。音速の世界だ。視界がどんどん狭くなっていく。最初は胃の辺りが落ちつかなくてむずむずした。車が曲がるときの重力を打ち消しているのでコップの水が揺れない。身体が慣れるまでに時間がかかりそうだ。 前方にサービスエリアが見える。止まろうと思うと、みるみる近づいてきて車は静止した。ハンドルを握らないので、飲酒運転にはならないことを発見した。だからビールを買うことにした。明日香はエビスビールとルイボス茶を買ってきた。この愉快な小旅行に乾杯! 「うわっ」 ビールが泡を吹きだした。 「まいったな」 「あら、ごめんなさい。ビールって炭酸飲料だったのね。ついつい缶を振ってしまうのよ。飲んだことないから」 顔を覗き込む。冗談で言っているのではなさそうだ。 「ごめんなさいね。今度からはもっと上手に振るわ」 明日香村到着 朝を迎えた頃、現地に着いた。 「明日香村はそんなに広くないから、車よりも自転車が小回りがきいていいよ。実はね、ここは私の生まれ故郷なの」 「そうだったの」 明日香は、この車に自分たちで名前を付けてみようと提案した。 1名の学識経験者と1名の運転者は、ブレーンストーミング風に次々と新車名を提案していった。消去法で残った三案が「スーパーゴルフ」「アースカ(EARTHCA)」「四国三郎」である。検討に検討を重ねた結果、「四国三郎」にした。所有者が四国出身であることから、四国の大河吉野川の別称を採用したものだが、実は明日香の里から山ひとつ越えるとこれもまた紀の川の上流、吉野川なのである。四国山地に源を発した小さな流れが成長しながら海をめざして滔々と流れるという四国の吉野川の雄大さと、いにしえの吉野の里を流れる吉野川の両方にあやかったといえる。 「一度四国の吉野川を見てみたいな」 「そのうち、見にいこうよ」 車の名称が決まったところで、明日香は提案する。 「近鉄橿原駅前でレンタサイクルを借りようよ。明日香盆地の美しい凹凸を自転車でたどるっていいでしょ。そのほうが機動性があるのよ」 「いいね」 「田んぼの真ん中や民家の庭から木片が出土したり、高台や丘に遺跡や古墳が点在してるって意外性があるでしょ。何じろじろ見てるの?」 「美しい凹凸」 「ひとりでいってらっしゃい」 くるりと振り向いた明日香の短い髪がなびく。 「まだこんな建物残ってたんだ…。ひとりでふるさとを訪ねてみるのも悪くないなあ。あら、もう一人いたんだ。すっかり忘れてたわ」 (こっちは勝手に行動する。ひとりで郷愁に浸っておれ) 「私がいなくても迷わない?」 (しまった、表情を読まれた) 「方向感覚は抜群だからね」 「犬みたいな人ね。あははは」 (何がおかしいんだ。何もおかしくないぞ。それなのに、つられて笑ってしまった) 「ハッハッハッ」 「馬鹿みたい、付いていけないわ。早く行きましょ」 ( 何でこうなるの?) 「どこへ行くの」 「飛鳥小学校!」 明日香のふるさと 「ここが私の通った小学校の跡地。校庭のすみを掘り返しているけど、また何か発見されたのかしら」 飛鳥小学校は明日香の学舎である。今は移転してしまった旧飛鳥小学校の前を小川が流れている。どこにでもありふれた里の川のように見える。 ところがこの小川こそ、万葉の時代にうたわれた飛鳥川。かつて原っぱを瀬音高く流れた清流も、千数百年の歳月が洗い流してしまったのか。それとも万葉人のような感動を現代人が持ちあわせていないのだろうか。 栢森、稲淵の辺りまで飛鳥川を遡れば、荒野を流れていた名残を留めている。渦巻く権力闘争、束の間の逢瀬、末法の世の疫病、仏教伝来のはざまで、朝な夕なに水辺に降りては水をすくい、流れゆく木の葉にうつせみの我が身を投影したかもしれない古人。河原の岩陰が楽しい逢い引きの場であったかもしれず、ときに流血の舞台となったかもしれない。 けれどすべてを呑み込み、洗い浄めていく飛鳥川を人々が特別な思いで見たにちがいないのである。水に流し灘きこと、流してしまおうと──。 神宿る神名備(かんなび)の里、飛鳥の真神原(まがみはら)を貫流する同じ河畔にこうして立っていると、感慨深いものがある。 明日香川明日も渡らぬ石橋の遠き心は思ほえぬかも 〔万葉集二七〇一〕 明日香川瀬瀬に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに 〔万葉集三二六七〕 多くの歌に詠まれた飛鳥川は、古代から丘陵の地に水を引くため堰が作られ、低地では田んぼが営まれていった。明日香のほぼ中心に位置する甘橿丘(あまかしのおか)では、盟神探湯(くがたち)が行われた。盟神探湯とは、正邪を決めるために神に宣誓して熱湯に手を入れ、手がただれたら邪であると判定する儀式である。甘橿丘には、蘇我蝦夷、入鹿父子が邸宅を構えたといわれている。 「いい眺めでしょう」 ここからは北流する飛鳥川がめざす大和平野の南部が見わたせる。さらには二上山や葛城山までが遠望できる。かつての藤原京を春霞越しに眺めた古の皇子、皇女たちの詠嘆が感じられる。甘橿丘は、現代から飛鳥を眺望する場所である。 大和三山が遠く近く見える。左から畝傍山、耳成山、香具山である。一番低い香具山は、お碗を伏せたようなまとまった形をしていて目にとまる。 甘橿丘の目と鼻の先、歴史に明るくなければ見落としてしまいそうな小山が雷丘(いかづちのおか)である。「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」と人麻呂が詠んだ高さ十メートルばかりのこんもりとした茂みは、うっかり見過ごしてしまいそうである。 飛鳥川を下りながら、山田寺へと足を伸ばす。大化の改新で功績のあった蘇我倉山田石川麻呂は謀叛の疑いをかけられて自尽したが、無実を知った中大兄皇子が悔いて建て直させた寺と言われている。 二台のレンタサイクルは、飛鳥寺、酒船石、岡寺、石舞台古墳へと向かう。なるほど、飛鳥はゆるやかな丘陵のような地形であり、アップダウンを繰り返しながら細い坂道が続いている。確かに自転車は便利である。 「明日香には変わった石像がたくさんあるのよ。見ざる、言わざる、聞かざるの猿石や、鬼の雪隠(せっちん)と鬼の厠(かわや)、これから見る亀石なんて可愛いのよ」 「これが亀? なんだか目が寄ってない?」 「そう言われれば変な亀ね」 「おとぎ話の動物みたいだね」 見れば見るほど、不思議な石である。石めぐりはさらに続く。まら石というのがあった。 「これ何かに似ていない?」 「うーん、何かのおまじないに使ったのかな」 「名前の由来を知らなければそうは見えないけどね」 「だから何?」 「見たい?」 「知らない!」 そういえば、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)の「おんだ祭」は、お多福と天狗の夫婦和合を演じる祭りだった。万葉人のおおらかさを見る思いがする。 「当時はどんな結婚生活だったか知ってる?」 「いや」 「妻問い婚といってね」 「妻問い婚?」 「女と男が同居せずに、好きな女の許へ男が通って来るわけ。女はまだ来ないか、今来るかと辺りを気にしながら男を待っているの。男の訪問を家族に知られないようにしてね」 「それで」 「だから、月の気配や、虫の声、風の音に敏感になって歌が生まれたのよ」 君待つとあが恋居ればわが宿前の簾動かし秋の風吹く 〔万葉集 四八八〕 見わたしの近き渡をたもとほり今か来ますと恋ひつつぞ居る 〔万葉集 二三七九〕 「男も女も微妙な時間を過ごしたんだな」 「どこまでが夫婦なのか、恋人なのかわからない」 「本人同士がどう思うかじゃない」 「どちらかに魅力がなくなれば去っていくわけでしょう」 「ふたりが逢えるのは一日の数時間。そして東の空が白む前に男は帰っていく」 「形式ではなく、純粋な愛情だけで結びついていたってことかもね」 明日香は万葉集が好きだという。この旅の折々にいくつか教えてくれた。歌の意味もそれとなく話してくれる。 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 〔万葉集 二〇〕 むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも 〔万葉集 二一〕 有名なこの二首も、天智天皇の妻額田王と、天皇の弟大海人皇子の間で交わされた許されぬ恋なのか、あるいは歌会の余興で披露された創作の恋歌なのかはわからない。万葉集にはきらびやかな一幕もあれば、万葉人の感情の綾取りが直截に伝わってくる愛の歌もあると明日香は言う。 明日よりは恋ひつつもあらむ今夜だに早く初夜より紐解け我妹 〔万葉集 三一一九〕 明日になれば会えなくなる二人がいて、宵のうちから衣の紐を解いて一緒になろうよと素直に打ち明けた歌であるが、意味を取るよりも、言葉の響きや抑揚を感じるために声に出して空間に浮かべてみたら、と明日香は提案する。 少しずつ明日香村が身近に感じられてきた。自転車で畦道を抜けていく六月の晴れた日である。 調査開始 午後4時、橿原駅前にいる。斜めの光が自転車の影を誇張している。その歪曲された見せかけから真実をくみ出す作業をしなければいけない。 二人は地元の保健所と新聞社に立ち寄り、マムシ事件のあらましを聞いてみた。応対に出た人は記事のコピーなどを提供してくれた。 今日はとりあえず、明日香村を身近に感じてみようと思った。感じがつかめれば、資料と突き合わせて今後の方向性が浮かび上がるのではないかと考えた。 宿に着いた。ところが、である。 「おかしいな、確かに二部屋予約したはずなんだけど、一部屋しか空いてないんだって」 とりあえず、湯浴みしたいという彼女に風呂に入ってもらってその間、テレビを見て待つことにした。 半時間後、戸が開く。 「ごめんなさいね、先に入らせてもらって」 明日香が濡れた髪をタオルで叩きながら出てきた。 「いいよ。ぼくは」 「どうして?」 「今夜は車の中で寝るよ。明日の朝7時にここへ来るから。7時半頃に一緒に朝食を食べよう」 「気を使ってもらってありがとう。今度はお風呂上がりにビールを一緒に飲みましょうね」 「いいね」 「おやすみなさい」 民宿を後にした。空いっぱいの月が東の空に出ていた。車が入ってこられない静かな宿を選んだので、川沿いの土手をしばらく歩きながら考える。今度の調査は何を手がかりにすべきだろう。 風が少し出てきた。 (あっ、蛍だ) 明日香を呼んでやろうか。この辺りは山間の繁殖地なのかもしれない。あちこちで黄緑色の微光がふわっ、ふわっと移動していく。ふくろうの鳴き声の周期で明滅する無声映画を見ているようだ。山裾には蛍の群れが風鈴のように揺らいでいる。一寸の虫にも五分の魂が在ることを教えているようにも思える。せせらぎが遠く聞こえる。 冷め冷めとした光は青く硬質の矢を降りそそぐ やわらかい空気が皮膚のそとがわを一枚二枚とはがしてく 地平線に顔を出せば赤銅色の○となり 頭の真上にとまれば水晶色の○となる ひと月まえにしまいこんだ想いを浮かび上がらせるその光は いずれも太陽をうつし出した大きな玄武岩の鏡だったとは 太陽がいて月がいて 宇宙がいて星がいて 「いて」があるから「いなくて」があり 「あいたい」があるから「あいたくない」があり 「相対性」があるから「絶対性」がある 満月のよる 嵐が接近する ん? 何かに触れた感触があって、間髪を入れずに左足のふくらはぎにカヤで切られたような痛みを感じた。それからヌルリと草むらに消えていった気配がした。マムシに噛まれたのだ。 (血清を打てば何でもない。血清を打たなくても平気な人もいる) 病院はどっちの方角なのか。誰も通りかかる人はいない。宿に引き返すのが確実だろう。応急手当として傷口より心臓に近い部位を縛る。生汗が出てきた。 そこへ、懐中電灯を持って近づいてきた人がいる。 「あれ、どうしたの?」 明日香だった。宿の机に置き忘れられた車の鍵に気づいて、後を追いかけてきたのだ。 「ちょうどよかった。マムシに噛まれて困ってたところだったんだ。病院へ行った方がいいかな?」 彼女は一瞬驚いたが、傷口から心臓よりの部位のハンカチをさらにきつく縛り直す。体重を分散させるように明日香の肩を借りて歩く。吐き気がするが、大したことはない。 「ゆっくり歩いていきましょう」 病院をめぐって三軒目で、血清を打たれてベッドの上に寝かされた。 「少し時間が経っているので多少まわっていますが、心配はいりません。あすの朝は歩けるでしょう。傷口が痛むようならこの錠剤をふたつ飲んでください。何かあればこのボタンで看護婦を呼んでください」 「お手数をおかけしました。ありがとうございました」 去っていく医師に明日香は一礼した。 「よかったね。大したことなくて」 「おかげさまで」 「教授に連絡しておくわ」 「マムシ取りがマムシに噛まれ、石めぐりの後は医師めぐりをしていますって報告しといて」 「何言ってんの」 「007も不覚をとったな。忘れた鍵に助けられるとはこのことか」 「あら、そんな諺あったかしら。それを言うなら、助けた亀に忘れられるでしょう」 「亀石の悪口言ったのがよくなかったかな」 「やめてよ」 「とにかくありがとう。もうだいじょうぶだから、宿に帰ったほうがいいよ」 「そうね」 明日香はうなずいているが、腰を上げそうにない。 「せっかく宿代払ってるんだから、帰っておやすみ。わかった?」 「もうしばらくいるわ」 明日香はいつになくおしゃべりをした。自分の生い立ち、学生時代の思い出話。 落とし物をしたのは、菜の花畠だったかもしれない。学校の帰り道、定期券とともに大切にしておいた母の形見を失った。それは真珠のブローチ。でも時々思い出す、という。 けが人の気を紛らわそうとする気づかいの明日香だったが、あいづちを打っているうちに、いつの間にか話し手の方がこっくりこっくりなっていた。 (何て寝付きのいい娘なんだ) ボタンを押して看護婦を呼んだ。 「はい、どうしましたか」 「すみません。毛布を余分にひとつ持ってきていただけませんか。介護人が寝てしまったんで」 まだあどけなさが残る看護婦さんがやってきた。髪を編み込んでいる。看護婦さんはしばらくしてバスタオルを抱えて戻ってきた。 「私の物ですが、よかったら使ってください。病院の毛布はちょっと暑苦しいかもしれませんから」 「わざわざありがとうございます」 「おかげんはいかがですか」 「もう何ともないです。走ってもいいですか」 「一晩だけですから安静にしてくださいね。何かあったらいつでも呼んでください」 彼女が出ていこうとドアを開けた途端、子猫が一匹迷い込んできた。黄土色の毛はもつれ、見るからに汚い猫だ。 ところが彼女は「どこから来たの。だめでしょ」と、そのまま白衣の胸に抱えようとした。彼女がかがんだ時、ポニーテールの栗色の前髪がふわっと額の上に着地した。白い首筋には小さなペンダント。立ち上がるとき、素足のかかとが鋭い線を描いて伸びると、やわらかな身体の線が白衣に張りをもたらした。猫を抱きかかえていた彼女がふっと顔を上げると、笑みを含んで全身から力を抜き、職業人の服を脱いで二十歳の娘に戻った。 視線が合った。それはひとときに過ぎなかったが、その間を光が何度か往復した。時間はあくまでも主観的である。彼女が出ていった。ほのかな香りが漂っていた。 春の苑紅にほふ桃の花した照る道に出で立つをとめ 〔万葉集 四一三九〕 何でこんな所で寝ていなければならないのだろう。少し憂鬱になってきた。ギリシャの哲学者曰く"天才はみなメランコリーである"。それならぼくは天才ではない。天才でないから楽しいのである。 心洗われるような天使の訪問がすべての疑問を洗い流して、真実の手がかりを浮かび上がらせていた。 確かにそうだ。しなければならないことは、マムシの被害の状況を漠然と調べることではない。その被害にどのような作異性が含まれているかということだ。では作異性とは何だろう。 それには被害の地域、時刻、気象条件(気温、土の温度、湿度、気圧)、地形と被害の相関関係を調べ、考えられる要因については多変量解析を試みてみよう。まず、行動することだ。そう考えるといても立ってもいられなくなった。 (多少熱が出るかもしれないが、生命に別状はないだろう) 毛布を押し込んで寝ている人間のダミーを作る。明日香のポケットに人指し指と中指をそっとすべりこませる。ふとももに温められた金属の感触が伝わってきた。指二本で鍵をはさんでするりと抜き出す。動かない下半身とは対照的に呼吸に合わせて胸が上下動している。寝顔に見とれていると、彼女が寝返りをうった。煩悩が悪いのではないとお大師さんは言っている。大日如来様がそこにいるような気がした。煩悩を昇華させる方法を不幸にして知らない。時刻は午前一時をまわったところだった。 すがすがしい朝 一晩中続いた慎重で大胆な分析が実を結ぶ時だった。心地よい疲労とともに迎えた朝。明日香を迎えに病院ヘ行こう。ついでに花束をと思ったが、こんな早朝から開いている花屋はない。 「ひどいわ。私を置き去りにして」 「おはようございます、お嬢様。昨晩は失礼いたしました。一言お詫び申し上げます」 「あなたは死刑です。伯爵」 「アントワネット様、それだけはご勘弁を」 「いいえ許しません。さんざん心配したんだから」 「許してくれなくてもいいから、朝御飯を食べながら将来について語りあいませんか」 「地球の温暖化、酸性雨、それともオゾン層破壊についてですか」 「もちろん、次の総選挙についてですよ。はい、どうぞ」 相変わらず変幻自在の明日香姫に、紫露草と大待宵草を結わえた手作りの花束。 「ありがとう。でも何のつもり」 「命の恩人にほんの心尽くしです」 山管の実ならぬ事を吾によせいはれし君は誰とか寝らむ 〔万葉集 五六四〕 そこへ朝の検温のため、昨夜の看護婦さんが入ってきた。 「おはようございます。気分はどうですか。お熱、計りますね」 「少し寝不足ですが元気ですよ」 「熱はないですね」 「お世話になりました、美保子さん」 白衣の天使に、山ぶどうの実を手渡した。農家の庭に生えていた矢車草が目にとまったが、摘んだのはぶどうの実と白粉花。 さみしそうに見えるのは疲れていたせいだろうか。 ところが、雲間から一筋の陽光が差しこんだ。その瞬間、彼女が微笑んだように見えた。ぶどうの実、ひと口ごとに甘酸っぱく広がる──。思い出の一場面を脳裏にしまいこんだ。 「まあ、ありがとうございます。早く良くなってよかったですね。無理をせずにお仕事がんばってくださいね」 形式的な会話に散りばめられた白粉花の色がほんのりと浮かんで見えた。心地よいけだるさを感じていた。 彼女が扉を開けた時、白いヒールの足元に猫がまとわりついてきた。手入れをされたその姿は、麦の穂のふさふさした金色をまとった、美しいチンチラ・ゴールデンだった。 真実の扉 「そういうことなんだ、病院では飼えないから…」 添乗員が一人増えた。チンチラ猫である。目がまんまるでフクロウのような顔をしている。猫ながら美女である。名前はまだない。 「驚いたわ、あの子がこんなに可愛かったなんて。磨かれていない原石だったのね」 「あの看護婦さんがもつれた毛を切って、風呂に入れておめかしをしてやったらしいよ」 「さっき荷物を入れようとトランクを開けたら、猫用のシャンプーとリンスが入ったコンビニの袋があったけど、どうしてかなー」 明日香はお見通しらしい。 「ところでどう、具合は?」 「ぼくは死ぬまでは不死身なんだ」 「冗談はさておいて、今朝はどこへ行ってたの?」 「これから話すよ。長くなるけど聞いてくれる」 プレゼン資料をディスプレイに呼び出すと、説明を始めた。 「国土地理院の二万五千分の一地図に被害地を書き込んでみた。マムシの出没地域がわかる。時刻や天候などの相関関係をχ(かい)二乗検定で調べてみたけど、特に有意性があるとはいえなかった。その他の因子も際立った相関は統計上みられなかった」 試みているのは仮設検定である。母集団について立てた仮説を採るか採らないかを母集団から抽出した標本によって定めるもので、測定値によって正しい仮説を棄却する危険率を有意水準という。 こうした統計分析に加えて、具体的な問題解決を志向する手法を盛りこむために、人間の経験的手法による巧妙さとコンピュータの情報処理能力を結合させた柔軟性を持つモデルを使う。解決に遠い方法を除去し、最適解の確率を高めることによって処理可能な規模にまで問題を小さくするもので、問題解決の過程をすべてコンピュータに依存するのではなく、対話を通じて人間の意思を生かすプログラムであるが、前提として仮説、推論が問題解決を指向するような設問でなくてはならない。このような問題点の抽出は思いつきではなく、主要な問題をできるだけ小さな枝に分解していき、要因をばらばらにした後で、今度はそれぞれの共通因子で再統合していく作業を行う。 「原因は何か。一定の周期でまむしの行動に影響を与えるもの、わかるかな?」 「蛇は熱に敏感じゃない」 「その通り。でも、この場合は当てはまらなかった」 ここで、いくつかの音の波長が干渉しあうグラフを呼び出した。 「マムシ事件の犯人は、釣鐘の共振による音波だった。釣鐘は共振しやすい。盆地状の地形も影響しているかもしれない。複数の鐘がさまざまな周波数で響きわたる時、一定の周期で人間の耳には聞こえない超低域のうなりを生じる、と仮定して、個々の釣鐘の形状・材質から周波数を推定し、鳴っている状態をシミュレーションしたところ、特定の共振周波数が発生することがわかった。この共振は近年の都市生活で問題になっていて、エアコンの室外機や乗物の騒音などによる低周波が原因で、不眠症になったりイライラする人が増えている。明日香村の共振周波数は人間が不快感を覚えるものではないが、マムシには歓迎されなかったので、近くを通りかかった生物は災難に遇うということになる」 「誰かさんみたいにね」 「もっと長い時系列で見てみよう。ほら、この周期を見てごらん。マムシ被害のピークが約2週間毎に来ているよね。有意水準5%でこの仮説を受け入れられる」 「考える原因は?」 「マムシがいきり立つのはかぐや姫に原因がある。2週間毎に繰り返す現象で一致するものといえば、月しかない。月齢と重ね合わせてみたのがこの図。ほら、新月と満月の頃にピークがほぼ重なっている」 「ほんと、不思議ね」 「英語の"lunatic"には、月に影響された狂気、の意味があるけど、君だって胸騒ぎしなかった?」 しばらく腕を組んで考えていた明日香が言った。 「私には腑に落ちない点があるのよ」 「どこが?」 「例えば、お寺の鐘は大昔からあるでしょう。ところがマムシの被害が増えたのは近年なのよ。これはどう説明するの?」 「統計がないからわからないけど、昔だってあったはずだよ」 「マムシが低周波を感じるってどうなのかな。マムシには獲物を感知するために孔器という赤外線を感じる感覚器があるけど、音波はどうかしら? 月齢との相関は確かに認められるけど、低周波との因果関係はあいまいよ。私は生物化学的なアプローチが必要だと思うのよ。例えば、産卵期の行動パターンを追ってみるとか…」 明日香の異議は的確だった。しかしこれ以上深耕しても何が得られるのだろう。 「うーん、そういわれると困ったな。でもデータが語る事実は仮定の通りだよ」 「確かにある仮説は説明されているけどね」 「事実と真実は違うかもしれないけど、結論は大筋で尊重し、部分的には保留としよう」 「そうね。ところで、私も一仕事したのよ」 明日香の手柄 「今朝は五時半に目が覚めて、誰かさんを探しにその辺りを散歩してたら、病院の屋上でぼんやりしている女の子がいたの」 ここで明日香は髪に手を触れながら目をぱっちり見開いた。 「コーヒー飲まない」 「いいよ」 「そうしないと、ホームズが眠ってしまいそう」 屋上に上がった明日香は、女の子にさりげなく近寄ってみた。 「いいお天気ですね」 雲は多いが、一日の暑さを十分予感させる。明日香の言葉に女の子はこっくりとうなずいた。明日香は気づいた。女の子の頬に涙の跡がある。とりあえず自己紹介をしようと思った。 「私は仕事で明日香に来ているんだけど、夕べ同僚がマムシに噛まれてここで血清を打ってもらったんですよ。付添いの私がいつのまにか寝てしまって、目が覚めたら病人がいなくなってたんです」 女の子は知子と名乗った。 「どんな人」 明日香は簡潔に人物描写をした。 「見たことないわ。その人ってあなたの恋人」 「単なる仕事仲間なんだけどね」 「私、もうすぐ彼とは逢えなくなるわ」 「失恋?」 知子は顔を両手で隠した。明日香はわかっていた。こういう時は解決を求めているのではなく、ただ聞いてほしいのだと。 明日香は人に相談するよりも、自分に問いかける方だった。行き場のない感情を込めて手紙を書くことも多かった。一晩かかって書き上げた数枚の便箋を、地球の夜明けとともに起きだして封印し、火に焼いてしまう。そしたら何となくすっきりするのだと言う。 なぜ出さないのか。それは夜中に書く手紙、特に月夜に綴った文章は、狂おしいからという。 ああ降りそそいでいる ふりかざした掌からこぼれた蜜 海の潮が引いていくまた満ちていく 遡ること数十億年 海から川をめざし 川から陸をめざした生物が最初に見たものは まあるい月輪の環 秘められた神々しさよ 太陽は狂わせる月は告白させる 渚では生命のざわめきが月の営みと同時に起こり いのちの誕生は月に支配された 血液は海 無数の生物が月に引かれて大潮の渚で交歓した だから私はいう 私のすべてを見せてあげたい見せずにはいられない 仰いではふりかえるふりかえる どうか月よ そのまどかなる縁取りで閉じ込めてください 「思いは閉じ込めないで話してみたら。私にできることがあるかもしれないし」 「実は私、白血病よ」 軽く空間に飛び出したこの言葉が明日香の胸に突き刺さった。 「ほんと、なの?」 知子は気持ちが落ちついたのか、微笑みさえ浮かべようとしていた。明日香はもう何も言えなくなっていた。 「一週間ぐらい前だった。水枕の氷をもらいに詰所へ入ろうとした時、院長と婦長が声を潜めて話をしているのが聞こえてきて…。それで入るのをためらって、聞くともなくその時の会話を聞いてたの」 院長はX線フィルムに視線を落とした。 「身近な例で考えてみよう。君も知子ちゃんがそうだったら、告げはしないだろう」 「しかし、あの子は若いんです。勇気を持って病魔と闘うことを支えてあげたい。万一だめであっても、残された生命の時間を精一杯感じて生きてほしいんです」 「それは人によると思う。繊細な彼女の神経が耐えられるとは思われない。精神的に追い詰められて生を謳歌するどころか死期を早めることになりかねない。人間の身体には恒常性を保ち自然に治癒する力があるが、恐れる気持ちが自然治癒力を失わせてプラシーボ効果もなくなる。そうなると治療が有効に作用しなくなる。患者は本当は知りたくないのだ。告知は初期の治癒する見込みのある患者のみに限定して行うべきだ」 「わかっています。しかし私は、その判断は患者に委ねるべきだと思います」 「君はあの女の子に、あなたは白血病です。余命数カ月です、などと言えるのか」 この病院の若い女性の入院患者は知子だけだった。しかも彼女は最近個室に移され、みんな優しく接してくれることがよけいに彼女を不安に駆り立てた。 明日香は、院長を訪ねてみようと思った。 「失礼します。知子さんの病状について詳しく教えてください」 院長は、診療時間前に飛び込んできた若い女性の顔に覚えがあった。 「昨晩の急患の付添いの人ですね。どうしたんですか。知子ちゃんとは知り合いですか」 明日香はためらいながら切り出した。 「彼女の病気、治癒する見込みはあるんでしょうか」 「本人次第だけど、まあ心配することはない」 「そんなに簡単に直るんですか、白血病って」 明日香と院長はしばらくの会話の後、すべてを理解した。 「ははあ、それで思い当たる。彼女が血液検査をした時に白血球の数を教えてほしいと言ったことがあった」 「結果はどうだったんですか」 「白血球は増えている、と教えてあげた」 「増えていたんですか」 「内蔵に炎症があるから白血球は増えても不思議はないよ。いずれにせよ、白血病とは何の関係もないよ」 「てっきりそうだと思い込んでしまいました。お騒がせして申し訳ありませんでした」 事の顛末はこうである。ある日、院長は医師会から送られてきた『病名告白の場面』という題のビデオを見て、婦長と数人の主任看護婦と議論をしていたことがあった。それはアメリカの事例を劇画風にしたもので、鑑賞者が議論して結論を導きだすようになっており、知子がたまたまそれを立ち聞きしてしまったのだろうということになった。そうなれば、一刻も早く本人に知らせる必要がある。明日香は知子のもとへ飛んでいった。 歴史的発見 ふたりの捜査から約半年後。飛鳥の歴史に残る発見があった。彼がひとりで測定と分析を繰り返していたあの晩、板葢宮伝承地(いたぶきのみやでんしょうち)地下十数メートル付近から物質反応があることに気づいた。そのことを教授に報告し、教授は知り合いの考古学者に連絡しておいた。 発掘が行われた結果、大津皇子と墨書された木簡や、年号を付した資料が発掘され、大海人皇子ゆかりの遺品が出土したことから、大井戸を含むこの一帯が、飛鳥浄御原宮である可能性が極めて高くなった。それまでは喜田貞吉氏によって、旧飛鳥小学校付近に比定されていたのだった。 それにしても微弱な地中の反響は、よほど静かな時でなければ検出されないので、幸運というべきだろう。マムシに噛まれなければ、病院に運び込まれることもなかったが、気持ちの昂りを静めるために、夜中に起きて行動することもなかったはずである。 大和平野の南部に繰り広げられたこの度の調査は、まむしの生態と人工の暗騒音の関係の解明とともに、古都の発掘という意外な展開になった。 やまとは国のまほろばたたなづく青垣山隠れるやまとしうるわし 〔古事記〕 帰路につく 国道25号線を東に走る。夕日を受けながらの操縦も一仕事終えた後では、疲労感とともに心地よく感じる。 明日香がぽつりと口火を切った。 「今でも教授の態度がわからないな。彼の狙いは何なの。研究は自己実現のためかもしれないけど、なぜ公表しないの? どんな偉大な真実も、いつか誰かに発見されるはずだから…」 「言われてみればその通りかもしれないけど、理論の実証を、ぼくたちとこの車が担っているんじゃない。問題は、世の中でこれがどんな意味を持つのか、どう受け入れられるかを考えてるんだと思うな」 「そうかしら? それと、看護婦の名前を美保子さんって呼んだでしょう。どうして知ってたの?」 「名札を付けてたから」 「名字はね。それからもうひとつ聞いていい?」 「明日香って人は、新聞記者のように好奇心をたくさん持ってるね」 彼女の変幻自在に見える態度は、実は本当の自分を知られたくないからかもしれないと思えてきた。 「パーキングエリアが見えてきた。車を止めて」 「どうするの」 「ひ・み・つ」 車を降りた明日香は、しばらくして缶ビールを2本抱えて戻ってきた。 「このハイネケンのうち一本は、思い切り振ってあるのよ」 「ふうん」 「それでね」 明日香は、さあ、選んで!と茶目っ気たっぷりに笑う。 選んだのは、左手に持っていた方。顔の前でえいっ、と抜くと、静かな音が短く響いた。 「幸運の女神が微笑んだみたいだな」 「仕方ないな」 おそるおそる開けようとした明日香の手がすべって、缶が下に落ちた。明日香はそれを拾ってタブを持ち上げようとしたが、手間取るうちに手元がそれて黄金色の水柱がハイネケンを飲んでいる男の顔にかかった。 「ごめんなさい」 明日香は急いでハンカチを取り出して、彼の顔を拭いた。 「ビールのかけあいをやってる人たちの気持ちがわかる。冷たいな、ビールの泡って」 横顔には一点の曇りもなかった。 「今思ったんだけど、短い髪似合ってるよ」 「ありがとう」 「ぼくは知ってたよ。この国の名前は日本、最初から泡が出ないビールが二本」 「どういう意味かしら」 「とりあえず乾杯しよう。一本しかないけどね」 「乾杯」 「今回の仕事は、いろいろあったけど楽しかったね」 「うん」 音速で駆けていく静かな夜だった。 「寒い?」 「少し」 遠くで誰かが呼ぶ声がする。その声に従ってふたりは船を入江の奥まで進めた。フィヨルドの谷間の奥には、人知れずひっそりと咲く白百合があるという。勇気を持ってふたりはその花を摘まなければならない。波間に揺られながら船べりに当たる音を聞く。それは、はるかな世界を旅してきた波の子守唄。波は絶えることなく打ち寄せてきては、遠く近く響きわたる。そうして深い眠りに誘う。自然のリズムをふたりの呼吸が追い越した時、甘美なその旅は終わる──そんな、いにしえの北欧の伝説のように、その船に揺られている。 目が覚めた。疑うことを知らない沈黙があった。観音様のようなおだやかな寝顔だった。 やがて彼女の隣にもうひとりの明日香が現れた。それは窓ガラスに映る立体映像だった。光に包まれた立体映像の明日香は、透き通るような肌がほのかに赤みを帯びて、霧の向こうにいるように見えた。 (宇宙は与えられるもの、けれど選ぶもの…) メッセージはここで途切れた。これは明日香が何かを伝えようとしたものらしい。本当は車を下りて一定期間の後に現れるように設定したつもりだったのだろう。 その時、明日香の頬をひとしずく涙が流れた。指で拭おうとすれば、それは本物の真珠となって床に落ちた。 (いったい何が起こっているんだろう) そう思って明日香をもう一度眺めた時、突然の睡魔に襲われてそのままシートに崩れてしまった。 「目が覚めた?」 聞き覚えのある声。 「よく眠っていたね。これからどこへ行くの?」 うとうとしていたらしい。 「どれくらい寝てた?」 「さあ、1時間ぐらいかしら」 「明日香さん、ビールは」 「買ってあるけど、どうしてわかったの?」 「ビールを掛け合ったこと覚えてない?」 「いつ?」 明日香の顔付きは、いぶかしげである。嘘を言っている目つきではない。 「ビールの掛け合いと言えば、今年はどこが優勝するかしら」 明日香らしく話題が次々と変わる。 「何だか寝ぼけているようだ」 「はいっ、これを飲んで目を覚まして」 明日香はバドワイザーを差し出した。 「目が覚めたら一緒に飲もうと思って、さっき買っておいたのよ」 「何か狐につままれたような気分だな」 「ビールの掛け合いっておもしろいかもしれない。ひとつ勝負をしよう。どちらか一本を私が振ります。二分の一のロシアンルーレット、さあ、どうぞ!」 明日香の背中で缶ビールを振る音が聞こえた。 「それ、さっきもやったよね」 「ううん、初めてよ」 「そうかな?」 「そうよ。さあ、選んで」 彼女の右手の缶を選んで、タブを取った。 「やられた」 バドワイザー火山は大噴火をして、炭酸アルコールの雨を吹き上げた。 「おあいにくさま、私は残りをいただきます」 明日香の缶は心地よい音を立てた。 「ぼくの負けだな」 「おめでとう。ハンカチをどうぞ」 「寒くない?」 「全然。きょうは何か変よ」 「そうかな。ま、とりあえず、乾杯」 明日香は「乾杯」という代わりに、サイダーのような白い微笑みで返した。高く上げた缶ビールを持つ明日香の横顔を、街路灯の光の縞模様が走り抜けた。そして胸元には光るものがあった。真珠のブローチだった。 これから研究所に帰って明日香村の一件を報告しなければならない。ふたりとも旅の余韻に浸っていた。冒険、仕事、調査、遊び、紀行、ぴったりくる言葉が見つからないような気がした。 「君なら何と表現する?」 しばらく間をおいて明日香が答えた。 「空飛ぶ車そらとんだ。ようこそ美しい凹凸の明日香へ」 明日香は胸を張った。 「旅行代理店のコピーみたいだね」 「まむしに噛まれまぶしい娘、野に咲いてこそ白粉花、野良猫も金毛に変わる摩訶不思議」 (それって皮肉?) 「ぼくもできた。──仕事の商用、歴史の逍遙、花の万葉、ごきげんよう」 (ちょっと文学的だったかな) (けっこうやるじゃない。それなら締めくくりはこうね) 「京都(今日と)いうなら奈良へ、明日というなら明日香へ。古の明日香、さようなら」 言葉遊びに疲れた。ビーチボーイズのバラード集をかけた。 ♪"Please let me wonder..." 眠りを誘う心地よい肉体の疲れを感じながら、ふたりとも無口になった。 「それにしても、あっという間の3日間だったね」 「……」 「少し冷房かけようか」 「…… 明日香の沈黙の理由がわかった。明日香はチンチラ猫を膝に抱いたまま、静かに寝息を立てていた。猫は万歳をして仰向けに寝ていた。 彼女にタオルをかけてやるのはこれで2度目である。話し相手がいないのならこれしかない。後続車はいない。 160、240、370キロ……。 青い影が新緑の木々の上を流れるように消えていった。 Copyright(c)1999-2000 Office 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