| 新聞採用(投稿)記事 テーマ : 地域づくり 四国で生きる、徳島で生きることを見つめて実践してきたことを共有していただくために、このテーマで投稿しています。地元徳島新聞をはじめ、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の全国版に採用または未採用の記事を含めて掲載しました。 → 全テーマ参照 |
| ●「棚田の学校は雲の上」(徳島新聞未掲載) 上勝町には不思議な集落がある。川沿いには家が一軒もないが、空に突き抜ける急峻な坂道を登っていくと突然視界が開ける。点在する家屋、小さな棚田が連なる斜面とそこに接する森…天空の城が現れたのかと思った。ここは尾根沿いの市宇という集落である。 今日は棚田の学校の日。田植えをするために徳島市などからやってきた数人が集落の人とともに定規を使って手で苗を植えていく。 裸足で泥田を泳ぎながら後ずさりしていくと、たちまち苗が整列していく。田んぼの形もいびつなら、植え方もいびつ。しかし稲はそんなことにお構いなく力強く成長していく。地元の人は「まちの人に来てもらってよかった」と言ってくれるが、ほんとうは自分たちだけでやったほうが早い。 それでも、まち人の訪問を心から待っていてくれる。あぜに生えているウドやフキ、よもぎを使ってみんなで昼食を作る。食卓には雑穀や山菜をあしらった料理が並ぶ。豊富なミネラルと食物繊維の長寿食だが、これが普段の食事という。 風が吹き抜ける天空の集落で暮らす人たち。里山にまもなく初夏が訪れる。その頃、棚田の学校は草取りとなる。 (1999年6月) ●「子どもを川で遊ばせよう」(徳島新聞未掲載) 小学生にもなれば、川で一日中遊んでいた。泳ぐだけでもおもしろいが、堰下の急流は体がぐるぐる回るのでジェットコースターのように楽しかった。 深みもあれば、瀬もある。魚やえびもいれば、川面を滑走するトンボや水たまりのメダカもいる。岸に上がれば竹林があり、竿を調達して毛針を流す。息が続かなくなったこと、唇が紫色になったこと、腹が減ってみかんをちぎって食べたこと…空の色を映した黄昏が脳裏に刻まれる。川は日本の自然である。 叔父を洪水で失った。川の怖さも知っている。しかしほんとうに怖いのは、川から遠ざかり、巨大コンクリートに命を預ける無防備な生き方。そこには知恵と努力の余地がない。ヒトが自然を制御しようすればするほど、生命の輝きが弱められる。ヒトが自然を守るのではなく、自然がヒトを守ってきたのではないか。 川で遊んで自然の摂理を体で覚える。そして思いやりの心、苦しみに耐える力を身につける。こうして自分の判断で生きていくことを子どもは少しずつ学んでいく。川はいつまでも川でありたい。これは大人の責務だ。 (1999年5月) ●「川と暮らす根っこ」(徳島新聞未掲載) 川は数十億年の昔から地球に存在した。そして海の生命が川に挑戦することでミネラルの貯蔵庫「骨」が生まれ、生命を陸へと誘った。川は地球上の水の循環、物質の循環を司る生命の源であり、ヒトが生きていく根っこである。 二〇世紀は金と権力が世界の基準となり、気がつけば、ヒトは生殖能力すら喪失しようとしており、自然は保護すべきものとみなされるようになった。果してそうだろうか。ヒトが自然を守ってきたのか、それとも自然がヒトを守ってきたのだろうか…。 ヒトの手が加わって始めて豊かな実りをもたらした日本の里山。そんなふうに持続的にかかわっていけるしくみが「自然」であるとすれば、その一つの象徴が吉野川の第十堰かもしれない。二五〇年を経た堰の水音は、何を伝えようとしているのか。 石積みの間を通過した水は透明度の湧き水となり、その営みは絶えることはない。もしかしたらあの水音は、川と暮らすことで根っこを取り戻せ、生きることの根源を見つめよとの吉野川の箴言かもしれないのである。 (1999年4月) ●「みなと小松島の活性化〜福祉都市をめざす」(徳島新聞掲載) 旅客便の廃止など、かつて四国の東玄関として賑わった小松島を知る人には淋しいこの頃である。 現在の小松島で広域から人を集めているのは、日赤である。広域的に機能を補完するものとして、医療・福祉を理念とした福祉都市を再構築したい。徳島市内まで十数分の静かな小松島は、住むには悪くないところである。 高齢化社会への対応として、自転車で出かけて欲しいものを毎日少しずつ買える商店街の存在は欠かせない。生活者の視点から商店街の再定義を行いたい。 阪神方面からの海水浴客でにぎわった横須松原を復元する動きがある。水辺の安らぎや緑は生きていくために大切だ。また、勝浦川でどんどん遊びたい。 地域の特質に基づいた的確な中長期のビジョンを示せない行政や意欲のない議会はあてにせず、市民一人ひとりが汗をかくことから始めれば、未来は決して暗くない。 (1999年3月) ●「松原の復元に向けて」(徳島新聞未掲載) 二十年ぶりに明日香を訪ねた。記憶と重ね合わせても景観はほとんど変わらない。集落の中央の甘樫丘(あまかしのおか)では、千年の昔と同じように夕暮れに恋人たちが談笑する。 村のメインストリートは信号で交互通行し、車の通らない静かな畦道を無数のレンタサイクルが通り過ぎると路傍の彼岸花が揺れる。万葉の飛鳥古京を追体験する初秋の一日である。 飛鳥がこれほどまでに人々の郷愁をかきたてるのは、激変する現代にあって変わらぬものへの憧れかもしれない。観光という言葉は、単に見る、見られるの関係を指すものではなく、その風土との交流であり、その意味で商業(商店街)とも同義語かもしれない。人がいなくなれば背景風土や環境が失われ、まちの活力も衰退していく。 四国の東玄関といわれた小松島には、かつて京阪神からの海水浴客でにぎわった名勝横須松原があった。今それを復元しようとする人たちがいる。それには歴史や文化、生態系といったさまざまな視点が必要だが、やってみる価値はあると思う。結局は地域に暮らす人たちがどのような未来にしたいかを、松原の復元という作業を通して追体験することではないか。 (1998年10月) ●「県南の未来を考える」(徳島新聞未掲載) 陶芸家の梅田さんは、若いころ日本中を歩いた結果「究極の田舎暮らしができるところ」として、宍喰町の山間部で創作に励まれている。 県南には突出した観光地はないが、蒲生田岬から南、特に日和佐から牟岐までの絶景の海岸線、時間が止まる亜熱帯の島・出羽島、憧れの清流海部川、紺碧の那佐湾、いい波が立つ東洋町はすぐお隣である。 この地域の魅力はこうした海・山・川が渾然一体となって醸しだされているもので、町の境を越えての広域的な連携が望まれる。 明石大橋開通に伴い、観光客は増えたが、今夏の海部川のゴミはひどかった。これからもそこで生活していく人たちと、心の癒しを求めて訪れる観光客との間をつなぐしくみが必要だ。 友人の庭にゴミを捨てる人はいないように、地域の風土や人々と知り合えれば、旅の恥をかきすてる「お客様」から、かけがえのない第二の故郷へと変わる。そして、友人を連れて訪れるようになるだろう。 そこにある「宝」を活かした共通コンセプトによる地域づくり、ニーズにあった施設の整備が望まれる。近所の人も遠方の人も知恵と汗を持ち寄り、子や孫の代まで住みたいと思うまちをつくっていきたい。 (1998年9月) ●「生活者による地域づくりを」(徳島新聞掲載) 「地域の特徴を生かした発展を」というのが自治体の首長の口ぐせである。ところが実態は、交付金によって地域の主体性を失うとともに、似たようなハコモノが並ぶまちづくりとなった。 高度経済成長時代には中央省庁主導の統制はある役割を果たしたかもしれないが、今では「中央とのパイプ」が地域を陳腐化しているといってよい。 北島町のホールは少ない予算ながら創意工夫で特色を出しているといわれる。上勝町はハードよりもソフト(人材育成)に注力し、そのことによって官民一体となった地域づくりで全国的に注目を集めている。 また県南の広域観光商業としての可能性はかりしれないものがあると思う。地域の宝物に光を当て、効果的に提示できれば湯布院や小布施町のような夢あふれるまちづくりもできる。 政官一体となって強引に押し進める大規模公共事業よりも、その地域でこれからも豊かな心で暮らしていきたい人たちの協働作業によるまちづくりが何よりも必要である。 政治行政任せでは何も解決しない。環境、教育、福祉…さまざまな問題も生活者の視点で知恵と汗を結集すれば、楽しいコミュニティは必ずできる。 (1998年6月) ●「川は徳島の宝物」(徳島新聞掲載) 全国を歩いた人ならわかるだろう。徳島は川の都である。そのため、独特の「川文化」が生まれた。 吉野川を例にとれば、先人の知恵を今にとどめる日本最大の竹林の回廊、大河にしては良好な水質、江戸時代の名残をとどめた第十堰など魅力に尽きない。 こうした川とのかかわり、水とつきあう人々の暮らしは、何世代もかけて育まれてきた。持続的な地域づくりには、こうした地域の宝を生かした方向で進めたい。 高知県の橋本知事は、肝入りで経済研究所を発足させ、四万十川の価値をはじいてみた。その結果、莫大な経済的価値を有することがわかったため、川沿いの工事を変更するなどした。 徳島県が推進している・「藍色回廊」、「いのち輝く世界の郷」は、ぜひこうしたソフト面を勉強して、持続的な地域経済の活性化をめざしてほしいものだ。 川は徳島の宝もの…まず、足元を見つめてみてはどうだろう。 (1998年3月) ●「NPOは時代の必然」(徳島新聞未掲載) 三十代の若い人たちの転職が目立つ。キャリア組や高収入の開発技術者が、市民グループで活動しているのである。この世代は、現場の空気を肌で感じ、組織の矛盾を痛感している。 NPO法案が国会で審議されている。行政機関は、大きな問題には無力で、小さな問題には融通がきかない。その間隙を埋めるのにNPOが必要となる。その背景には、社会が提供する仕事と、社会が必要とする役務がずれてきているからではないか。行政が行うと費用がかかって効果もほとんどないが、NGOが行うと、実情に即したきめ細かな内容になり、お金もほとんどかからない例が多い。 そこには、自主的に協働して共通目標を達成する喜びがあり、共感の輪が広がってネットワークがつくられていく。このNGO的な行動パターンは、企業経営にも参考になるものだ。 NGOが社会に果たす役割の大きさを評価する時、「ボランティアは無償」の時代は終わった。社会システムの変革が必要ということはわかっていても、政治や行政は一朝一夕には変わらない。市民運動は、社会のニーズを満たすべく必然的に生まれたもので、政治や行政はその成果や主張に耳を傾けてほしい。 (1998年3月) ●「人と森と海と…」(徳島新聞未掲載) 勝浦川流域ネットワークの発足に駆けつけた気仙沼の漁師畠山重篤さんは、その著書『森は海の恋人』で全国に知られるようになった人である。森に樹を植えようという畠山さんの呼びかけに対し、素直に共感し行動したのは子どもたちであったという。 漁師が山に樹を植えるのには理由があった。気仙沼湾の生産力の九割を支えていたのは、そこに流れ込む大川が運ぶ、広葉樹の森に含まれる物質であり、それが海のプランクトンを育んでいたのだ。 今年で十年目を迎えた植樹活動は、ますます広がりを見せている。地域の活性化と環境保全が密接に結びつき、生活感を伴って実践されているからであろう。 「一度四国に来たかったの」と言葉を選んでおだやかに語る熊谷龍子さんは、晴耕雨読の生活をしながら歌を紡がれる歌人である。海は森を森は海を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく、という彼女の歌からこぼれおちた柞(ははそ)の森のしずく…それが「森は海の恋人」なのだという。 流域がひとつになって、自分たちの生活を足元から見つめる時、森と海を結ぶ川の存在に気づく。健やかな川の営みを尊重して生きることを未来の子どもたちに伝えていきたい。 (1998年2月) ●「温かい気持ちで乗り切ろう」(徳島新聞掲載) ここ数年の企業の倒産原因は不況型であり、販売不振が要因となっている。落ち込みを知らなかった飲食関係すら前年比を割るところが出てきた。厳しい状況がしばらく続きそうだ。 これに対して、抜本的な対策は実はない。売上を伸ばすことが困難なら、経費節減、人員整理などリストラの道を進むしかないが、そうすると、ますます苦境に陥ってしまう。 原点に戻ろう。それは、心から心へメッセージをつないでいくこと。個人商店なら店内外の掃除を徹底させ、商品を磨き、明るく笑顔で客を迎える。それに尽きる。苦しい時こそ、日々の地道な作業を気を抜かず、温かい感情を持って、いきいきと仕事に励むしかない。幸い日本は、何とかご飯が食べていける状況である。 こうした時こそ、経営の目標、生きることの本質を見つめながら次の飛翔に備える期間と考えたい。世の中、悪いことばかりは続かない。雪解けの春はきっと来る。 (1997年12月) ●「夢多い個人の事業所」(徳島新聞掲載) 大企業が相次いで倒産し、雇用環境は厳しさを増している。そして環境問題が人類の最重要課題となってきた。環境問題では、分散処理がかぎである。リサイクルするよりも、最初からゴミを出さない。大型下水道よりも家庭での合併浄化処理などがその例である。 そうなると、経済の循環は地域単位で行われる可能性が高い。地域に少なからずある繁盛店は、例え大型店が隣にできようと、平気な顔をしている。大胆な提言かもしれないが、サラリーマンから個人事業所への転換も、経済および環境問題に対する軟着陸かもしれないと思う。 個店は競争力がないと思われているが、決してそうではない。パン屋を例に取ると、全国規模のメーカーと比べて、いい材料で手間ひまかけて作っても、なおコストは安い。 個人事業所には、常に創意工夫が必要だ。しかし、その過程が人を磨き上げる。夢を語りそれを現実にしていく、かけがえのない人生だから納得いくまでやりたい。それこそが人生の目的ではないか。 (1997年11月) ●「失って気づくもの」(徳島新聞掲載) 秋の夕日に照る山もみじ、という歌の一節がある。小さな山に刻まれた谷、その谷に沿って赤や黄色の葉っぱが見られた。 松原遠く消ゆる処と歌われた白砂青松の遠浅の海は、かつては京阪神からの海水浴客でにぎわった。ひと泳ぎした後の海の家のあめ湯がうれしかった。 四国の東玄関と呼ばれた港の前には何十台も車が止まり人が行き来し、駅前には「ハイカラ館」といわれた瀟洒(しょうしゃ)な建物もあった。身近な自然環境が失われると、町の誇りは失われ、いつのまにか駅はなくなり、商店街はさびれた。この町はどこかでボタンをかけ違えた。 目を転じれば、四国の大河吉野川には第十堰改築問題がある。長い年月をかけて自然と人が育んできた第十の堰はかけがえのない宝物ではないのか。失うことの代償はあまりに大きいのではないか。 我が町が海に臨む豊かな商業の町として、高い文化水準と身近な自然を尊ぶ町として生まれ変わってほしいと願うとともに、吉野川でも県民一人ひとりの思いが行政に届くことを期待している。みんなの力を合わせ、一歩一歩を地道に積み重ねていくしかない。できることから始めよう。 (1997年10月) ●「徳島88景〜海部川」(徳島新聞掲載) 何といっても県南。ぼくはここ十数年、毎週のように通いつめる。ここには熱帯魚のいる海や、ダムのない川がある。その中でも海部川が好きだ。 夏の夕暮れ、川面に水紋が立ち、厭世的なヒグラシの声。辺りは静まり返り、星がひとつふたつ輝きを増す・・川の時間である。 太古の昔、海で発生した生命は、やがて川をめざした。川に適応することで、陸へ上がる準備となった。海がいのちの故郷なら、川 はいのちの学校だった。 海部川は年々悪くなっている。洪水に対して竹やぶをつくったり、大きな石数個で流れを変えていた昔の人の知恵はどこに行ったのか。川との付きあいは、地域の生活そのものだった。現在の海部川で行われている工事にはそうした慎み深さはない。特に中流の道路拡張工事はひどい。竹林を背に、澄んだ淵と瀬が絶妙に溶け込んだ流域一の絶景はこの地上から消えた。 日本の清流とも呼ばれる海部川。この宝を残すことができるか、子どもたちに伝えていけるのか、大人たちの責任は重い。 (1997年9月) ●「21世紀に向けて県政への注文点」(徳島新聞掲載) 県政にもっとも求められるのは中央に頼らない独自の施策だ。国家財政の破たんにより、地方自治の本質が問われる時期にさしかかっている。 県政を活性化させる方法は、各市町村、各地域の活性化に他ならない。活性化とはハコモノ投入ではなく、地域の自主性、住民の意識を掘り起こし、その結果を行政が尊重すること。それによって小さなうねりが起こり、全県的、広域的なうねりになった時、四国は独自の発展を遂げる可能性があるのではないか。 持続可能な発展、自然との共生などと決まり文句のようにいわれるが、徳島は吉野川や室戸阿南海岸に代表されるように豊かな宝がある。それを原石のまま味わう。それは単なる観光ではなく、地域の人々が風土に根ざして生きていくシステムづくりでもある。 例えば、吉野川第十堰の向こうに何を見ようとするか。単なる洪水対策や自然保護ではない、豊かな未来への仕組み。それを見極められるかどうか、県政の試金石であろう。 (1997年8月) ●可能性秘めた四国(徳島新聞掲載) 地域の時代といわれる。近年では、香川県の郊外立地の巨大店舗の失敗に見られるように、流通業においては確実に転換点を迎えている。 商店街が果たす役割が見直されると思う。ただし従来型の商店街ではなく、事業主の自己実現の場であるとともに、それが地域の生活者に支持されるような良質のコミュニティである。 健康志向、自然志向、持続可能な社会を求める動きの高まりに伴い、経済活動の循環が小さくなることが予想される。そうした小さな経済活動が成り立つためには、一人ひとりの活力が大切なのはもちろん、行政が理念を持ってまちづくりの方向性を示すことが必要だ。今後は双方向の通信手段なども活用して、地域密着と広域商圏という矛盾をいかに解決していくか、また、物語を体験するような魅力的な生活提案ができるかが地域の時代の鍵となるだろう。 四国にはすばらしい海・山・川があり、それが八十八ケ所のような思想と結びついて独特の魅力がある、との指摘が平成義塾でもなされた。産業と地域のくらしが関わりあい、水と光あふれる風土で人が豊かに生きていく・・四国は限りない可能性を秘めている。その思いを小説にして近々発表したいと考えている。 (1997年7月) Copyright(c)1997-2000,Yoshinobu Hirai All rihgt reserved ▲戻る |