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新聞採用(投稿)記事 テーマ : 暮らしと環境 四国で生きる、徳島で生きることを見つめてね実践してきたことを共有していただくために、このテーマで投稿しています。地元徳島新聞をはじめ、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の全国版に採用または未採用の記事を含めて掲載しました。 → 全テーマ参照 |
| ●台風対策〜自然を感じること 近年になって、世界的に干ばつや洪水が発生するなど、農作物が潰滅的な被害を受けている。エルニーニョなどの異常気象が原因だが、化石燃料を大量に消費して温暖化ガスを生産している人間にもその責任はあるだろう。季節外れの上陸やコースが変わるなど、台風にもその兆候が見える。 自然は恵みと災いという二面性を持っている。洪水も渇水も雨の降る量が違うだけであり、そのどちらともうまく付き合いたい。 その考え方を押し進めていくと、「潮がよう引いたな」「風向きが変わったぞ」などと五感を自然に寄り添わせて感じること…つまり、自然を知ることで災害を未然に防ぐ知恵が得られるのではないか。水を怖がる者、侮る者が水に溺れるように、被害を大きくしているのは、自然現象に対する無関心、無知があるように思えてならない。コンクリートで川を固めたために流れが速くなり、堤防が決壊しやすくなったなどはその一例だろう。 だから、ぼくの台風対策は海・山・川で遊ぶことである。普段の自然現象をよく観察していると、この流れは護岸に当たってないから大丈夫、この崖は小石がパラパラ落ちてきて危ないぞ、などと判断できそうな気がするのである。 (1998年8月) ●改正医療保険法 四人に一人が六五歳以上という高齢化社会が迫っている。医療保険制度に限らず、国民の負担は今後増えるのは間違いない。こうした対症療法にとどまらない本質的な対策が必要だ。 ところが、将来を担うべき子どもたちにも異変が起きている。例えば「十才児の九八%に動脈硬化の兆しが見られる。日本の子どもの体力は過去最低」(文部省)、「子どもの八五%は外で遊んでいない」(総務庁)といった報告がある。 対策を三つ挙げる。 ・高齢者の活用。すばらしい知恵と経験が埋もれようとしている。それぞれの事情に応じて、ボランティア活動ができるような地域の仲介組織を整備。 ・人生設計の変更。卒業、就職、結婚、子育て、定年と一直線に走ってきた人生を、途中で何度か充電期間や再学習期間を設け、やり直しのきく「人生の循環型社会」への移行。 ・子どもたちの身近な自然を創出・確保。子どもたちはまだ遊び方を忘れてはいない。 (1998年9月) ●地球温暖化防止 「昔はもっと寒かった」らしい。確かにこの百年で地球の平均気温は上がったが、たった〇・五℃だ。それなのに今後百年で三℃を越えるという。そうなれば、人類を含め多数の生物の存続が危ぶまれる事態に直面する。 早急に地球的に「作らない」「使わない」質素な生活に切り換える。ぼくの場合、冷暖房は使わず、車は十数年乗り替えず、運転も必要最小限にしている。それは「地球環境のために」やっているのではなく、それで十分だからだ。人に強制するつもりはないし、それでよいと思う。 将来の経営についての予測は困難だが、少なくとも経済の循環は地域単位で、「そこにあるもの」を活用して行われるのは想像に難くない。商業、サービス業、農林水産業の垣根を乗り越えて、交流の可能性を探りたい。遠いようだが地道な交流を通した地域づくりをやっていくことも、軟着陸のひとつだと思う。 (1998年11月) ●遺伝子に託した先人の知恵 すらりとした足、細面の顔…これが今の日本人とすれば、丸い顔、短い足の百年前の人も日本人である。短期間にこれほど変貌を遂げた民族はいない。 それはなぜか。ぼくは食生活と環境ではないかと思う。数百年受け継がれてきた暮らしとそれを取り囲む風景…鎮守の森、水田、松原などがなくなり、コンクリートに変わった。そこにあったものはさりげなく見えたが、一度失うと人々の心に変化が生じた。何だかつまらないものに見えてきたのである。 第十の堰(せき)が観光地という意見もあるが、ぼくは違うと思う。何気ない風景が宝物と地域づくりの担い手たちはいうが、人々があの堰を歴史記念館だと思うようになった時、人と川が親密に、時には闘いながらやりとりしてきた二五〇年の歴史は閉じられる。 第十堰は、洪水の原因でもなければ自然保護の象徴でもない。ただ、人と川がかかわるなかで、あの構造が多種多様な動植物を養ってきた。魚や貝、雑草の一つひとつが、未来に伝える貴重な遺伝子資源なのだ。 地域の思い出の風景に隠された先人の知恵。それは未来につなぐ思想を秘めながら、今日も旧吉野川へ水を分けている。 (1998年11月) ●自然界のしくみ尊重せよ ヒトの生殖能力がここ数十年で著しく低下したといわれる。原因はDDTやPCBなどの化学薬品が体内に蓄積されたからで、それらを「環境ホルモン」と呼ぶ。かつては、安全無害で科学が生んだ夢の産物とまでいわれたものである。 都合の悪いことにヒトの体はそれらを天然のホルモンと錯覚して受け入れる。そして、生殖障害やがん化などの症状を引き起こす。その脅威は無差別である。「子どものいない世界」「人類の春はもはや来ない」という衝撃的な未来を予感させる。 生物は、数万年かけて体内環境を進化適応させてきた。ところが、化学物質はわずか二・三〇年で大量にばらまかれたもので、生物の免疫システムはこれを識別できないのだ。 治水も同じだ。歴史をひもといてみると、森の手入れをし、棚田やため池をつくり、竹林や遊水地を確保し、時間をかけて水に対応してきた日本人がいた。長い時間をかけて育まれてきた自然界の複雑精巧で微妙な仕組み…それらは決して即効性を求めた技術で置き換えうるものではない。 未来に向けて、今すぐ「すること」「しないこと」を明確に分ける作業が、個人(地域)、企業、行政レベルで急がれる。 (1999年4月) ●環境とクルマ 一三年乗った車の買換えを考えている。年月を経ても古さを感じさせなかったのは、合理的なパッケージング(小さな外寸と広い室内)、低燃費、安全重視など今の車のコンセプトを先取りしていたからである。 占有面積や燃費を考えると大型車や4WDは避けるべきとの意見があるが、長い間付き合おうと思ったら好きな車を選びたい。環境負荷の少ない車を選ぶのはもちろんだが、それよりも不必要に乗らないことが大切だ。 例えば、徳島県内には自家用四輪車が約五五万台走っている。それぞれが月に十キロ走行距離を減らせば、年間で約七百万リットルのガソリンが節約できる。これは約五千台の車の削減に等しい。買い換えの際に一割小さい外寸の車を選ぶのも渋滞の緩和に役立つ。 徳島では公共の交通機関は利用しにくいが、車は必要悪である。ならば、地球の空気や化石燃料に思いをはせながら、車に乗るのも悪くない。 (1999年4月) ●共働き〜男の言い分、女の言い分 無人島なら、男と女の役割分担は明確に分かれるだろう。男が育児をしたり、身重の女が重労働をするわけにはいかないからだ。けれど都市生活は、男女の役割を曖昧にした。 結婚するなら夫婦別姓、場合によっては夫婦別居でもかまわないと思う。それぞれが生活の上で自立できてこそ、対等の関係(パートナー)になれる。1+1を3にも5にも高める協働作業が結婚ではないか。 しかし男は、結婚すると確実に仕事の質が落ちる。女は、自分の時間がとれなくなる不満が残る。結婚が経済的にも社会生活上でも負担になっていることが、結婚を遠ざけていることは否定できない。 一方で、環境ホルモンなど化学物質の汚染により、生殖能力が低下しているとの報告がある。また出生率の低下もそれに輪をかけている。種の存続に黄信号が点灯したともいえよう。 生活設計やそれを支える社会制度面、生化学的な環境面も含めて、他人任せにはできない。だから個々人の実践が重要である。 (1999年5月) ●「根っこを見据えた選択」 徳島市議選では、住民投票をめざす無党派の住民グループが支持を得た。那賀川町長選では素人集団が風穴を空けた。もし生活者に密着した政治をめざすなら、選挙運動も手の届くものでなければならない。有志が手弁当で集まり、結果よりもその過程を大切にしたことが成果に結びついた。 二〇世紀は金と権力が社会の基準となり、気がつけば、ヒトの体や生態系も健全さを失おうとしている。ヒトが自然を守ってきたのだろうか、それとも自然がヒトを守ってきたのだろうか? ヒトの手が加わって始めて豊かな実りをもたらした日本の里山。そんなふうに持続的にかかわっていけるしくみが「自然」であるとすれば、その象徴が二五〇年を経た吉野川の第十堰かもしれない。 机上の空論は要らない。政治や行政は、生活者の中に飛び込み、もっと住民とともに汗を流そうではないか。なぜなら今回の選挙は、生きることの根源を見つめることで「根っこ」を取り戻したいと思う市民の気持ちの表れだからである。 (1999年4月) Copyright(c)1997-2000,Yoshinobu Hirai All rihgt reserved ▲戻る |