| 風の回廊 | |
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わからないこと 夕日に向かって背伸びをしていた菜摘は気づいた。 「あれ、なあに?」 照男は、菜摘の指さした西空に双眼鏡を向け、太陽を注意深く避けながら7度の視界に入れた。 「飛行機みたいな形をしているけど本物じゃないな」 「紙ヒコーキかもしれない。ちょっと貸して」 抄子が覗いた。 「やっぱり、そうだ」 「ちょっと待った」 照男はノートパソコンを取り出した。 照男は、複数の地点で撮影したデジタル画像を入力して紙ヒコーキの軌跡を割り出し、3Dの地形図に再現した。画面に映し出された軌跡はほぼ同じ地点から飛び立っていた。 「例の急斜面だ」 ぼくも見た、とわたるが答えながら菜摘と目配せした。二人だけの秘密があるようなそぶりを見て抄子は問いかけた。 「どうしたの?」 菜摘はわたるの肘をつついた。 「わたる君…」 「じゃあ、言うよ」 まずわたるが、菜摘と再会するまでの道のりを、そして二人合流してから白き国へ迷い込んだ体験を菜摘が話し、再度わたるが付け加えた。抄子は、二人の瞳をじっと見つめながら聞いていた。わたるは抄子と視線が合った。 「白き国を案内してくれたのは、みまさという女の人だったよ」 「ほんとう? 実は私の雅号はみまさっていうのよ」 「雅号って何?」 「画家や文人が使うペンネームよ」 「ええ!」 今度はわたるが驚いた。そんな珍しい名前は世の中に二つとあるものではない。 「抄子さんは、やっぱりみまさなんだ」 「ちょっと待って、私だってわけがわからない」 「抄子さんはなぜ"みまさ"って名前を使ったの?」 「それは私が聞きたいぐらいよ。"みまさ"っていうのは、"見優る"ということ。つまり、見るたびに前より優って見える、想像よりも優って見える、そんな絵を描きたいからつけた雅号なのよ」 「みまさは白き国に入るための条件があるって言ってたね」 「そう。それにみまさは白き国の鏡師だって」 「久しぶりの訪問者だって言ってた」 抄子が会話に口をはさんだ。 「久しぶりの訪問者? ということは、誰か行ったことがあるってことかなあ」 二人の小学生の不思議な体験を疑う気持ちは抄子にはなかった。 話しこんでいるうちに登山口に着いた。そこでひょっこり出くわしたのは、菜摘の担任の宇治先生であった。 「あっ先生、こんにちは」 「おや、菜摘ちゃんこんにちわ。みなさんで登山ですか?」 抄子は会釈をした。 宇治先生は郷土史の研究家としても知られている。通り一遍のあいさつのあとで、抄子は尋ねてみた。 「先生はこの辺りで鏡について何かご存じのお話はありませんか」 「まず一般的な鏡の語源ですが、三つの意味があります。まずは光の反射を利用して写し見る姿見。次に権威の象徴としての呪術的宗教的な色彩を持つ古来の道具。それから模範や手本という意味ですね」 宇治先生は博学であった。 「この土地に限ったものではありませんが、鏡に関連するおもしろい言葉がいくつかありますよ。例えば、老人の昔話という体裁で語られる歴史物語を鏡物と呼ぶことがあります。それから、古代の貴人が水鏡とした池を鏡池と呼びます。実はここの泉も鏡池と呼ばれていたという伝承があるんですよ」 「へえ、そんないわれがあったんですか」 抄子が尋ねた。 「この地域の鏡物で何かご存じありませんか」 「せみなし川に架かる六月二五日橋という変わった名前の橋があるのはご存じですよね」 宇治先生は間髪を入れずに答えた。 「実は、四人ともそこで知り合ったんです」1 「六月二五日橋という名前の由来がわからないというのが定説でした」 「新聞で何度かそのように書かれていましたね」 「実は、この付近で生まれ育った人のなかには知っているという人もいたんですよ。三木家という旧家の大奥さんで、この辺りの生き字引といわれたおばあさんです」 「お会いになったのですか」 「ええ、なかなか興味深いお話が聞けた記憶があります。話の中身はよく覚えていませんが、なんなら家に帰って調査ノートを調べてみましょうか」 「ぜひお願いします。できれば私たちもおばあさんからお話が聞けたらと思うんですが」 抄子は力を込めて言った。 「それはいいですね。ただ私が訪れたのは十年以上も前ですから、お元気でいらっしゃればいいのですが」 宇治先生は親類が来ているとのことで長居はできず、ここで辞した。こうなれば4人の関心は同じである。 「次の日曜日には、三木の大奥さんを訪ねてみようよ」 「よし、俺が住所を調べて電話してみよう」 翌日、照男から三人へ連絡があった。残念ながら三木の大奥さんは数年前に亡くなっていたのだ。 抄子は何となくおばあさんの死を予感していた。もし生きていたとしても何を聞くべきなのか、どんな手掛かりが得られるのか…。掴みどころのない疑問が雲のように広がっていく。 こうなれば宇治先生のノートが頼りである。ところが職員室を訪ねた菜摘に先生はこう言った。 「あれからノートを探してみたんだけど見つからなくてね。何年か前に古い取材ノートを整理して重要なものはパソコンに取り込んだんだけど、そのときに処分してしまったのかもしれない」 「話の中身は覚えていませんか?」 多忙な教師稼業の合間を縫って地道に郷土史の調査をしていた宇治先生であった。古い情報を格納しておく記憶容量は限界に達していたのだろう。 甘いもの 抄子は自分と同じ雅号というのに大いに興味をそそられた。冒険はこれだけで終わりそうにない。でもその続きはどこに手掛かりを求めたらよいのだろう。 抄子はふと菜摘に会ってみようと思った。菜摘は思いつきでどんどんしゃべる。まるで尽きることのない泉のような感性を持っている。 ある水曜日、甘いものを食べる口実に菜摘を誘った。髪をたばねた菜摘は涼しげで、山中を彷徨った少女だとは想像もできない。 「元気?」 「うん、元気!」 「足痛くない?」 「全然。抄子さんは?」 「私もよ、と言いたいけど、次の日は階段がきつかったわ」 「抄子さん、年齢(とし)聞いていい?」 「いいけど、どうして?」 「あと何年したら私も抄子さんみたいになれるのかな、って思ったから」 まるで友人同志のような会話である。抄子は菜摘の耳元でささやいた。 「うん、だいたい思ってたとおり。最初はもっと年上かなって思ってた。抄子さんはマイペースで生きてるから」 やがて、クッキージェラート、すいかサンド、カシュー&ココナッツミルク、絞りたてやまももクラッシュが運ばれてきた。 「うわあ、おいしそう!」 「いくらでも食べていいよ」 「いただきまーす」 食べはじめれば、おすましの化けの皮がはがれて小学生に戻る。 「みまさって雅号、どうして付けたの?」 「だから言ったでしょう」 「ううん、私が言ってるのは、どこでその名前を見つけたかってこと」 「思い出せないな」 「どうしてきびたき山の沢登りをしてみようと思ったの?」 「絵を描いてるとね、夕方にきびたき山へ帰っていく風を感じるの」 「風が帰っていく?」 そのとき菜摘の心のなかに物語が次々と浮かんできた。物語の次の場面はわからない。でも、角を曲がるとまた別のまちが見えてくるように、菜摘は自らの空想に身を預けてみる。 山から吹き下ろす風があれば、山へと舞い戻る風があって、その風には妖精が乗っている。妖精の乗物は紙ヒコーキ。紙ヒコーキの材料は落ち葉。でも、まちに近くなると、落ち葉がなかなか見つけられない。だから、白き国でつくられた懸想文と引き換えに落ち葉を手に入れた妖精が山へ帰っていく。 妖精は決して懸想文売りの姿にはなれない。でも私たちには懸想文売りに見える。おじさんは人ではないし妖精でもない。私たちが社会の秩序を無意識のうちに求めていて、それが懸想文売りのおじさんになる。だからおじさんは私たちの心に住んでいると思うよ。 でも、おじさんはもう見られなくなる。だって妖精は河畔林のあるところでないと帰りの切符が手に入らないから。 河畔林がなくなれば妖精は山に帰れなくなる。山に帰れない妖精は空へ帰って水のいのちになって山へ戻るしかない。 こうして妖精が次々と水に変わっていく。水になってしまえばヒトが支配しやすい。水は酸素2個と水素1個の組み合わせだとしか人間は考えない。それが落ち葉を失った妖精の脱け殻だと気づかないから---。 沈黙の時が流れた。 「菜摘ちゃんはどうしてそんなに想像力が豊かなの。言葉が出ないわ」 「ほんと?」 「心の奥からストレートに上がってきてるわ」 「憧れの抄子さんにそう言ってもらえてうれしい。でも、わたる君と話をしてたら時々変な気持ちになるの」 「どうして?」 「だって…わたる君、抄子さんのこと、気にしてるみたいだから…」 抄子は菜摘の心配の種が自分だということに思わず笑いだしてしまった。 「それはね、憧れのお姉さんって思ってくれてるんじゃない。はしかみたいなものよ」 「はしか、なの?」 「そうよ」 「わたる君たら、抄子さんが前にかがむたびに、胸の谷間に目が行くのよ」 「男の子だったら気になっても不思議はないわね」 「ふうん…」 「はいはい、なっちゃんの嫉妬を買おうとは思わないから、なるべく目立たない服を着るわ。でもなっちゃんだって、そろそろブラしなきゃ、照男さんが目のやり場に困ってるみたいよ」 「もう、これだから男はイヤ!」 デザートばかり食べたので、お腹が少し冷えてきた。仕上げに熱い湯気に包まれた遠赤焙煎の自家製珈琲を注文した。珈琲にはクッキーが添えられていた。 「ここのはね、豆を直接南米の契約農家から買い入れているの」 「その方が安いから?」 「いや、量が少ないからかえって割高になるみたいよ。コーヒーは少々悪い豆でも焙煎でごまかせるのよ。ここのマスターは無農薬栽培の豆をわざわざ外国の農家から買い付けてるのよ」 「このクッキー、おいしい」 「これはね、蕎麦でつくられたクッキーよ。香ばしいでしょう」 こんがりと焼けた蕎麦のほのかな香り、甘みを抑えた風味、さくさくした歯ごたえ。一枚のクッキーがこれほど楽しませてくれるなんて。 「湯気があったかい」 菜摘は目を閉じてほほを近づけた。 抄子も目を閉じる。心にしみるコーヒーをしみじみと味わう。誰かとこんな時間を共有できたら…。奔放なタッチで描かれた抄子の絵に寂しさを感じることができる人は自分の感性を信じてよい。 (これからどうなるんだろ…) 抄子は、湯気の向こうで夢想の風船を膨らませていた。何かにとらわれないで自由に空を飛んでいる心地良さ。一杯の珈琲が運んできた小さな幸せ。 「抄子さん」 菜摘の声で我に帰った。そして思いついた。 「そうだ、夕涼みがてら温泉行かない。湯につかって血のめぐりをよくしたら、何かいい考えが浮かぶかもしれないでしょ」 「いい、いい、大賛成!」 抄子の次の行動を待っていた菜摘は喜んだ。こうして二人はせみなし川を十キロほど上ったところにある温泉にバスでやって来た。 「平日というのに、結構人が来てる」 「観光バスから団体さんが降りてくるわね。あの人たちが出ていくまで待とうか」 人込みのロビーで待つのは嫌なので、二人はせみなし川沿いを散策してみることにした。 次へ |
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