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涼谷のおばあさん

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  涼谷のおばあさん

 山から土砂を運んできたせみなし川が扇状地を形成し、その扇状地の縁に湧きだしているのが、涼谷(すずみだに)温泉である。山地を出たばかりのせみなし川は、生まれたての水を河床に滑らせている。その景色に涼む湯ということで付いた名である。
吊り橋をわたると、静かな散策路が川に寄り添い、ところどころに道標のような石仏が転がっている。その石仏の向こうで畑をつくっている老婆がいた。視線が合って抄子は会釈をした。
「いい湯だったかの」
「まだこれからなんです。おばあさんも精が出ますね」
「そうよ。ここの温泉の湯は細胞を若返らせるって評判よ」
「そんなにいい湯なんですか」
「ここの湯はラドンが含まれとる。何とも体の芯からあったまるて。湯に入りゃつやつやよ」
 マグマからしみだす処女水にこの辺りの花崗岩の成分が混ざった湯という能書きを抄子は思い出した。
「抄子さん、早くお風呂行こう」
「そうね、そろそろ団体さんがお帰りかもね」
「昔はあんたみたいな若い娘があちこちから大勢集まったもんよ」
「そうなんですか。それはいつ頃ですか」
「わしが生まれるずっとずっと前じゃて。三木の婆さんからよく聞かされたものよ」
「三木のおばあさんて、もしかして、あの古いお家の亡くなった大奥さんのことですか」
「そうよ。わしのいい話し相手じゃった」
「どんなお話か、聞かせていただけませんか」
「なんなら、ちょっと待ってくれ。畑しまいつけるから。うちで茶でもあがっていくか」

 案内されたのは、川沿いの高台にある古い民家だった。ところどころクモの巣が張り、何年も人が住んだことがないような外観をしていたが、中へ入るとそうでもなかった。調度品はきちんと揃えられ、土間は掃き清められていた。おばあさんはここで一人暮らしをしているらしい。
久しぶりに話し相手が現れたおばあさんは、夫が招集礼状で戦地に赴き、戦後無事に内地に帰ってきたが、南方で患った熱帯病が元でまもなく死んでしまったことなど、とりとめもない身の上話をいつ果てるともなく続けた。抄子は相槌を打って聞いていた。年寄りの話にせっかちを起こしてはいけないと思いつつも、いらいらを感じていた。
「さてと、どこまで話したかの」
「三木のおばあさんの昔話を聞かせていただければ…」
「おう、そうじゃった。茶がないの」
「あっ、私が入れてきます」
「お客さんに入れてもろてすまないの。あっちにかまどがある」
菜摘が立ち上がって、土間へと降りていった。かまどに火の気はなかった。その辺りにガスコンロでもないかと探してみたが見当たらなかった。
「あら、こんなところに石がある。何かしら」
 石は円形をしており、磨きぬかれた表面は鏡のようであった。結局お茶を入れられずに菜摘は戻ってきた。火の起こし方をおばあさんに尋ねようとしたが、抄子が一生懸命にメモを取っているので、ついに菜摘は言いそびれてしまった。
「風の祭りですか。その祭りは今も行われていますか?」
「人間がやらなくなった今もやってるんじゃなかろか」
「誰がですか?」
「山の神様よ」
「山の神様って?」
 菜摘が口をはさんだ。
「白き神よ。この辺りはの、伊勢の氏神さんの代わりにこの地に鎮まる白き神をお祀りするんじゃ」
「台所に置いてある石がそうですか」
「そうよ。あの鏡は花崗岩を磨いてつくったもんよ。夏至の前になって南風(まぜ)の吹くころ、夜中に鏡の表面がぼおっと光る。白き神様がお越しになられた証じゃ。だが、決してその鏡を覗いてはいかん、触れてもいかん」
「祟りがあるんですか」
「そんなもんはない。ただ、神様が遊んでいらっしゃるときに、その姿を見てはならぬ。神様も不注意で人間にその姿を見せられることもある。だが、決して見ないことじゃ。見て見ぬ振りをすることじゃ」
「夏至の前というと…」
「旧暦の六月二五日頃かの」
「えっ」
 抄子と菜摘は顔を見合わせた。
「六月二五日に行われる風の祭りとは、白き神が遊ぶ祭りなんですか?」
「違う。風の祭りは神を悦ばせるために行う人間の祭りじゃ。けど、もう半世紀もやっとらん。どんな祭りをすりゃええのか誰もわからん。三木の婆なら知っとったかもしれん…」
「なぜ、行われなくなったのですか?」
「季節がなくなったからじゃなかろの」
「季節がなくなった?」
抄子はおばあさんの顔に疲労の色を見て取った。これ以上長居をしてはいけないと思った。
「おばあさん、ほんとうにいいお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」
 抄子がいとまを告げようとすると、
「神様が興に乗られることを祭りといい、人間がその姿に触れて魂が高揚し、共に喜ぶことを祀りというんじゃ」
お婆さんは、畳に二つの漢字を指で書いた。
「帰りに三木のばあんくに寄ってみりゃ、書き置きしたものが残っとるかもしれぬ」
 丁寧に礼を言って抄子は辞した。帰りがけに、無表情だったおばあさんがにっこり微笑んだように見えた。
それにしても、思いがけないところから六月二五日橋の由来が判明した。それというのも何の気まぐれか温泉に来たからであり、たまたま団体客でいっぱいだったので時間つぶしに川沿いを散策したところ、夕方近くに畑で水遣りしていたお婆さんに出会ったからである。偶然の産物ともいえるが、二人は弾む心で涼谷温泉へ向かった。

 涼谷温泉は最近になって増築された。新しい建物には、クアリゾート風の施設やミストサウナ、気泡風呂、ハーブ湯などが新設されている。それに比べて以前からの湯船は川に近いところにあって、外湯からの眺めはむしろこちらがいい。
 一方内湯は、ヒノキの浴槽の隙間からこんこんと湯が湧きだしている。溢れだした湯はヒノキ板をすべっていく。寝っ転がると、背中をひたひたとお湯が撫でていく。
「ああ、気持ちいい」
「ヒノキの香りがするね」
 太陽の光が回り込んで水面をくゆらせる。その湯に半身になって抄子は横たわる。
「抄子さん、きれい。女の私でも見とれちゃう。わたる君には絶対教えない」
 菜摘は駄々をこねて水面を手のひらで叩いた。
「心いきいき、からだぴかぴか」
抄子は無心で湯心地を楽しんでいた。
 水音がヒノキ材に当たる。その瞬間、「ポツン」という打音に、「ツゥン」という糸のような短い残響を引く。ほの暗いヒノキの洞窟のなかで思考が停止し、木と水が共鳴しているように感じられる。無意識界への入口がぽっかりと口を開けている。
「熱いね、ここのお湯」
菜摘はのぼせたので上がろうとした。洗い場の鏡に自分の姿が湯気のもやを通して写っており、鏡の自分もこちらを向いていた。
(鏡はいったい何を映しているの?)
菜摘の胸にそんな問い掛けが聞こえた。菜摘はその問いに答えようとしたが、めまいがして湯船の縁にくずれるように座り込んだ。菜摘に駆け寄る抄子の姿が鏡に映し出されたのを菜摘はぼおっと見た。
「なっちゃん、どうしたの!」
 抄子は慌てて冷水を菜摘の頭にかけた。

 それから数分後。せみなし川を見下ろす休憩室で暑気をさましていた。
「びっくりしたわ。突然倒れるんだから」
「温泉があんなに気持ちいいとは思わなかったもん」
「湯に当たったけど、肌がつるつるじゃない」
「ほんとだ。また連れてきてね、抄子さん」
「とにかく今日は収穫があった。これからすることが増えたけど」
「私、風の祭りが見たい。どんな祭りなのかなって…」
 抄子は菜摘の興味がどこにあるかわかった。
「三木のおばあさんとこ、これから行くってわけ?」

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