風の回廊
懸想文売り

六月二十五日橋

日曜日

白き国

わからないこと

涼谷のおばあさん

三木家の伝承

プレゼンテーション

電子の妖精と風の妖精

風の回廊
   白き国

「なっちゃん、さっきから同じ木ばっかり見えてるような気がしない?」
「そういえば、少しも進んでいないような…」
「迷っちゃったのかな」
「ちょっと休もうよ」
「そうだね、のども渇いたし」
「どっかに湧き水ないかな」
「水筒も空っぽだし…あれ、水音がする!」
 菜摘も耳を澄ました。
「…風のようにも聴こえるけど」
「あの音の方へ行ってみない?」
「ちょっと待って、それなら何か印を付けておこうよ」
「そうだ」
 わたるは抄子の助言を思い出し、紙をちぎっては枝に刺していった。わたるの作業を見ていた菜摘は、倒れた木から別の木が空に向かって伸びているのに気づいた。
「この木、見て」
それは、古い木の上に落ちた種子が発芽し、親木から養分をもらいながらすくすくと育ち、やがて根が地面に達して親木をとりこんだ倒木更新の姿だった。
 代々受け継がれてきた森に生きる権利をまっとうして倒れた木もあれば、志なかばで枯れていく木もある。けれど自らの権利を使い果たすと、次のいのちに託して世代交代が繰り返される。森は木々の墓場、森は木々のゆりかご。人の営みも森の営みも何ら変わらない。ただ森の時間が長いだけである。
「あっ!」
 それは突然のことだった。風が森を吹き抜けると、辺りの景色がさっと代わり、二人はまぶしい光に包まれた。


 白き国のみまさ

光のなかから、白い衣装に包まれた女性の姿がすうっと現れた。
菜摘とわたるは夢を見ているような気がした。二人の戸惑いを見透かすように女性は言った。
「白き国へようこそ。私はみまさ、白き国の鏡師です」
 その女性は、樹木を背景に浮き立つような輪郭とやわらかい存在感があった。その姿を見ていると、これは幻なんだと思う気持ちがなんだか抜けてしまった。
「夢だと思いますか?」
「思いません」
わたるは答えた。
「夢ならいいけど…」
 菜摘も返答した。
「それでよいのです。夢と現実の区別がつかなくなると危険ですから。でも楽しんでいますか」
「はい。もう少し、この夢の実態を教えてください」
「ここはどこでしょう?」
「それはぼくたちが聞きたいことだけど、ここは白き国ですね」
「白き国とは何をするところでしょう?」
「それは私たちが聞きたいことだけど、白い生き物が住んでいる国ですか?」
みまさが質問して、わたるたちが答えていた。これでは逆である。
そのとき、二人の後ろから白ヤギが現れた。口には紙きれをもぐもぐさせている。
「あ、目印を食べられた!」
「あなたが妖精のお金を持参し、そのうえ神の使いの白ヤギを通じて森の神に紙を奉納したので案内してくれたのです」
 わたるは紙ヒコーキを見たことを思い出した。
「それは妖精の乗り物です」
 みまさには、わたるの心の動きが読めるようだった。
「妖精の乗物?」
「妖精は沢沿いに吹く風に乗って谷を駆け降り、河畔林をわたる風の回廊に沿って里に舞い降ります。その風がもっとも強くなる季節に風の祭りを行います」
「それはいつですか」
「青葉の薫陶を吹きおくる南風(まぜ)の季節です」
「神の使いの白ヤギは?」
「白ヤギは誰にでもお供をしますが、姿は見えません」
「でもぼくたちには見えた…」
「見えたと思っているだけで、実際は見えていません。もし見えるのなら、それは白ヤギを見ようとする心が見せているのです」
「みまさ、あなたは誰ですか?」
「私は白き国の鏡師です」
「違います。あなたは抄子さんです」
 わたるの大胆な言葉に、菜摘はびっくりして顔を覗き込んだ。
「魑魅魍魎のささやきにたぶらかされたのかもしれません」
 わたるは納得がいかなかった。
「魑魅魍魎ってどういうことですか」
「耳元でささやいて元来た道を引き返したり、山中深く迷わせる精霊です。時には妖怪変化を会得したキツネが暗躍していることもあります。それらを何とかやり過ごさなければ、白き国の扉は開かれません」
「白き国の扉を開けるにはどうすればいいのですか」
「白き国の扉は、真っ白な森の智恵と、時を経た樹々の沈黙と、苦難を乗り越えて歓喜を感じた心に開かれます。しかしそれらは、妖怪変化の扉にも接しています。決して白き国へ深入りしてはいけません。これは夢だと思う気持ちで、この国に接してください」
「精霊のささやきに負けないためには?」
「勝とうと思わないことが負けないことです。それができたからここにいるのではありませんか」
そのとき、雨がぱらついてきた。


(雨だわ…)
 抄子は足取りを急いだ。ところどころに菜摘の足跡を発見し、予想以上に彼女のペースが早いことに驚いていた。急斜面に腹筋と大腿筋が適応して息が楽になってきた頃、突然周囲が開けた。
 それは、わたるたちが落ち葉銀行と名付けたあの平坦地であった。傾斜地に突如として出現した凹地は、硬直した身体の疲労を癒してくれるオアシスだった。
 抄子は喉が渇いた。辺りの地形から水が得られそうにないと判断すると、抄子は何を思ったか斜面に近い凹地の地面を掘り出した。幾重にも重なった落ち葉をかきわけていると腐葉土に変わり、さらに掘り進むと水がしみだしてきた。おそらく雑菌の多い水だろう。抄子はあきらめた。
 考えてみれば、沢の遡行をしているときに水を飲めたはずであったが、抄子はそんなことさえ忘れて行動していた。水を一滴も飲まずに行動したことから脱水症状に陥り、それが思考を鈍らせていた。。
 抄子は水筒がもうひとつあることをようやく思い出した。菜摘の荷物を軽くするために水筒を預かったのだが、自分の持ちものではないという先入観が持っていることを忘れさせてしまったのだ。抄子は躊躇せずに飲み干した。もちろん湧き水を見つけたら菜摘のために補充しておくつもりである。
 水が細胞に取り込まれると、細胞にしなやかさが戻った。一息ついた抄子は、地面をじっくり観察した。菜摘の足跡はここで乱れていた。菜摘も休憩していったのだろう。
 よく見ると、靴底の異なるもうひとつの足跡が見つかった。これは何を意味するのか。二つとも登山靴のソールのパターンではなく運動靴のようである。とすれば、下から登っていった菜摘と、上から降りてきたわたるがこの付近で出会った可能性が高い。
抄子は平坦地を歩いてみた。地図には載っていない地形であったが、意外に広いその場所は落ち葉の吹き溜まりとなり、ふかふかした絨毯は、足跡をクッションで隠すようにわかりにくくしていた。
 子ども二人が跡を残さずに歩くことなど不可能に近い。抄子はどんな地面の変化も見逃すまいと探してみた。足跡は凹地からは出ていないように思えた。抄子なりに判断して、二人はどちらかの道を戻ったに違いないと判断した。とすれば、斜面を登る途中で誰にも遇わなかったし、連れ戻しに来たのはわたるであるから、イバラの斜面を登って七合目の登山道に戻ったに違いないと結論した。二人が斜面をトラバースしながら沢沿いに出てそこから頂上をめざしたとは、夢にも思わなかった。


 白酒殿

「ようこそ、あなたたちは久しぶりに白き国を訪れたお客人です」
 みまさの案内で白き国の御殿へと案内された。
「ここは白酒をつくる御殿で白酒殿(しろきでん)というところです。まずは一杯召し上がれ」
 二人は顔を見合わせた。
「小学生なんですが…」
「白き国では、振る舞われたお客人はこれを戴くことになっています。さあ遠慮なく」
わたるは小学生ながら、ビールも酒もほんの少しは飲んだことがある。上機嫌になった父親が時々すすめるから口を湿らす程度であるが。わたるを見ていた菜摘も意を決しておそるおそる口を近づけた。白酒殿で口に含んだその酒は、芳醇な甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、花弁の芳香に彩られた風味絶佳の酒であった。一呼吸置いて菜摘が声を上げた。
「おいしい!」
 最初の一口は水でできた綿菓子のようにのどに吸い込まれ、次の一口ではほんのりと米の甘みが感じられ、さらにもう一口運ぶと口の中でとろけてしまいそう。実りの秋を凝縮したような飲めば飲むほど濃厚な酒であった。
「お酒がこんなにおいしいんだったら、早く大人になりたいな」
「森の養分と天の水でつくられたもので、弱った体に活力を与え、精神を豊かにさせてくれる滋味あふれる水の小宇宙です」

二人が白酒の賞味を終えると、みまさの合図で白いウサギと白狐が姿を現した。
「顔におしろいを塗ってから白き国の神様にお目通りします。そのものたちがお手伝いします」
 御殿はヒノキづくりで、奥には白桜(深山桜)が飾られた祭壇があり、白鏡が置かれていた。みまさがつくったらしい。
 その鏡の奥にはあかり障子とふすまで区切られた空間がある。目を凝らすと、障子の和紙がすずろに明るい。紙一枚で隔てた「向こう」と「こちら」はことさらに区切られてはいない。けれども、幾重にも空気を閉じ込めた和紙のとばりは光をはんなりと宿し、そのときの風に移ろい、水気を調えながら、そこはかとなく気配を映し出している。
 ウサギと狐は、シロツメグサの花びらを白南天の汁で煮た液体を二人の顔に塗りはじめた。続いて泥だらけの靴を脱がせ、水で足を清めたあと、白靴をはかせた。こうして準備が整うと、小雨模様の空が白映えになり、突然の風が起こり松の木が揺れた。
「白き神様、お出でになりました」
 そういってみまさは、深々と頭を垂れた。
 清々しい空気が上から降りてきたような気配と、額の辺りが持ち上げられる感覚があり、ふすまの向こうにかすかなご神霊の存在が感じられた。二人とも無意識に頭を下げた。しばらくして顔を上げたとき、白酒殿もみまさの姿もなく、斜面に広がる照葉樹の森にたたずんでいた。


 頂上

服のあちこちをひっかきながら七合目の休憩所にようやくたどり着いた抄子は、足取りも軽く頂上をめざした。
 紆余曲折を経てたどり着いた頂上では照男がしゃがんでいた。声をかけたが返事はない。照男はうたた寝をしていた。抄子は照男の体をゆすった。
「二人は?」
「まだ頂上には来てないよ」
「ほんと?」
いつもの抄子の冴えが戻っていた。二人は沢を遡行したに違いない。
(だとすれば…)
 抄子は、頂上直下を俯瞰した。時間にして10分ほど下ったところに開けた源頭部がある。もし幸運にもふたりが沢登りを続けられたらあの辺りに出てくるはず、と目を凝らした。
(おや!)
「何かが動いてるわ。ちょっと双眼鏡貸して」
照男から倍率1〇倍のフィールドスコープを受け取って焦点を合わせてみた。やはり菜摘とわたるだ。疲れ切っているのではと思いきや、ふたりで楽しそうにおしゃべりをしながら登ってくる様子がそれとなく伝わってきた。抄子は胸をなで下ろした。
「おお、元気そうじゃないか!」
 双眼鏡を手渡された照男は、そう言うと、もう駆けだしていた。
「おおい」
 照男は斜面を転がるように駆け下りていく。抄子もそうしたかったが、あえて頂上で二人を迎えようと思った。三人が現れるまでの5分が長かったこと。

 真っ先に菜摘が抄子の胸に抱きついた。
「抄子さん、やったよ」
「やったね!」 
「楽しかった。ね、わたる君」
「あんな冒険だったら毎日やってみたいな、いや、月に二〜三回ぐらいかな」
 慌ててわたるは訂正した。つとめて明るく振る舞う二人の子どもたちに、抄子と照男は目頭が熱くなった。
「ごめんね、菜摘ちゃん、わたる君」
 抄子の目からとめどもなくあふれる。照男は鼻をすすりながらわざと大きな声で言った。
「おーい、みんなで写真撮るぞ」
「うん!」
菜摘とわたるは満足感でいっぱいだった。白貴殿で美酒をふるまわれ、今ここでまた別の美酒を味わっていた。一度は崩れかかった天気であったが、雲間から太陽が忽然と顔を出し、二人の冒険を祝福しているようだった。

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