風の回廊
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六月二十五日橋

日曜日

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電子の妖精と風の妖精

風の回廊
  日曜日

 空には雲が低く垂れ込めていた。けれど、灰色の空は不思議に明るく、太陽の光の重みで今にも突き破られそうだった。
 天気予報では雨は降らないということだったが、登山経験のある抄子はみんなに雨具の用意をさせておいた。
 樹間をすり抜けた日差しが、麦わら帽子と白いポロシャツの抄子を神妙に浮かび上がらせていることにわたるは気づいた。その姿は、初詣のときに出会うあでやかな白い衣装と赤い袴に身を包んだ巫女──あどけなさと神秘を白い無表情に閉じこめて紅を差した少女たち──を思い出させた。わたるは抄子に唐突に話しかけた。
「なぜ、きびたき山へ登るんですか」
「山登り嫌い?」
「ううん、そうじゃないけど、理由が知りたいんです」
 わたるとて抄子の考えに異論はない。ただ、抄子に見とれてそれ以上間がもたないと感じて、とっさに出た言葉だった。
「わたる君、そんなことどうでもいいじゃない。私、山でお弁当を食べるのが楽しみ!」
 菜摘が口をはさんだ。
「山登りって、ひとりで行きにくいからいいんじゃないか?」
 投げやりな照男までもがウキウキしているようである。照男はなんだかわからないうちに引き込まれていくような気がしていた。


登山口の崖下に泉が湧いていた。昔はもっと大きな池だったらしいが、宅地開発などで周辺の雑木が切り払われた今では小さな泉となっていた。それでも、この泉を飲料水として持ち帰る人は少なくない。崖は花崗岩質のもろい岩であったが、泉水に適当なミネラルと硬度を与えていた。この水を水筒に詰めて持っていくことにした。
泉からこぼれた水は、二〇メートルほど流れてせみなし川に合流する。地図を見ながら抄子は提案した。
「泉に流れ込む沢を遡ってみたらおもしろいかも。普通の登山道と二手に分かれて頂上まで行ってみるってのはどう?」
「沢登りをするってことか?」
 照男が地図を覗き込んだ。
「この沢、名前が付いてないな」
 わたるはこのとき合点がいった。
「抄子さん、山登りの目的ってそれだったんですか」
「いま思いついたの。沢の名前はわたる君に付けさせてあげるわ」
 わたるはうれしくなったが、とっさに名前が出てこなかった。しばらく考えているうちに、会話はどんどん進んでいく。
「勾配はそれほどきつくないけど、滝がいくつかあるようね。滝の落差は5メートルぐらいかな。左に巻くと両側が切り立った地形がしばらく続くけど、ここを何とか切り抜けられたら…」
抄子はもう行くつもりになっている。菜摘が手を上げた。
「私も沢登りしまーす」
 抄子は菜摘に細々と注意を与えているように見えて、その実、沢登りの魅力をけしかけているようにも見えた。
 そうすると、登山道組は男二人となる。照男はそれが不満なのか、
「女同士でだいじょうぶか?」
 すると菜摘が、
「あら、女同士だから安心なんじゃない」
 確かに大人同士、子ども同士で行くわけにはいかないから、大人と子どもの組み合わせなら、同性同士が気安いこともある。
 菜摘に一本取られた照男は、装備の中から何かを取り出した。
「これ使えよ」
 会社の備品のトランシーバーである。
「その大きな荷物に何が入ってるの?」
「これか?」
 およそハイキングには似合わないフレーム式のザックに積まれているのは、例の追跡調査の機材一式であった。
「まだおじさんにこだわってるの?」
「会社に帰って考えたけど、発信源が消えるはずがないんだ」
「えっと、名前はおしろい沢にしたいんですが」
 わたるが唐突に割り込んだ。
「あら、名前を考えてくれてたの?」
「どこからそんな名前が出てきたの、わたる君」
「それは…」
抄子と菜摘に問い詰められたわたるは、抄子がおしろいを塗った巫女に似ているから付けました、とは言えなかった。
「おしろい沢か。なかなかいい名前ね。さてと、そろそろ行こうか、菜摘ちゃん。男組も自分たちのコースをどうぞ」
「気を付けてな」
 男二人に見送られて、ふたりは沢沿いの森を歩きはじめた。


 おしろい沢をのぼる

川はだんだん小さくなってきた。深みには落ち葉がたまり、浅瀬には灰色っぽい小さなカニがいる。
「サワガニよ」
「白いのもいる」
「大きな岩が増えてきたね」
おしろい沢は、出発地点の渓流から沢へと様相を変えてきた。大きな岩を越えると淵があり、浅瀬にいたアマゴらしい魚影がすうっと岩陰に走った。沢は藪が薄く、とっかかりから想像するより簡単そうな遡行だった。ところどころに赤テープの目印があるのは、すでに誰かが登っている印である。この国で人跡未踏の地などほとんどない。
二人はおしろい沢をどんどん詰めていった。半時間ばかり歩くと谷が開け、きびたき山の頂上が望める場所に出た。右手から大きなごろた石の涸沢が合流している。涸沢とは、普段は水の流れない谷のことである。
どんどん遡行するうちに、おしろい沢が小さくなり、ひとまたぎできるほどになってきた。水はときどき伏流して葉っぱの積もった土の下をくぐりぬけていた。ヤブはいよいよ深い。やがて、岩肌から水のしずくが落ちている地点にたどり着いた。もう水音は聴こえない。
(ここかもしれない)
 川の最初のひとしずく、源流点。降りしきる雨は森の樹木を伝って地面へ軟着陸する。しばらく森の表土にとどまった水は少しずつ土にしみこんで地下を流れる水脈となる。広葉樹の森の秘密は、分厚い落ち葉の絨毯にある。地下水は時間を置いてどこかで地面にしみだす。ときにはこんこんと湧きだすこともある。そんな水が集まって沢となり、さらに仲間と合流しながら少しずつ川へと成長していく。だから川を遡ると、どんどん枝分かれしていく。
 源流の同定は容易ではない。地図を眺め、谷の地形から等高線を辿り、地図上で沢の長さを測る。もちろん実地に足を運んでみなければ沢の相がわからない。水量はどれぐらいか、渇水期でも枯れないか、どんな植生が谷を覆っているか、日の光は射し込むか、どんな生き物が棲んでいるか、さらに水を育んだ森と里の暮らしとはどのようにつながっているか。
(生まれたての水を見たい──。)
 川の遡行ほど楽しいものはない。
 抄子は感慨にふけっていた。ふと後方の菜摘を思い出し、確認しようと立ち止まった。耳を澄ましてみたが、樹間を抜ける風のざわめきと沢音が遠く聴こえるだけである。
(どうしたのかしら)
落葉低木林の床は歩きやすい反面、木々の枝が顔を直撃するため、ふたりは間隔を開けて歩いていた。踏み跡を見つけるために抄子が先頭に立ち、菜摘はその足跡を忠実にたどる。抄子がルートを探す間、菜摘は立ち止まって辺りを見回した。
 すると、彼女を追いかけていた木々の重なりも静止した。再び歩きはじめると森も動きだす。まるで追いかけられているよう。樹木の重なりを見つめていると、一点に向かって凝縮されていくような感じがした。
 そのとき、森の地面を這うひんやりとした風がほほを撫でた。菜摘は耳元で高笑いを聞いたような気がしてぞっと立ち止まった。大人の女の高笑いのようでもあった。菜摘の足が動かなくなった。声を上げようとしたが出ない。抄子を視線で追うと、抄子の姿も見えなくなっていた。菜摘は意識が朦朧とするのを感じた。


 菜摘がいない

「七合目休憩所か。この辺りでいっちょやってみるか」
「何をですか」
「おっさん探しよ」
 照男はわたるにアンテナを組ませ、その間にパソコンとGPSを接続して微調整をした。アンテナの指向性は鋭く分解能も高い。
「ようし、アンテナをゆっくりまわしてくれ」
「これぐらいですか」
「もっとゆっくり」
 画面には何も現れない。あれから五日も経っているし、照男自身も何らかの反応を期待していたわけではなかった。
 それでも山にわざわざこの重い機材を運んできたのは、電波が消えるはずがないという信念と、高い標高での電波の到達性の良さであった。照男のため息から何も変わったことがなかったことを悟ったわたるは、アンテナを適当に回してみようと思った。
(そうだ、空に向けてみれば!)
 わたるの思いつきは思いがけず結果を出した。ディスプレイに点滅信号が検知されたのだ。正確にいえば真上ではなく、ここから東の方向、沢を登る二人がいる辺りの上空である。
「トランシーバーだ!」
 急いで抄子を呼び出した。
「受信機が何かを捕らえたんだけど、その辺りの上空で何か変わったものは見えない?」
「あの葉っぱをまだ追いかけてるの?」
「そう」
「ちょっと待って、今はそれどころじゃないの。菜摘ちゃんの姿が見えないのよ。ヤブ漕ぎをしていて遅れたのかもしれないの。私もルートを開くのに必死だったからいつの間にか見失ってしまって…」
 抄子の報告はわたるの耳にも届いた。
「ちょっと代わってください」
 照男からトランシーバーを受け取ったわたるは言った。
「今からそちらへ行きます。七合目の休憩所からの行き方を教えてください」
「わたる君? 山を甘く見ないほうがいいわよ。ルートファインディングできるの?」
「地図は読めませんが地形はわかります。地形をわかりやすく説明してください」
「そこから頂上が見える?」
「見えます」
「頂上から右へ30度ぐらい振った方向に尾根が張り出しているでしょう」
「尾根?」
「山の背骨のことよ」
「あ、はい」
「その尾根に取り付けそうかしら?」
「取りつくって?」
「とっかかることができるかって聞いてるわけ」
「えーと、何とか…」
「尾根に取りついたら右へトラバースして1キロぐらいで谷筋にぶつかる。そこから谷底へは降りられないから少し上流に平行移動したら、谷が開けて勾配がゆるくなる。そこをいったん降りて谷に沿って上ってね。もし間違っていなければ、ところどころ足跡が見つかるはずだから見失わないで。タラの木が生えていて岩盤が緑がかっている高さ5メートルの滝は、いったん左へ90度迂回してから右上へ抜けると滝の上に出られる。多分斜面に足跡は残っていると思うけど…」
 わたるは混乱しそうな頭で、抄子の言葉を確認しながらメモをとった。
「タラの木って…」
「刺がある木よ。日当たりのいい斜面に生えてるからわかるわ」
 抄子は狭い谷底から上空を見上げて汗を拭いていた。そのとき、頭の上を紙ヒコーキが飛んでいった。
(紙ヒコーキ? いったい誰が…)
メモが終わったわたるが呼びかけてきた。
「もしもし、抄子さん」
抄子は一瞬反応が遅れた。
「聞こえてるわ。ところでわたる君、指笛吹ける?」
「吹けます」
「何か目印になるようなもの、持ってる?」
「目印というと…」
「自分が通った後に目印にできるようなもの」
 わたるは一瞬考えた。
「ティッシュペーパーだったら…」
「うーん、やむをえないわね。ティッシュを少しずつちぎって木の枝にさしていくといいわ」
 山であちこちに人間の営みの跡を残すのはよくない。特に目印は必要最小限にしなければならない。しかし子ども一人の安全がかかっている。
 抄子は冷静なつもりだった。しかし、人手が多い方が菜摘が見つかるかもしれないと思った自分の考えが誤っていることにすぐに気づいた。わたるは山の初心者であり、二重遭難の危険性がある。
「もしもし、わたる君。聞こえる?」
「はい、聞こえます」
「さっき言ったこと取りやめね。菜摘ちゃんは私が見つけるから来なくていいわ。わたる君は照男さんと待機してて。わかった?」
「はい、わかりました」
会話の始終を見守っていた照男にわたるは、
「今すぐ来てほしいそうです。ちょっと行ってきます」
「そうか、気をつけて行けよ。で、俺はどうすればいい」
機材を抱えた照男の役目は他にある。
「連絡係で待機していてください。何かあったときはトランシーバーで連絡しますから、下山して通報してください」
 わたるは探検隊のリーダーの気分であった。
「よし、これを持っていけ」
 照男は発振器をわたるのポケットに突っ込んだ。


 尾根にとりつく

道端から尾根に取りつくために、ヤブの少ない場所を探し、雑木につかまりながら、急な斜面を少しずつ這うように登っていった。
「チチチチ…」
 鳥の声が遠く近く聴こえる。ガサッと音がする方向に耳をそばだてる。わずかな音にも敏感になっている。湿気たところを踏みしめたとき、甘酸っぱい腐葉土の匂いがした。向こう側に下る斜面が見えたことから、わたるは尾根になんとかたどり着いたことがわかった。
(菜摘ちゃん、心細いだろな)
ゆるやかな勾配の尾根は迷いやすい。抄子もその点を心配して引き止めたのである。
 山を歩くとき、人は無意識のうちに微妙な判断を下しながら行動している。ところが、迷ったり遭難した人たちの多くは、あせりや恐怖感で独特の心理に陥る。右と左、高いと低い、尾根と谷を見誤る、そんな信じられない判断ミスを重ねて遭難に至る。おかしいと思ったらすぐに引き返す──それが鉄則である。
 しかし、山の経験のないわたるには後戻りなど考えられない。ただ本能のままに突き進んでいくだけである。
 雑木の小枝が行く手をさえぎり、枝にはクモの巣。糸を払いのける前に小枝をじっくり眺める。複雑に分岐しながらも全体として調和を保っている。
(これと同じものは二つとないんだ)
わたるは枝を折らずに体を縮めてその場所を通過した。しばらく歩くうちに地形が違ってきたことに気づいた。今までは斜面が片側だけだったが、背骨のような筋の向こう側にも斜面が見えてきた。
(この細い線が尾根なんだ…)
 目の前で急に落ち込んだ崖から下を覗くと吸い込まれそうだった。ここから滑り落ちても誰にもその姿を見られることはない。広い森にぽつんと置かれたちっぽけな自分が懸命に息をしている。わたるは孤独感と闘っていた。でも菜摘もひとり。
(負けるもんか!)


 抄子はときどき立ち止まって菜摘を待った。菜摘は付いていくのがやっとであったが、抄子がどこかで待ってくれていると思っていた。
 ところが、いつのまにか菜摘の視界から抄子の姿は消えていた。山では一〇メートル先のことさえわからないことがある。抄子が立ち止まって思案していても、菜摘にはその気配は伝わらない。
かなり遅れていると思った菜摘はさらに息を切らせ、斜面の木々につかまりながら上をめざした。菜摘はハッとした。水の音が聞こえない。沢登りは沢を詰めていくということぐらいは菜摘も知っていた。
(はぐれたんだ…)
 引き返そうと思って後ろを振り返ったとき、木につかまってよじ登ってきた斜面が、ほとんど垂直に落ちているように見えた。下りるのはとても無理と判断した。山に迷ったら登れ──。そんな格言をどこかで聞いた記憶があった。
(頂上はひとつ。とにかく登るしかない。きっとみんなと会える…)
 けれどそれがどれだけの時間と距離なのか、菜摘には知るよしもなかった。


 抄子の集中

抄子は引き返していた。ところどころに見られる足跡は自分のもので菜摘のものではない。沢沿いを登っているとき、菜摘の姿は確かに見えていた。抄子の背中に触れるぐらいを歩いていたのである。
 しかし枝のはねかえりを避けるため、そしてがれ場で浮き石を踏んだ場合の落石に備えるために、菜摘に少し間隔を取るよう指示した。その間合いがしだいに広がりつつあることが気掛かりではあったが、抄子もルートを探しながらであり、菜摘に100%の注意を払っていたわけではなかった。
 抄子は喉が乾いていたが、水を飲む余裕さえなくなっていた。そうしているうちに木の枝を踏み損ねて足を滑らせ、尻餅をついた。頭のすぐ横には尖った石があった。抄子はしばらく立てなかった。
(絶対探しだしてみせる!)
抄子は意識を集中させようとした。しかし、ヴァイオリンの高弦のうなりに似た気配に悩まされた。その気配の主は、耳元へ飛んでくるヤブ蚊だった。いくら追い払ってもヤブ蚊は次々とやってきた。蚊柱に遭遇したのではないかと思った。抄子は虫除けスプレーを肌に噴射した。効果はなかった。服の上からでも刺してくる。
 辺りを見回した抄子は、何を思ったか登山用ガスコンロを取り出し、足元に生えていたよもぎを燻した。すると蚊はクモの子を散らすようにいなくなった。抄子はやっと集中できるようになった。
沢沿いならある程度の見通しはある。姿が見えないのなら沢へ転落した可能性も考えられる。しかし、危険なポイントは必ず指示をして見守った。
(まさか……)
 もしものことが頭をよぎった。
(落ちつくんだ…)
抄子は大きな石の前でひざまずいた。なんとしても菜摘を探し出したかった。
(山の神様、私に力をお与えください)
 抄子を悩ませていたのは昆虫の羽音だけではなかった。風のうなりが木々の葉を揺らし、抄子をあざ笑うかのような森木立を駆け抜ける高笑いが聞こえてきた。
もはや抄子は雑念を払おうとしなかった。ことさらに心に波風を立てて対峙することなく、ただ寄せては返す波の音だけを思い浮かべた。

(〜 〜〜〜 〜〜 〜〜 〜〜〜 〜 〜 〜〜)

波は心に響いていた。邪魔されることなく、邪魔することもなく、雑念が波の音に転化していく。ひたすら漂う…。


 抄子の耳元から魑魅魍魎のささやきは雲散霧消し、さっと霧が晴れていった。
 菜摘になったつもりで心のなかでルートに向かい合う。菜摘の姿が見えていた頃からの記憶を呼び戻しながら。

 滝の上に出るために大岩を左に巻いた後、右へ急角度に曲がって滝壺の上に出るところがあった。滝の上に出るためにいったん滝から離れた斜面を高巻きしたのだが、ここはそれほど難しい場所ではなく、また通過コースも抄子にとっては明瞭な踏み跡だった。まさか菜摘が迷うはずがないと思い、注意を払わなかった。
(そうだ!)
 山の常識ほど、経験者と未経験者でちがうものはない。大岩を右へまわりこまずにそのまま直登するには斜面があまりにも急で、山に慣れた者なら本能的に避ける──そんな思い込みが抄子にはあった。菜摘があの急斜面に入り込んだのなら、一刻も早く追いかけて見つけ出す必要がある。
 トランシーバーで照男を呼び出した。
「もしもし、今どこ?」
「頂上に着いたところ。わたるや菜摘と合流できた?」
「まだよ。わたる君はそこにいないの?」
「あれ、抄子さんの指示で菜摘ちゃんを探しにそっちへ向かったんじゃなかったっけ?」
「ほんとう?」
 抄子には、わたるが照男に嘘を言って菜摘を追いかけた光景が想像できた。わたるの取るべきルートは、地形を読みながら急峻な斜面を避け、少し上流の比較的ゆるやかな斜面まで斜めに進む必要があった。しかし地図を持たず、地形も読めないわたるにそんなことができるはずがない。
「来ないでって言ったのに…」
「あいつ、俺に嘘ついたな」
「どれぐらい前?」
「一時間ぐらいかな。でも今どこにいるのかだいたいわかるよ」
「どうやって」
「発振器をわたるのポケットに突っ込んどいた。アンテナ回してみるからちょっと待って……」
 システムの起動に時間がかかる。
「まだわからない?」
 抄子はいらいらした。
「えーとね、谷に降りる斜面の中間ぐらいかな。谷が少し右に屈曲している辺りのちょっと上ぐらいのところ」
「谷が右へ屈曲している? あの急な斜面を降りていったのかしら。とにかく現場へ直行する」


 広葉樹の積もった腐葉土は足を置くだけで滑る。そんなとき何かを掴もうとしてとっさに手が出る。
「痛っ!」
 イバラを掴んだ。刺があるのはわかっているが、そうしなければ谷底に落ちてしまいそうだ。
 わたるはこんなところへ来たことを後悔はしなかった。ただ菜摘が心配だった。この山中のどこかに抄子がいる、菜摘がいるんだと思って心を奮い立たせた。そうして引きずられるような重力を二本の足で踏みしめながら、斜面を少しずつ少しずつ下っていった。
 時間が経つにつれ、足の運び方がなんとなくわかってきた。自分をいかに安定させるか、いかに体を支持するかを体が覚えはじめたのだ。しかも、わたるの足は植物を踏まないように運ばれていた。これも最初は意識的に植物を避けていたが、そのうち、無意識に足を置くようになった。むしろ、地面が誘導しているかのように思えた。
こうして一時間、要領を掴んだわたるは口笛を吹く余裕が出てきた。一息着こうと斜面に腰を降ろしたわたるの頭上を紙ヒコーキが飛んでいった。
(誰なんだろう、紙ヒコーキを飛ばしてるのは?)
 わたるは、紙ヒコーキの持ち主に呼びかけるため、指笛を鳴らしてみた。
(───)
 返事は返ってこない。


(もうどのぐらい歩いたんだろ)
 菜摘はくるぶしまでの腐葉土に埋まりながらも、ゆっくりゆっくりと手足を前に進めていた。不安な気持ちはあったが、生まれて初めての経験を胸に刻みつけてやろうと開き直った。幸いだったのは登りだったこと。下りで足を滑らせばしりもちをつくし、谷底を見ながら下る高度感が怖い。登りだと頭は上を見ているし、足を滑らせても手をつくだけ。
(きっと、誰かが迎えにきてくれる!)
 そう考えると、少し力が湧いてきた。
(負けない!)
気持ちが落ちつくと、さっきまで気づかなかった足元の植物たちがしだいに目に留まるようになってきた。不思議なことに、ふだん見たことのない植物たちが彼らの領域に入ってきた菜摘をあたたかく迎えているように思えた。
 存在感のある紫の花弁(トリカブト)には特に引かれた。風に揺れる一群のなかからひときわ大きな花がこっちへ来い、こっちへ来い、と菜摘に呼びかけているような気がした。足元に積もった葉っぱを踏みしめるたびに足の裏がやわらかく包まれ、まるで自分の足が根を張りたがっているかのように感じた。
さらに菜摘は進んだ。やがて斜面がゆるやかになり、平らになっている凹地に出た。急な登りが終わったのかと辺りを見回したが、平坦なのはこの一角だけのようだった。
(まだまだ登りは続くんだ)
 そう思ったとき、上の斜面からぱらぱらっと土砂が崩れ落ち、茂みの間から生き物が姿を現した。菜摘にとって一瞬のできごとで声も上げられなかった。それは、イバラの林を転がり落ちてきた傷だらけのわたるだった。


 再開

菜摘がいる!
 わたるは疲労のあまり感情を失っているように見えた。
「わたる君!」
菜摘が飛び込んできた。
「うっ!」
 わたるは、あざと傷にまみれた体の痛みを知った。
(………)
 たった数時間見なかっただけなのに、菜摘の温もりが胸にじーんとしみた。わたるは、体の中心にわきあがる雲が大空にまでふくらんでいくような余韻に浸っていた。
「菜摘ちゃん…」
 そのとき日の光が雲を突き破って空からこぼれた。
「あっ」
 森の切れ目から、いく筋にも光線が差し込み、倒木に巻きついた蔓と湿潤な蘚苔(せんたい)の森を照らしていた。
(こんなことって…)
 張り詰めた感情の糸が切れた。わたるは菜摘を抱きしめた。不思議に涙はなかった。
二人の膝元に小さな白い花があった。あじさいのような葉っぱの付け根から、白いかれんな花穂が二本寄り添っている。それは、フタリシズカ(二人静か)のひっそりとした姿だった。


 抄子は滝の上まで戻っていた。注意深く地面を観察したが、ここを自分以外の人間が通った形跡はなかった。岩を巻いて沢へ下りるルートを目で追ったとき、急斜面のとっかかりに地面が崩れてすべった跡を見つけた。
(やっぱり…)
 斜面を見上げた抄子は思った。ほんとうにこんなところを菜摘が登っていったのだろうか。木がなければ到底登りえないような急斜面を登山が初めてという女の子が。
ところが菜摘は、一時間程前に確かにここを登って行ったのである。それも軽やかな足取りで。体重の軽い菜摘は地球の重力を苦にせずに足を運べるし、荷物を持たない小柄な体はヤブのなかを何とかすり抜けられる。
 そのうえ菜摘は足が早く、普通の山道なら平地と同じ速度で駆け上がっていくような少女であった。こうした理由で、ベテランの登山経験者よりも早く登れたのである。もっとも、重い荷物を背負い、登山に関する多面的な判断が要求される長時間の縦走なら話は別であっただろうが。


森の賢者

「これからどうする?」
「とにかく頂上へ行こう」
わたるはこれまで自分が下ってきたイバラの道のりを説明し、菜摘には経験させたくないと話した。菜摘はきつい登りで降りるなんてとても考えられないと言った。
 どちらも後戻りしたくはなかった。二人を隔てていたのはたかだか数時間であったが、その時間が二人を成長させた。時間という木に水をやるのは冒険である。森のエアポケットで偶然落ち合えた二人は、今では勇気を三倍にして新たな冒険がしたいと思った。
 そこで、斜面を横滑りしながら沢を少しずつ登っていこうと決めた。このルートは上流で沢にぶつかる。その源流を詰めていけばいつかは頂上に至る。足元は斜めに傾いてはいるが、高低差がないため楽だろうとの考えもあった(これは間違いだったが…)。
 出発直前にわたるはこの凹地でたくさんの落ち葉をリュックに詰め込んだ。
「こんなにたくさんお金があるよ」
「ここを落ち葉銀行と名付けようか」
「うん、これだと十年分ぐらいの懸想文が買えるかもしれないね」
 二人は森の奥へと歩みを進めた。二人で歩くと、一人ひとりの足取りが軽く、そのため歩くことに集中できることに気づいた。二歩かけて一歩を歩く──いまや森の賢者となった二人である。

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