風の回廊
懸想文売り

六月二十五日橋

日曜日

白き国

わからないこと

涼谷のおばあさん

三木家の伝承

プレゼンテーション

電子の妖精と風の妖精

風の回廊
  風の回廊

 月はいよいよ青くその光芒を降り注ぐ。照葉樹の葉は気持ち良さそうに月光浴をし、酸素が胞子となって飛び交っている。川は水音高く響かせ、月の分身が水面に揺らぐ。昼間の世界と対になった月の時間が支配している。ふたりは六月二五日橋にいる。


 チョッピーチュピー 

ルピパヌチチュルピパヌチュチー

 ユールナヒンユンピィ

「ほら、夜の小鳥たちがあいさつしているよ」
 花は鏡に映された花のようにしっとりとたたずんでいる。
「風が見える」
「浮かんでいるみたいな…」
 二人は目を閉じた。風にそよぐ無数の鈴の音がやわらかく幾重にも重なって水音に溶け込んだ。
体が宙に舞うと河畔林に沿ってどんどん遡っていった。やがて月の光がいっそう白く差し込めるあのなつかしい場所へと降りていった。

 よこそ…
 よこそ…
 よこそ…
 よこそ…

 川は川として何も遮られることなく、何ら疎んじられることなく森や平原を潤して流れる。山が川の行く手に立ちはだかれば、川は潔く山裾を回り込み、その一方で少しずつ山裾を削りながら氾濫原を拡大していく。川に刻まれ、川に削られることで山は深くまた平らかになっていく。
「なっちゃん、ここはいったいどこなんだろう?」
「わたるくん、どこからこの風景を見ているの?」
「あれは?」
 一つの生き物が森を歩いていく。その歩みは徐々に姿勢を上げ、その行動は思考と一体となり、少しずつ他の生物と違った道に分け入る。
「わたるくん、わかった?」
「なっちゃん、見えるよ!」
 その生き物はヒトである。ヒトは少しずつ集まってくる。狩りをするものもいれば、収穫に携わるものもいる。人々は山の幸を根絶やしにしないように作物の栽培を始めた。栗をはじめ、雑穀を栽培しながら大地の恵みをその努力に応じて分配した。ヒラメや貝などの海の幸もふんだんにあり、良質の黒曜石を求めて海を越えていく。なかには太平洋を渡る人々もいた。人と自然の営みが一つの頂点を迎えた縄文の森である。
 

「白き国へようこそ!」
 みまさだ。いや、みまさではない。
「抄子さん!」
「菜摘ちゃん、この人は抄子さんではないよ」
「だって…!」
「抄子さんの目とは違うよ」
みまさは相変わらず微笑みを浮かべていた。
「月夜に吟詠される川の和歌を聞いてやってきたのですね」
「かわのわか?」
「夜うぐいすが吟じていたうたです」
 それでは原始時代みたいな風景は何?
「あなたたちは、森とともに暮らしてきた人たちの遙かな記憶のなかを逍遥していたのです」
 みまさには二人の思うことがわかるみたいだった。二人が見ていたのは、「はるかな記憶」が連れてきた万古の森の姿だったのかもしれない。
 
 みまさは、懸想文に書かれた文を菜摘に手渡した。
「これを渡してください」
 そういってみまさは姿を消した。

「菜っちゃん、どうする?」
「渡すって誰にかしら。まず私たちで読んでみない?」
「それはまずいよ。封印がしてあるもん」
「そうじゃなくて、心で読むのよ」
「心で?」
「胸にこの手紙を押し当ててみて」
 菜摘は手紙を胸に押し当てた。わたるもその手紙を胸に抱いた。ふたりは手紙を胸にはさみあった。
「風の妖精よ!」
「ほんとだ、落ち葉の匂いがする」
「どこにいるのかな」
「手紙がここから発信されたとすると…」
「どこへ持って行ったらいいの?」
 菜摘は月を仰ぎ見た。
(教えてお月さん…お願い)
 月は樹間をすり抜けて森の地面に青白い光を投げかける。その一筋が菜摘の額に届いた。
「あっ、山が光ってる!」
 月光に照らされて、きびたき山一帯の照葉樹がざわめきながら鈍い光を明滅させる。
「山が知っているんだわ…」
「山に聞く…。そうだ、山に聞けばいいんだ! 紙ヒコーキにして飛ばすんだよ。ここから」
「でも、風が足りない」
 菜摘とわたるにはわかった。心を澄ませるだけで答えが見つかることを。
 今度は菜摘がひらめいた。
「風が足りないのなら、風に吹いてもらえばいいじゃない」
「風に聴こう。風に聴けばいい」
 わたるは天を見つめて言った。
「風に聴くって?」
「風鈴を吊すんだ。この山いっぱいに風鈴を吊すんだ」
「そうか、そうすれば風の声が聴こえるね」
 まちへ引き換えそうとした二人であったが、風鈴を準備する必要はなかった。あちらこちらで風鈴が鳴っていたからである。
(虫の声、水のせせらぎ、風にそよぐ羽音…)
 菜摘とわたるには、風の通り道が見えた。そうして風に乗って運ばれていく。 


 抄子と照男は電子の妖精との会話を続けていたが、そのうち電子の妖精は抄子たちの問いに反応しなくなった。こちらの問いに答えようと検索しているのだろう。
「ね、菜ちゃんたちどこ行ったのかしら?」 
 照男は画面から目を離して言った。
「月を見に行くって言ってたんじゃないか」
「ちょっと探してくるわ」
「俺も行こう。電子の妖精がメッセージを送ってこなくなったから、ここにいても仕方ないし」
「だったら、車出して。行きたいところがあるの」
 抄子と照男が部屋を出て行ってから数分後画面に文字が出てきた。

 風の祭りに人間が参加していた頃がありました
 一人の乙女が山に籠もって斎祀っていました
 乙女に神憑り、
 その託宣は川沿いに風づたいに伝えられていきました
 そして子孫に受け継がれたのです。


「菜摘とわたるは?」
「あの二人ならほっといても心配ないわ」
「そうだな」
 抄子も照男も、菜摘たちがまた冒険を始めたと思った。
「ところで行き先は?」
「涼谷のおばあさんのうち」
「何しに行くんだ?」
「行けばわかるから」


 照男の車で涼谷温泉に着いた。駐車場に車を停めて、川沿いの散策路へと踏み込んだ。懐中電灯を付けようとする照男を抄子は制止した。照男はその意図を図りかねて抄子の顔を覗き込んだ。抄子は唇に手を当てて照男を振り返った。以前に聞いた涼谷のおばあさんの話を抄子は思い出しながら、月明かりに照らされた小径を静かに歩いていく。
「あれが涼谷のおばあさんの家か」
 照男は川の畔に建つ茅葺きを認めた。月を背に影絵となって、せみなし川に影を落としている。
抄子は戸を開けようとしたが、輝男が遮った。
「待って。誰かいる」
 輝男はドアに忍び寄った。が、人のいる気配はしない。
「気のせいかな。この家には人が住んでいないんだから」
 目配せして引き戸を空けようとしたら、鍵はかかっていなかった。

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 木の葉が擦れるような音が聴こえる。ときに強く、ときに弱く。

 木の葉が舞う。地面に降りるのを逡巡するように見えた木の葉が次の瞬間高く舞い上がった。地面にだだをこねるように低く短くせわしげに。

 かと思えば、どこまでも高く飛び跳ねる動き。そして重力に逆らうことを止めてほっとしたような落下。

 葉っぱが生きている。風か生きている。誘いかけるようなリズミックな動き、謡うような鷹揚とした流れ、微笑むような水平運動の繰り返し、情熱をぶつける垂直の動き。

 葉っぱは人に見られていることを知っている。それでいい、それでいいのよといいたげに。

 葉っぱは知っている。すべてを知ったうえで受け入れようとしている。人が生きていくうえで呑み込まなければならないすべてのけがれを静かな微笑みで包んでしまう。

 人を楽しませるためではなく、自らが楽しむためでもなく、ただ空間に舞っている。無目的に。しかしなぜ葉っぱの動きが手に取るようにわかるんだろう。もっといえば、なぜ葉っぱは自分の意志に従おうとするのか。


 片隅で放心状態で固まっているふたりの子どもがいた。菜摘とわたるだった。抄子は二人に話しかける。
「見たのね」
「うん、風の祭りだったね」と菜摘。
「みまさから預かった文を涼谷のおばあさんに見せたんだ」とわたる。
「涼谷のおばあさん、いたの?」
「さっきまで、鏡の前に座ってうれしそうに見ていたよ」
 わたるは抄子を見つめた。
「みまさ…」
 その言葉に抄子は驚かなかった。
「私はみまさなのね」
「照男さん、あなたは…」
「懸想文売りのおじさん…」
 菜摘が言葉を継いだ。
「私は、風の妖精、あなたも、風の妖精」
「なんということだ、みんなそうだったのか?」
「なぜ自分のことに自分が気付かなかったのだろう」

 風の祭りが蘇らせてくれた遠い記憶。
 風の回廊、六月二十五日橋にて。

(完)
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