風の回廊
懸想文売り

六月二十五日橋

日曜日

白き国

わからないこと

涼谷のおばあさん

三木家の伝承

プレゼンテーション

電子の妖精と風の妖精

風の回廊
 六月二五日橋

 放課後の早い時間に「六月二五日橋」で待ち合わせをした。不思議な名前の橋であるが、その名前の由来は誰も知らない。授業が早く終わった菜摘は先に来て、橋のらんかんにもたれて水面を眺めていた。すると、河原の草むらに漢字の「田」のような格子を置いてしゃがんでいる若い男に気づいた。
(何してんのかな?)
 わたるはまだ来ない。
(ちょっと見にいってみよう)
 菜摘は堤防づたいに橋の下流へと向かった。川沿いの林はこの辺りではなぜか一本もなく、切り開かれた河川敷には草地が広がっていた。ここから下流はコンクリートで固められ、ところどころ階段状に整備された護岸があった。
 男は草地にしゃがんで、井桁の枠組の範囲内を丹念に観察していた。作業服からTシャツがのぞいていた。菜摘は男のそばまで近寄ったものの、声をかけそびれていた。
「あっ、いたいた」
 男がプラスチック製のかごを持ち上げると、なかにはねずみが入っていた。思わず、菜摘は近寄っていった。
「何がいたんですか?」
 男は菜摘をじろりと見た。菜摘は思わず一歩引いた。
「アカネズミ!」
 そういって男は険しそうな形相を崩して、菜摘にかごを手渡した。くりくり目のネズミが、くんくんと菜摘の手の匂いを嗅いだ。
「ネズミを捕まえてどうするんですか」
「調べて写真を撮ってるだけだよ。欲しいか、このネズミ」
 菜摘は首を振った。
「ううん、逃がしてあげて」
「こっちへ来てごらん」
 菜摘は、男の手招きに用心しながら、距離を置いてついていく。
「ほら、イタチの足跡がある」
 水際に長さ一センチ弱の爪跡が何本か扇形に並んで残されていた。
「どうしてイタチってわかるんですか」
「これがオレの仕事だから。どんな生き物がいるか調べてるんだ。さっきの枠は、植物の種類を調べるコドラート調査といって、枠の中の植物の種類や様子を観察するんだ」
「それでお金がもらえるんですか」
「そう、オレは建設コンサルタントの会社で働いている。今度ここから上流の林を伐採してコンクリートで固めるんだけど、その前に、どんな生き物がいるのか、どんな植物があるのか、調査して報告するんだ」
「虫や植物やネズミを探す調査と、川の工事とどんな関係があるんですか」


 わたるは、約束の時間に一〇分遅れて六月二五日橋に着いた。
(菜摘ちゃん、まだ来てないんだろうか)
 らんかんにもたれて上流を眺めていると、川沿いの土手で女性がイスに座っているのに気づいた。わたるに背を向けてきびたき山を眺めている。後ろ姿からは絵を描いているように見える。菜摘はまだ来ない。
(邪魔しないよう絵を見せてもらおう)
 そっと足を運んでいたわたるであったが、木の枝を踏みしめてガサッと音を立ててしまった。
(しまった)
 わたるは反射的に動きを止めたが、その音にも女性は振り向くことなく、一心不乱にキャンバスに向かっていた。絵ができあがっていく過程は魔法のようで、大胆な原色が粗いタッチがキャンバスの上で重ねられると、画面から飛び出しそうな躍動感で現れた。
(不思議だな)
 わたるは見とれていた。キャンバスに刻一刻と変化していく絵筆の軌跡と、それを描く美しい女性の仕種――短い髪にベレー帽を斜めにかぶり、耳にはピアス。ときどき首をかしげると、木製の折り畳みイスに腰掛けたお尻が移動しながら微妙に形を変えた。それは同級生の女の子にはないあでやかな雰囲気だった。わたるは、彼女の醸しだすしっとりしたふくよかさに、ぽーっとなった。
 振り返れば、六月二五日橋。菜摘の姿は依然として見えない。絵を描いていた女性が振り返った。


 大人の仕事って何?

「工事をする前にどんな生き物がいるかを調べてるんだ。もっとも、こんな調査をしたって何の意味もないんだけどね」
 男は半ば自分に言い聞かせるように言った。菜摘は納得がいかなった。
「意味のないことなんですか」
「そうだよ。どうせ、発注者が適当に書き換えるだろ。こんな生き物がいましたが、工事をしても生息に影響はありません、みたいにね。もっとも工事したらほとんど生き物はいなくなるけどな」
「嘘をついて工事をするんですか」
 菜摘は少々憤慨していた。
「木の葉のお金を渡したぐらいで私たち小学生は警察官に質問されるのに、知ってて悪いことをする人たちがどうして罪にならないの?」
 男は決まり悪そうに、
「世の中ってそんなもんよ。悪いことでもみんなやってるから止められない。もし工事が中止になれば、政治家に怒られるわ、仕事は減るわでオレは首だよ」
 菜摘の頭は混乱していた。はじめて垣間見た、大人の世界のわけのわからない理屈だった。
「ひとりか?」
「ううん、待ち合わせしてるんだけど…」
「今オレが言ったことは内緒だぞ」
 菜摘はどう反応していいかわからなかった。
「最近この辺りに変なおっさんが出るって噂だから気をつけろよ。何かあったら大声出せ。オレが飛んでって助けてやるからな」
 菜摘は六月二五日橋を振り返った。わたるは、まだ見えなかった。それでも橋へ行ってみようと思った。土手を上がろうとしたとき、誰かが落としていったソフトクリームがあった。白いクリームの上にゴマ粒のように群がるたくさんの蟻がいた。


絵を描く女性

 突然ふりかえったとき、短い髪の先端がうなじをかすめた。
「ずっと見てくれてたの?」
「はい…えと、あんまりきれいだったので…」
 ばつの悪い間合いに不意打ちされてわたるは顔を真っ赤にした。その理由は本人にしかわからない、子どもから大人への変化の真っ只中にいた。
「若葉が萌えるっていうでしょ、あの山。そこから流れだしている川、鳥や生き物を育みながら川を包み込む河畔林のひっそりしたたたずまい、風の回廊って呼んでるの…」
彼女の口から淡々とつむがれる詩のような抑揚にわたるはうっとりした。
「わたるくん?」
 背後からふいに名前を呼ばれた。
「あっ、菜摘ちゃん来てたの?」
「何してたの? こんなところで」
「絵を見てたんだ」
 わたるは絵を振り返った。菜摘は即座に反応した。
「わあ、すてきな絵ですね。山がみどりに萌えてる!」
「わかる?」
 抄子が菜摘の言葉に応えた。わたるは、同じ感性を持つ菜摘と女性との距離が一瞬のうちになくなったように感じた。
「うん、実際の山の色はもっと淡い色だけど、この絵に描かれている赤や黄色の混じったきびたき山は、春と夏の間の季節って感じ」
「菜摘ちゃんはどうしてそう思ったの?」
 わたるは思わず問い詰めた。
「わかんない。わかんないけど、いろんな木がいっせいに背伸びして動き出した山の祭りって感じ]。
「その感性すてきよ」
 抄子は笑顔で返し、菜摘はさらに付け加えた。
「絵の具にしずくが付いているみたい。それから…」
 菜摘は想いを表現する言葉を探しているみたいだった。
「いつもここで絵を描いているんですか?」
「そうよ」
「名前聞いてもいいですか?」
「私は抄子。あなたは?」
「菜摘です。それから…」
「えっと、わたるといいます」
「菜摘ちゃんにわたるくんか。今日は二人でデート?」
「違います! 今日はここへ来たのは、落ち葉を拾って懸想文売りのおじさんに渡してみようと思ったからです。それで、六月二五日橋で菜摘ちゃんと待ち合わせをしてました」
 しゃちほこばったわたるの返答に、抄子はくすくす笑った。
 この会話をきっかけに二人の小学生は、抄子が身近に感じられるようになった。
「実はわたる君のお父さんは市長をしてるのよ」
「すごいじゃない。ところで菜摘ちゃんは何してたの?」
「わたる君がなかなか来なかったから、川の生き物を調べている男の人を見てた」
 菜摘はさっきの工事の話を伝えた。
「何のためにこの河畔林を伐採するのかしら? ありふれてるように見えるけど、さりげなくて素敵なんだよね」
菜摘は、大人でも自分と同じ考えの人がいると知って少し安心した。
「菜摘ちゃん、その人まだいる? 話を聞いてみようよ」
「多分いると思うけど…」


 男は仕事の合間におにぎりをつまんでいた。抄子は近づいて挨拶した。
「いい天気ですね。ここの工事について知りたいんですけど、ちょっと聞いてもいいですか」
 突然、若い女性(年上だか年下だかわからないけど…)に声を掛けられて男は少し構えた。
「いいですよ」
 わたると菜摘は抄子の後に付いてきたが、何も言わずに黙っていた。
「この河畔林を伐ってコンクリートで固める工事をするって聞いたけどほんとうですか」
「そうだけど」
 男はぶっきらぼうに返答した。ヘルメットに大橋照男と書かれていた。
「どうしてですか」
「そりゃ、決まってるだろ。予算を使わなきゃ」
 わたるが口を挟んだ。
「市長が工事を命令したんですか」
「さあ、それは知らん。でも、何でそんなこと聞くんだ?」
 わたるは一瞬たじろいだが、
「この川沿いの木を伐るのはやめてほしいなと思ったんです。市長に言えばやめてくれますか」
「無理だろうな」
「計画はもう決まってるんですか」
「たぶん」
 抄子が口を開いた。
「こんな川沿いの森がまちの周辺にあるってすばらしいと思うんですが」
「あんたの意見もわかるけど、これでオレの会社飯食ってるからな。オレは上から言われたとおりにやってるだけだからさ」
 そのとき川面がさざめき立ち、河畔林が風に揺れた。あの懸想文売りのおじさんが上流からやって来ることに、わたるは気づいた。
「菜摘ちゃん!」
 菜摘は抄子の背中をつつきながら言った。
「見て、木の葉がお金だって教えてくれたおじさん」
その声は照男にも聞こえた。
「木の葉のお金事件と関係あるかもしれないぞ」
菜摘はためらった。
「そんな気もするけど、悪いおじさんではないと思うわ」
「木の葉を渡しておじさんの反応を見てみたらと思うんだけど」
わたるはおそるおそる提案しなから木の葉を差し出した。
「ちょっと貸してくれ」
 照男がわたるの手から葉っぱを取ってしばらく眺めていたが、わたるに返した。
「いいか、この葉っぱを渡すんだぞ」
「わかりました。でもどうしてですか?」
「いいから早く渡しに行け」
 菜摘とわたるは木の葉を持って駆けていった。

 菜摘はおじさんに近づいた。
「おじさん、懸想文ください」
「はいよ」
わたるは木の葉を差し出した。
「まいど!」
おじさんは葉っぱを受け取ると、下流へ歩きはじめた。抄子と照男が合流しておじさんを見送った。


発振器装着

「実はさっきの葉っぱには小型の発振器が取り付けてある」
 照男が小声でささやいた。
「発振器?」
「小動物の足に取り付けて位置を知るための発振器よ」
「それで…」
「あのおっさんの行方を追うんだ。機材は車のなかにある」
 たくさんの機材が積んだバンが照男の会社の車だった。そこから、小型のパラボラアンテナを取り出して、ノートパソコンに接続した。パソコンの位置をGPSで割り出し、そこを基準点として発振器の位置を特定する装置である。
セットが完了し、照男は追跡を始めた。菜摘はなんだかおじさんに悪いような気がした。
「あのおっさん、そのまま川を下ってるみたいだな」
 ところが数分後、くるりと上流に向きを変え、かなりの速さで動きだした。そしてまもなく信号がディスプレイ上から消えた。それからはアンテナをいくら振っても反応はなかった。
「おかしいな、相当遠くまで電波は届くはずなんだけどな」
照男が首をしきりにかしげていた。


 だんだん夕暮れが近づいてきた。小学生の二人は家へ帰る時間である。
 抄子はこの事件をそのままにしておけないと思った。菜摘の言う通り、あやしい人には思えなかったが、それはそうとしても、上流をめざして消えた発振器の主はいったいどこへ行ったのか。めざす上流には、きびたき山がある。そうだ!


「この次の日曜日はきびたき山へ行かない? そこで何らかの手掛かりが得られるような気がするの。もちろん照男さんも行くでしょう?」
 照男は大いに好奇心をそそられた。抄子は四人で「きびたき山探偵団」を結成しようと提案した。わたるはワクワクしていた。菜摘も日曜日が待ち遠しかった。

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