長良川から明日香への道中記(1998年9月)
  深夜の名阪国道は無法地帯

 和歌山港(二〇時四〇分発)
 橋本  (二二時一五分通過,四五キロ)
 大和高田(二二時五〇分通過,七六キロ)
 天理  (二三時一五分通過、九〇キロ)
 上野IC(〇時一二分通過、一三四キロ)
 亀山IC(〇時四〇分通過、一六九キロ)
 長良川河口堰(一時二五分着,二一〇キロ)

 天理から亀山までは名阪国道二五号線。制限時速六〇キロの一般国道なのに、走行車線の流れは九〇キロを越え、追い越し車線の速度は見当もつかない。リッターカーのマーチ(4速A/T)ではエンジンのトルクが足りず、時速八〇〜九〇キロで巡行しても上り坂にさしかかると減速してギアが三速、場合によっては二速まで落ちる。その横を百キロを優に越えた速度で次々と抜いていく。ここは交通法規のない無法地帯。自分の生命は自分で守らなければならない。

 深夜会場着、誰も起きていない

 長良川では河口堰ができたあとも、毎年9月には大規模な集会が行われている。盛時には1万人が参加したとか。全国にちらばっている顔なじみの仲間に事前に一時か二時に着くと連絡してあったが、会場へは二時過ぎに着いた。地図の掲載されたチラシを持っていないので、いかに地理勘のよい人間でも会場がわからず、ようやく見つけ出したときには、知っている人たちは寝てしまっていた。翌朝聞くと2時までは待っていてくれたそうだ。長良川へ着いてから一時間ほど探したのだけれど。

 初めて見た長良川河口堰

 長良川河口堰は、休日ということもあって家族連れも訪れ、にぎわいを見せていた。河口堰の展示資料館「アクアプラザながら」で涼みながらハイテクの絵巻に見とれ、野外へ出ると晴天を背に堂々と浮かび上がる河口堰の上を歩く。このオブジェは景観と調和しているように見えるし、その実態を知らない人が不快感を持つこともない。潜在意識に働きかける建設省の巧みなデザインと広報のためかもしれない。

 それに対して、「建設省にレッドカード」と銘打ったイベントはしらけていた(前夜は盛り上がったと参加した人たちは言っていたが?)。が、いよいよシュプレヒコールを上げる段になって熱がこもってきた。しかしもうすでに河口ダムはある。運用を開始した年は多くの人を集めたらしいが、河口堰が建設された今では年に一度、情報交換と自らの動機づけのために集まるマンネリ化したお祭りと化している。平和な日本では、自然保護運動は行政にとって人畜無害なのだ。

 水が溜められたダム湖は茶色によどんでおり、そこで水上スキー、水上バイクに興じる若者がいる。カヌーの横を猛スピードで嫌がらせのように水しぶきをあげるバイクは、河口堰と同じぐらい「ディスプレイ」をしていた。水に対する感覚が麻痺しているのだろう。ぼくはこの水に触れたいとは思わないし、飲もうとは思わない。これを当然のように受け容れる人たちのほうかこれを異常だと思う人たちより多いかもしれない。

 河川敷の一角で大音量のPAを鳴らして拳を振り上げるイベントは、水面を疾走するバイクと同じ「ディスプレイ」であり、いくら国会議員を集めて話をしようと、著名人が観客動員に貢献しようと、地元の生活者や一般の人たちを置き去りにして盛り上がったマスタベーションの世界であった。おそらくは大多数の自然保護運動が、こうした自己満足で終わっているのだろう。吉野川では、地域の人たち、一般の人たちとともに地域をつくっていきたい…。長良川のイベントは反面教師として勉強になった。

 伊賀上野へ

 桑名東から亀山まで高速道路に乗る。合法的に百キロ出せる区間である。亀山からは天理までは、悪名高き名阪国道。昼間でもその無法ぶりは変わることはなかった。
 どこかで心の洗濯がしたいと思ったので、伊賀上野で降りた。ここは上野城を擁する人口六万人の城下町。伊賀忍者の縁の地であり、芭蕉生誕の地である。現在では四本の国道が集まる交通の要所である。

 街の南にある田楽の店「花ざと」(上野市上之庄、電〇五九五・二三・二四七六)で、炭焼きの田楽定食千五百円也を食べた。ガイドブックをまったく持たずに地元の名物にめぐりあえるのは偶然なのか、まちを見る直観力なのかわからない。

 味噌田楽に舌鼓を打ったあとで、上野公園へ行った。芭蕉翁記念館(入場料三百円)へ入ると、受付で女性が笑顔で迎えてくれた。色白でぽっちゃりしているが、節度と品のある女性である。ここには芭蕉直筆の書の写しや、原本が展示されている。流麗というよりも飄々と流した筆致である。その書体から人間芭蕉の苦難をさらりと流そうとする意思の力と、あるがままにさすらう流木のような人生が感じられる。
 一冊の書籍が目に止まり、拾い上げてみた。それは「奥の細道」に切り絵で挿絵を提示し、英訳を試みたドナルド・キーンの著作であった。キーンは、徳島県宍喰町在住の陶芸家梅田純一の友人でもある。彼が梅田さん宅を訪れたとき、したためた一句がある。
             
 ゆく夏や別れを惜む百合の晝(ひる)

 梅田さんは、二一歳の頃、徒歩で日本中を放浪した。その結果、日本で究極の田舎暮らしができるのは、室戸岬から半径四〇キロ圏内であるとし、宍喰町の野根川の渓谷に面した廃校跡に住んでいる。芝生の高台から川へ降りる小路をたどれば、手ですくって飲めそうな野根川の渓谷があり、地元の人たちが大鮎を差し入れてくれたある夏の日、七輪で塩焼きにしてビールとともに飲む---そんな一日を梅田さんと過ごしたことがある。彼にとってここは桃源郷である。
 多作家の梅田さんは年間数千個を作陶し、地元の人たちに陶芸の手ほどきをし、百貨店で開かれる年に数回の個展で作品を売りさばく人気作家である。今はジャパンタイムズの記者をしているミック・コレスが徳島に住んでいたころ、地元の戸田眞理子さんの案内で梅田窯を訪れたのは一九九六年。ミックはそのときの模様を徳島新聞に綴った。
 地域に溶け込もうとし、まちづくりに発言する彼は、決して厭世的な世捨て人ではない。坊主頭にあごひげ、大きな声、眼鏡の奥で見開かれた目、楽天的な暮らしのなかに秘めたしたたかさは印象的である。

 芭蕉には、無駄のない凝縮された小宇宙がある。俳句はもとより、散文も同じである。たかだか一七文字であっても決して一筆書きではない。その世界を日本文学に造詣の深いキーン氏が英訳する---これは見逃せない。書籍を袋詰めする受付の女性のなんともいえないおだやかな所作が、ふくよかな曲線とともに花の香を醸しだしていて、道中の記憶に残った。(講談社インターナショナル、対訳「おくのほそ道」、ドナルド・キーン訳、宮田雅之切り絵,一九五〇円税別)

 八百屋があった!

 上野城に立ち寄った後、上野天神宮へ行く。祭神はいうまでもなく学問の神様菅原道真公である。お宮を出てすぐに、八百屋があった。その横にはこれも履物屋。店の中から店主がこちらを見ている。突然、昭和三〇年代の日本の商店街の一角に出てしまった。これだから見知らぬ町のそぞろ歩きはやめられない。幹線道路から一歩入ると、上野の情緒あふれる街並みがある。伊勢街道の宿場町として栄えた、たかだか人口六万人のまちの路地にこれほど魅力が残っているとは思わなかった。

 かつて自然発生的に集まって発展してきた商店街は、ぼくのテーマのひとつである。高齢化社会を間近に控え,歩いて買い物ができる商店街は鍵を握る。そこに環境指向、健康指向を融合させ、背景となる風土と結びついて生活者を満足させることができれば商店街の蘇生は夢ではない。もちろん経営者の自己実現を果たす手段が生活者に支持されることが前提である。自分の興味、特技と職業が一致すれば、サラリーマンと違って生活と人生の間に矛盾はなくなる。

 名張の川の夕べ

 上野から南下すること二十キロで名張に出る。市街地を流れる名張川では鮎漁の人たちを見かけた。コバルトブルーの淵と白砂が西瓜の香りのような鮎を育むとすれば、苔の生えた川底と透明度を欠く深みの色からは、とてもいい鮎が育つまいと思った。地図を見ると案の定、上流にダムがいくつもある。

 出光でガソリンを入れ(燃費17.6km/l)、ジャスコで食料品と氷を買い込む。夕方の時刻、キャンプの適地をスタンドで聞いてみたところ、青蓮寺ダム湖畔にあるという。その前に風呂に入りたかったので、風呂屋の位置を尋ねると、この界隈にあるという。大型スーパーの側に風呂屋があるなんてあまり聞いたことがない。鳥居の近くだと聞いたが、空を見上げて風呂屋の証である煙突を探すと、あったあった、鳥居を左に入った細い路地に面したところに風呂屋はあった。人と自転車しか通れない路地の前に勢いよく流れる水路があり、打ち水が施された店先の暖簾をくぐる。(おっと、やはり風呂屋だ)
 早速湯につかる。気泡が足の裏を伝って身体をくすぐる。歩き疲れた一日にほほが緩む瞬間である。のびのびと湯の流れになびいていたい。が、時間がない。湯から上がると、ビールを買い込んでキャンプ地を探しに行った。

 ダム湖畔の展望台

 名張市街から南へ青蓮寺川(しょうれんじがわ)を上ると青蓮寺ダムがあり、さらに上流には奇岩で知られる香落渓がある。中心部から一〇分ぐらいでダムに出て、ロッジの灯が見える対岸へ渡り、しばらく進むと展望台があった。ここは見晴らしはよく、袋小路なので車にも邪魔されないだろうし、すぐそばにテニスコートとトイレもある。いい場所を見つけたとはかりに、早速テントを張って、満天の星を眺めながらイスに腰を降ろしてビールを飲む。流れ星も現れる。(うまい!)
 それからテントに潜ったのだが、このダム湖畔、夜になると時折爆音が響き、対岸の道路をヘッドライトの閃光が走る。対岸といってもせいぜい数十メートルなので、テント越しには眠られない。やむなく、車のなかで寝ることにした。夜の一一時を過ぎる頃、エンジン音はあまり聞かれなくなった。

 土門拳と室生寺

 土門拳の写真集では「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」も忘れられないが、ぼくは「古寺巡礼」が好きだ。そのなかの第5巻が室生寺である。
 土門拳は室生寺が好きでよく室生に通った。戦中戦後は相当苦労して重い機材を担いで山中に入ったらしい。当時は訪れる人も一日に数人で、寺へ渡る太鼓橋の前には、清水屋と橋本屋という二軒の旅館があった。古寺巡礼から抜き書きをする。

---終戦の翌年の初夏、今は亡くなった室生寺の住職荒木良仙老師と書院で語り合ったときのこと、「老師は長年ここに住んでおられて、春夏秋冬のうち、いつの室生寺が美しいと思いますか」と聞いたことがある。「梅の室生寺、桜の室生寺、青葉の室生寺、石楠花の室生寺、もみじの室生寺、冬枯れの室生寺、みなそれぞれに美しいと申し上げるより他はないが、強いてわしの好みをいえば、全山白皚々たる雪の室生寺が第一等であると思う。ただ残念なことは、雪が降ったときは、お寺を訪れる者がひとりもいない」と答えられた。(中略)ぼく自身は、蝉時雨の降るような青葉の室生寺が一番好きである。

 寺を訪れるのが別に趣味というわけではないが、これまで一度も足を運んでいない憧れの地だったのである。室生寺へ着いたのは午前9時過ぎ。まだ一般の観光客は来ていない。静かな朝の時間に境内を履き清めている人たちに挨拶をし、ついに金堂を見える場所に来た。石段を一歩一歩進むうちに、最初は茅葺きの屋根が見えはじめ、やがて軒が見えてくる。こうしてしだいにその全景が明らかとなっていく。まさに石段と一体となった建築物であり、土門拳が雪の金堂を撮りたかったという話がじんと伝わってくる。五重の塔は国宝で、土門拳も好んでいたらしいが、ぼくにはあまりぴんと来なかった。さらに階段を上がると、奥の院へ向かう七二〇段の石段があるようやく上がりきると、そこにいた老人に挨拶をした。

 ステテコ姿で休むことなく筆を走らせていたおじさんが顔を上げる。「ここまでは大変だったでしょう。どちらからお出でた?」
 徳島からと答えると、かつて四国を訪れたとき、鳴門金時に魅せられて、毎年送ってもらっているという。おじさんはいい顔の相をしている。おそらく苦労をしてきたに違いないのだが、そのことが少しも顔にいびつな影を落としていない。「先祖供養の塔婆を一つお願いします」「はいどうぞ。午後から坊さんが上がってきて供養してくれますけんな。それはそうと、あんた、駒田に似てるね。あれも奈良県出身なんよ」
 駒田に似ているといわれたのは始めてである。会話が弾んだが、そろそろ行かなくてはならない。「それではおじさん、お元気で」「さよなら」。

 またしても七二〇段の石段を降りていく。上がってくる途中、見上げるような杉木立に気づかなかったのは、急で狭い階段のため足元に気を取られていたからだ。
 降りてくると、境内にはもう観光客があふれかえっていた。土門拳が通った頃は、一日数人であったという来客も、今はバスが着くたびに団体さんがひっきりなしに訪れる。夏の蝉時雨が岩にしみ入るような室生寺の静けさを味わうなら、早朝に訪れてみるべきだ。

 朝の十時半ぐらいだったが、橋本屋に立ち寄り、山菜そばを注文する。山菜、にんじん、竹の子、ねぎととも、鰹の風味豊かな出汁をすする。(うまい!)
 これで六五〇円は満足度が高い。客がひっきりなしに訪れる宿の食堂として相当儲けているのだろう。そのゆとりが食材に手を抜かない老舗の意地となっているのかもしれない。
*この旅を終えた直後の九月中旬に室生寺の境内にあった杉の巨木が何本も倒れ、そのために五重の塔が潰滅的な破損をした。何ともいえない気持ちである。

 室生川が宇陀川と合流するところに大野寺があり、その前の断崖に仏の全身の彫刻が刻まれている。有名な磨崖仏である。川べりに木が数本生えており、その枝ごしに対岸を見るようにすると、また趣がある。また対岸の仏さんの右側にも大きな樹木が繁って仏さんの左半分をなんとも色っぽく隠している。

 三輪大社と素麺

 道中で三輪大社にお参りした。改築工事の真っ最中であった。名産三輪素麺も何としても求めなければとその辺りの製造直売店に入って三束買った。ぼくはうまい素麺に目がないのであるが、三輪素麺はまだ食べたことがない。素麺を茹でるのには水道水ではなくいい水を使い、片一方の端をほどけないよう糸でしばって短時間でさっと茹で、直前に刻んだ葱を添えれば御馳走となる。

二十年前の明日香に会いたい

 いよいよこれから明日香村へ。ここには忘れがたい思い出がある。けれど、二十年の歳月はこの地を変えてしまったのではないか。思い出のままがよかったのではないかとの不安がよぎる。それでもあの場所を見ておきたい…胸の高まりを抑えることはできない。

 中三の夏、女の子5人と男2人が担任の先生に引き連れられて明日香へ二泊三日の旅に出た。学校の行事ではなく、受持ちの生徒を歴史の舞台へ誘おうとする先生の好意によるものである。担任の藤原先生は国文学に造詣が深く、厳しいところもあったが、好々爺として愛されていた。近鉄橿原神宮前駅で降り、観光案内所で民宿に予約を入れ、一日六百円のレンタサイクルを借りた。

 明日香は道が狭く起伏の多い土地である。しかも人家のすぐそばで遺跡や遺構がさりげなく点在する。神名備の里の核心をいにしえ人の歌に詠まれた明日香川が北へと流れ、そのほとりには、甘橿丘(あまかしのおか)が鎮座し、そこから眺める畝傍、耳成、香具の大和三山。さらには、酒舟石、猿石、亀石の愛らしい石碑。こんもりと繁る天武・持統稜、石舞台古墳。田んぼの真ん中に出現する伝板蓋宮跡、伝飛鳥浄御原宮跡。飛鳥寺、岡寺、飛鳥坐神社。この小路をたどるのは自転車以外にありえない。

 暑い七月だった。ぼくは「33」の文字がプリントされたTシャツと空色のズボンをはいていた。5人の女の子の一人は、黄色いTシャツにキュロット姿。彼女は、色白でふっくらしているが、歌をうたうときの声の美しさには沈黙するしかない。幼い頃から音楽とともに声楽を習っていたのである。感動していることを悟られないよう、わざとがさつな動作をして歌を聞いていないふりをした。両親の愛情を受けてのびのび育ったひとりっ子でありながら、わがままさはみじんもなく、人を疑うことを知らない素直な人でいつも微笑みを絶やさない。学校の成績は彼女がいつも一番でぼくが2番。といっても生徒数7人(男2人、女の子5人)の学年だったので別に大いばりできるわけではない。先生はその十倍ぐらいいたと思う。不思議な学校だと思われるだろうが、できたばかりの私立中学校の第一期生だったのである。

 一五歳といっても、5人のなかで一番大人っぽい体つきをしていた彼女が着替えをするとき、腕を上げると、おっぱいの輪を頂点にぷるんと揺れるのがシュミーズごしに見えた。じろじろと5人の女の子のおっぱいを眺めていると、T子が「エッチ」といった。彼女たちはおおらかで、体育の時間には同じ部屋で着替えをしていた。一方2人の男はというと、部屋のすみの衝立に隠れて着替えをしていたのである。

 夏の明日香を抜ける風を真っ向から受けて、畦道を突き進むと、坂を少し上ったところに民宿はあった。お風呂は民宿の離れにあり、湯加減を伝えるために小さな窓があった。そこから彼女たちが湯浴みする音と歓声が聞こえてきた。風呂上がりの夕食に出されたよく冷えた奈良漬けがおいしかった。夜、7人で枕投げをしていたら、床の間の白い置物に当たって壊れた。結局男二人が悪者になって、ふとんにくるまってその上から女の子に枕でたたかれるという懺悔を受けた。置物は何とか接着できそうだったので、翌日、明日香資料館の近く(だったと思う)の雑貨屋で黄色いボンドを買った。白いその置物からボンドがはみ出ているのが気になっていた。

 変わることのない明日香

 甘橿丘へ上った一九九八年九月一四日。驚いたことにそこから見える風景は一九七五年七月のそれとほとんど変わっていなかった。写真を撮った場所は展望台から北東の方向で、おわんを伏せたような耳成山が飛び込んできた。周辺地域は宅地造成が進んだかもしれないが、明日香そのものはほとんど変わっていない。今も車が通れない道はたくさんあり、村のメインストリートは4分待ちの信号機で交互通行する。村人から苦情が来ないものかと思うが、そこまでして景観を保全しているためか、二〇年前と変わらぬ村の姿がそこにあった。日本にこんな観光地はほかにないだろう。甘橿丘へは次々とカップルが上がってきては寄り添う。そうして明日香川がめざす大和平野の北部を俯瞰している。

 七人の学級に優秀な教師を揃えた学校は、全員がわかるまで授業が行われた。ゆっくり進んでいるつもりでも、中3の夏にはほとんどの教科で高校のカリキュラムに入っていた。少人数のメリットは、その後公立高校に進学して初めてわかった。例えていうなら、大人数の授業は中身のない形式だけの授業で、生徒の理解を確かめもせず進めていく。それがショックであった。

 なぜストレートに上がれる私立高校に行かずに県南の名門県立高校へ進んだのか。それは、少人数に気詰まりとなったからであるし、広い世界を見てみたいと思ったせいもある。しかも受験勉強をほとんどすることなく通った。ほんとうのことをいえば、高校受験がないため、学校に受験勉強に備える時間もノウハウも、そのためのカリキュラムもなかったのである。先生はデータがないため、冷や汗ものだったと後から聞いた。
 一方彼女は父親の転勤で愛媛の宇和島へ転向することになった。高校からは7引く2で5人となるが、受験して高校から転入してくる生徒があるので、人数は三十人ぐらいに増えた。
 彼女は結婚して京都で暮らしているらしいが、ぼくのなかでは時間は止まったまま。かといって彼女のイメージは年月を経て壊れていない。だから今の彼女に会って、子育ての苦労話や結婚までの過程などを確かめてみたい気もしている。

 尽きることのない石めぐり

 明日香には奇妙なかたちの石がたくさんある。酒舟石は、水を流すと三方に別れてたまるようになっている。ぼくが好きなのは亀石。亀がにっこりとする姿は何物にも変えがたい愛らしさで、これを見るために明日香に来るのだといっても過言ではない。それが道から少し入ったうっかり見落としそうな田んぼの一角にあるのだ。
 こうして明日香をたどっているうちに、少しずつあの夏の感覚が蘇ってきた。大汗をかいた岡寺への長い上り坂は今もあるが、広い駐車場ができていた。この道は吉野本面に抜ける県道15号線。昔からあったのかもしれないが記憶にはない。
 飛鳥坐(にいます)神社のお祭りは、お多福の面をかぶって夫婦和合を演じる奇祭である。万葉人の素直な感性、おおらかさを感じる。二十年前には行っていないが、今回初めて訪れたところで神殿を建て直し中であった。ここで縁結びのお守りを買った。

 貫流する小さな明日香川の流れ

 万葉の世に歌われた明日香川も、知らなければ単なる水路にしか見えない。それでも今の明日香川に特別の思いを寄せてしまう。小さい頃から川が好きで、小学校の時は、地図を頼りに川めぐりをするのが好きだった。現代の明日香と万葉をつなぐ一本の糸、明日香川。
 その上流の稲淵に車を走らせた。カメラを持った人が異様に多い。刈り取りが終わったばかりの棚田とその田守のかかし、あぜの彼岸花。そこをくねって流れる明日香川。うーん、絵心のある人なら人目でわかるその現代絵巻の見事さ。徳島の代表的な棚田、上勝の棚田を知っているぼくでもため息が出てしまう。それも何の変哲もない小川、明日香川のせいなのだろう。この辺りから上流の明日香川の様子は、千数百年前とほとんど変わらないのだろうか。

 再び甘橿丘へ

 今回は短時間でできるだけ多くをまわりたかったため、自転車を使わなかった。ところが、夕方になってもう一度、甘橿丘を登ってみようと思った。夕日が色づいた田を照らしていたからである。この斜めの光線に照らされた甘橿丘から明日香をもう一度眺めたい。あの展望台をもう一度見ておきたい。
 ぼくの記憶の甘橿丘は、20年前…そのふもとを行く夏景色を彩る小道であるが、赤とんぼが飛びかう今の景色を夏の風に置き換えてみる。もしかしたら、この辺りに民宿があったのかも…。そんな気もした。でもやはり違う。民宿は見つからない。何度通ったところで思い出すはずもない。もうどこにあったのかさえわからなくなってしまった。
 何のために無意識のうちに民宿を探そうとするのか…この二十年間、彼女を好きだったのではなかったのか。今になってそのことに初めて気づいたからかもしれない。戻らない時間がいっそう思い出を美化する。今度明日香を訪れることがあれば、何か特別な意味を持ったときかもしれない。

 夏真っ盛り七月の明日香路を自転車で行く・・