経営コンサルタントのくせに…
 通販生活のようなコンサルタント

 通販カタログなのに有償。それでいて購読者124万3908人。以下「通販生活」のチラシから抜粋。
・「街で見つけにくい商品」ばかりにこだわる。ムキになってこだわる
・「いちど惚れ込んだ商品」は何年でも売り続ける。マンネリと悪口叩かれても売り続ける。
・買い物雑誌のクセして「商品」のほかに「政治問題」や「社会問題」まで販売する…(以下略)。

 経営コンサルタントのくせに…

・商品にのめり込むあまり、商品が愛しくて抱いて寝たこともある。
・掃除が好きで、クリンリネスなる言葉がある前から、徹底的に掃除をした。どうせやるなら、合理的に行う方法はないかと自らの店舗で試行錯誤してきた。
・それらが「モップほうき法」「下から掃除法」「客寄せ掃除」「アルコールは商売の神様」などに結実した。これらの実践法は、商工会などの講演会でお話している。
・その店を軌道に乗せたあと両親に渡して(普通と逆か?)、デパートの特設売り場の売り子、製造業の営業と生産管理、英語塾の教師や翻訳などを手がける。
・仕事をやめて吉野川の第十堰問題に数年間取り組む。その過程でそれまで政治や行政に関心のないごく普通のおばちゃんや娘さんたちが心をひとつにして汗と涙を流しながらも笑顔を忘れず住民投票を実現する場面を目の当たりにした。
 この星に民主主義は死んではいない。住民投票に至る7年間は、地球上でもっともすばらしい市民運動だ。動くうちに多数の良識ある政治家やジャーナリスト、作家などと知り合った。
・とはいえ、鉢巻き締めた市民運動や反対のための運動、環境保護運動には今でも関心なし。なんだか険しい顔でやっていそう。良いことなら笑顔でやろう。住民投票が成功したのは、わくわくするような楽しさと達成感があったから。投票した徳島市の人々はかけがえのない体験をしたね。

 川が好き

 小さい頃から川が好き。地図を眺めながら、まだ見ぬ川の姿に憧れていた少年時代。そして四国は川の国。ヒトの暮らしと自然度の高い川が濃密にかかわりあっている。川とともに歩む四国を人々に伝えたい。そこに未来への箴言があると信じるから。
四国の川と生きる(2001.9.3YahooJapanの登録サイトになった)

 学校では…

 中学校はできたばかりの私立中学校に新天地を求めて入学した。当時生徒数は「7人」(男2人、女5人)なのに先生は大勢。一人ひとりにわかるまで「ゆっくり」と授業は進んだが、中3の夏には高校の教科書に入った。
 このとき、かけがえのない恩師たちに出会う。特に引退後にカムバックしてきた老練の教師(国語と数学)は、学問の深さや生きることを学んだ。「恩師」という言葉は死語ではない。

 少人数のクラスはいい。勉強が楽しくなる。このあとで自由に憧れて県南の名門県立高校へ行ったが、教師と授業のレベルの低さに唖然。そのため授業中はほかの勉強(もちろん受験勉強以外)に充てることができた(そうせざるをえないほど、おざなりに授業だった。だって生徒がわかったかどうかさえ確認せずに進むんだから)。
 ここは中高一貫のため、受験対策はカリキュラムにはない。できたばかりの私立中学なので模試データもない。本人も高校受験の勉強はしなかったが合格した。

 高校に入っても勉強は大好きだが、相変わらず受験勉強には興味が向かない。何か見限っていたのだろう。高校卒業時の成績は400人中380番。それでもたいがいの教科で全校一位の点数を取っていた。
 勉強したかったのは、「天文学」「天体物理学」「音楽」「経済」「政治」「自然科学」など。でもどこの大学もこれだけ広範囲なカリキュラムを単一の学部で準備しているところはない。だったら一人で勉強してやろう。そう思って大学へは行かなかった。

 その後、独学癖が高じて、オーケストラの指揮、英語、家政学、天文学、河川工学、写真、経営学、オーディオ学、音楽評論…などを広く深く学ぶ。まず自分でやってみる、そこから単純化して集中的に実践する、が自分のスタイルとなった。新しい理論や発見をした(つもり)ことも少なくない。
 名門高校で英語を教えている先生がぼくの前では英語をしゃべらない。彼はそれによって自尊心は守れただろうが、英語の本質であるコミュニケーションは見失った。学歴でコンプレックスは?と聞かれるけど、経験値を活かす知恵と実践においては、大学院生や教授クラスに負けないと思う。もちろん一般教養の深さでも。古典のなかでは、万葉集と源氏物語は好き。音楽ではベートーヴェン、モーツァルト、ドビュッシーなど。あとは民族音楽か。ポリネシア音楽に魅せられ、南太平洋の珊瑚礁を一月彷徨ったこともある。

 中小企業診断士の受験は…

 合格率3%の試験を「100人中3人も受かるのか」と思っていた。多くの人が通う受験機関などまったく利用せず、ひたすら通信教育のみで独学。
 1次、2次、実務(15日間ぶっ通しで東京と大阪で行われる)をすべてストレートで合格。受験の前から「通った」と過去形で友人に言いふらしていた。自分なりにものごとの分析には自信があった。もちろん試験に受かるかどうかはどれだけ受かりたいかにかかっている。でも一度目標を持てば、あとはすべてを忘れて打ち込み、天に任せて微笑む。そんな感じでやれば誰でも受かる。

 受験のポイントは2つ。要点を自分の声で読み上げてカセットに吹き込んで聞くこと。もうひとつは、起承転結を含めて簡潔に作文を書く国語力。これは日頃から心がけていないとできない。受験対策ではないが、新聞投稿の原稿をよく書いた。地元紙に月1回、主要な全国紙にも各1回採用された。そこで求められる、500文字で起承転結のなかに趣旨を盛り込んで共感を得る、という訓練が合格に結びついたことは疑いない。
 もっとも大切なのは、経験から短時間に要点を汲み取る能力。同じ現象を見ても、表面を見るか、本質を見るかで判断の分水嶺となる。

 ITについて

 しかめっ面の人生評論家やこの道数十年のベテラン評論家たちのように、むずかしく考えない。あくまでコミュニケーションの道具としての情報技術とその活用法を考えている。そこに来るのはあくまでヒトが主人公ということ。この本質が感じられなければ、どんなIT技術もマスタベーションに過ぎない。
 例えばWebコンサルティングという単語がある。もっとも信頼できる検索サイトGoogleで検索すると、9万件の「Webコンサルティング」のなかで、ぼくのつくったサイトがトップに出てくる。わずか数ヶ月しか勉強していないぼくの手作りサイトである(何年もHTMLやWeb作をやっている人は何やってんの?)。WebマーケティングはフラッシュやCGIじゃない、コミュニケーション。経営に役立てるための道具。ITにはあれもこれも求めないでシンプルな構図を描くこと。それが成功の秘訣。例えば、商業ならブランドづくり(ファンづくり)のための心理的な仕掛けはしても、モノ売りインデックスにはしないなど。でも不思議なことに情報発信が相手に受け入れられると、黙っていてもモノは売れるようになる。
 
 専門バカ? なぜそんなに分業する?

 これまでやってきたことは、回り道のようでいて、比較的短時間に「生きる」実践のコツを学べたからよかったと思う。これは「効率」を追わずに「効果」を求めつづけたからだと思っている。
 さまざまな領域に体当たりしたおかげでわかったことは、例え専門分野といえども突破口には、教養と体験が必要であることがひしひしとわかった。

 それらはときに直感だ。ぱっとみてわかるかわからないか心の豊かの象徴だ。万人を納得させる理論はあとからつくることができる。宮崎駿さんの創る映画をみればわかる。彼の音楽や言葉に対する感受性、自然への思い、自らも含めた社会への内省など、どれだけ豊かなものを閉じこめているか。豊かさは原体験の豊かさに比例する。

 コンサルティングでは、短時間のうちに要点をばしっと掴んでモデルを単純化し、そこに努力を集中させる。
 経営も同じ。わずか数時間〜数日のお付き合いで、「ここが要点」(コアコンピタンス)を掴み取り、そこに経営資源を集中させる。
 「すること」と「しないこと」を明確にするシンプルな作業が戦略。コンサルタントは構図を単純化する仕事。

 芸術やさまざまな領域に慣れ親しんだことが目利き度を上げている。社会の分業は変だ。もっと政治に芸術の薫りがしてもいいし、芸術がメッセージを持ってもいいではないか。ましてコンサルタントなら…。

 景気が悪いという声を聞くが…

 年間百社近くを訪問させていただくが、より少ない売上で驚くほどの経営者報酬を取っている事業所、不況業種の縮小市場と言われながら、参入業者がまったくなしの地域市場を独占したおいしい商売をしている企業など数多く見てきた。マクロ経済と景気対策は忘れていい。
 平均的な日本人は世界有数の資産家である。バランスシートでは流動資産が突出して多い。つまり家庭内留保が厚い。それなのになぜお金を使わないのか。それは将来に対する不安があるからだ。

 結婚しない若者たち、子どもをつくらないカップル、必要な投資さえ控える経営者たち…。これは政治や行政が社会を軌道修正しなければならないところだろう。
 だから生活者の一人として、政治や行政に提言を続けていく。ときにNGOやNPOと連携して生活者の声を届けたい。社会を変えていくことが、遠回りのようでもっとも景気回復の近道だ。

 景気は関係ないとはいいながらも社会生活が悪くなると、経営環境が悪化することが多い。不景気なのでお客様からの相談が絶えることはないが、自分の仕事がなくなることよりも住みやすい社会になることのほうがずっと大切だ(ホンネ)。経営コンサルタントとしての仕事がなくなったら? そのときは変わりの仕事を見つけるだけ。社会がぼくを必要とする限り続けるし、必要なくなれば転職すればいい。

 今の不況は、大型公共事業投資とゼロ金利がもたらしたものと思う。それらは生活者には何のメリットもないばかりか、ツケばかり払わされている。これではお金を使うのが馬鹿らしくなる。
 生活者の幸福に力を貸すことが、すべての人の幸福につながる。だって、公務員も企業経営者も労働者も農家も自営業者も家庭に変えればみんな生活者じゃない。だから、これからも地域の生活者や社会や政治、行政に対し、情報発信と実践を続けていこう。

 コンサルタントが良識を忘れて権力におもねるようになれば終わりだ。真に顧客のためになろうと思えば、その先にある一般生活者に思いをはせなければならない

 生きるということ

 ヒトが一人生きるということは、自らを産んだ宇宙に対してなにかのメッセージを発していることではないかと思う。
 分業化された社会で、狭い領域に閉じこもることなく、汲めども尽きることのない泉のように、広く深く社会を知って働きかけ、人生の果実を実らせたい。
 環境問題や数々の社会問題が山積しているなかで、一人ひとりの充実した生き方、その集合体としての小さなコミュニティがゆるやかに結びついて重なり合うような多面的かつ自立(自律的)な社会が必要だ。一人ひとりが自分を生ききるとき、何かが変わる。きっとそれは心弾む人生。
 →人生の旅は終わらない

 感動を求めて生きる

 感動を求めて生きたいという清冽な感情が心の奥にある。それがぼくにとって生きること。きれいごとではない、自分のすべてを出し尽くしたような瞬間に訪れる静かなピアノの余韻にも似て、おだやかに満たされる。

 感動とは特別な体験でもなければ、慟哭する激しい感情の動きばかりではない、もっと身近なものだ。アマゾン探検やエベレスト登頂というよりも、もっと個人的でもっと日常的でしかもじーんと来る心の動き、それが感動だ。だから感動を求めて生きる姿勢は自然体だ。

 仕事も生活も家庭もしたいこともみな同じでどれひとつ切り離して考えることはできない。生きるために不本意な選択をしている人は、それを割り切れなくなったときから、視線を遮るもやが少しずつ晴れてホンモノの生き方が見えてくる。誰の心の深くにも燦然ときらめく良心の灯火がある。なんびとたりともその灯火を消すことはできない。

 住民投票はひとつの感動の物語だ。自らを捨てて無私の心でひとつの目標に向かったから。それは幸福な時間だったに違いない。
 けれど、こうしたことは見方を変えれば365日、そこかしこにありうることではないか。感性に蓋をせず人々の良心を信じて、将来の目標さえ持たずにただ黙々と使命感を持って何かを続ける。

 まったく同じ風味の出汁を365日お客様に食べていただくうどん店、来る日も来る日もホテルの清掃を委託されて行う作業員、地域住民の便宜を考えて自己裁量でできうる最善の処置を行う公務員…。そんな日常の作業のなかに何を見ようとするかが問われているのではないか?
 言い換えれば、そのなかに人の良心、社会の秩序を作り出そうとする熱意が透けて見えるような気がする。それは、ヒトという生き物にプログラムされているのだとぼくは信じている。

 自分の思いの深さに自分自身が気付いたとき、誰かがほんのささいなことに共感してくれたとき、自分だけの小さな目標を達成したとき。だから空と海は「共感」サイトにしたいな。

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