平井吉信はこう考える
空と海に生きる
どうして四国なんだ?

ぼく自身に問いかける。でも、ぼくはこの土地で生まれ育った。だから好きだ。10代の頃に綴った「四国を良くすること」のノートは十数冊。いま読むと、稚拙で舞い上がった文章でとても読めたものではない。いま書いている文章だって、十年後、二十年後に振り返ったとき、同じだろう。

経営コンサルタントは専門を持つことが多い。でも、ぼくは四国を良くすることは、営利、非営利を問わず、すべて仕事と思っている。四国に生きていて「それは専門外だからやりません」というのは責任を全うしたことにならない。

ぼくの代わりはどこにもいない。だからぼくがやらなければ誰もやらない。そう思うから逃げない。やると決めたら責任を持って仕事をやり抜く。夢のなかで考え、車を運転しながら考え、食事をしながら考え、何度も何度も現地(現場)へ赴いては、人と会い、そこの空気を肌で感じる。そんなことを繰り返しながら今日まで来たし、これからもそうだろう。

経営といっても、経営理念の策定、戦略の策定、マーケティング戦略とその実践、ITと経営、財務分析、キャッシュフロー重視の経営のしくみ、人材を育てる、人をいきいきさせる、店舗の陳列やディスプレイ、清掃の大切さをわかっていただくことに至るまですべてぼくの仕事だ。

得意分野しかできないコンサルタントの専門分野なんて底が浅い

経営の専門書を繙くたびに思う。体系として整理すると書物のようになるのだろう。しかし実際の経営は、ひながたやマトリックスを埋めていくような作業ではない。だからひながたを埋めていく大手のコンサルティング会社ではダメなのだ。

経営を動かすのは、人であり、その人を動かすのも人。まずは人としての根っこがあり、その前提の人間関係があり、さらにその上に専門家としての深い洞察、的確な判断、共感と感動によって実践していただく作業がある。少なくとも付き合っていただいている人たちとは、心のつながりがあると思っている。

問題を単純化しよう。複雑な問題を単純にすることにコンサルタントの価値があり、分析能力が問われる。わかりやすい構図にして、誰にでもできるしくみと動機付けをすることがコンサルタントの「実践」だ。

「目に見えないソフトに対して代償を払う会社は徳島にあるのか?」。ときどき聞かれる質問である。けれど、すでに依頼に応じて数え切れないコンサルティングを行ってきているのは事実(その実践結果があるから、このホームページは600ページを越えている)。モノ余りの時代に、モノにしか投資をしない会社、人材にお金をかけない事業所の未来がどうなるかは見えている知恵、創意工夫、熱意、感動…そんな目に見えないものを提供しているからいいんだと思っている。

これまで多種多様の業界に浸った。日本最先端のバイオテクノロジーを持つベンチャーのコンサルティング、きもの小売店として初めて経営革新支援法の認定を受けた企業、全国的な商業集積のリニューアル調査、地場の木工業との継続的な付き合い、商店街や組合の活性化はもちろん、まちの理美容店、飲食店、衣料品店などのパパママストアなど数年間で訪問したところは数百社になる。女性や若者の創業支援、さらには、行政や政治との関わりがあってコンサルタントが手を染めたがらない第三セクターの経験も豊富で、現在も2社の非常勤役員を務める。

さらに、ぼくの「経営」は、企業や商店、商店街だけにとどまらない。農業では、県農業改良普及センターや自治体の農業振興担当部署と協力して、農家の経営改善に務めてきた。なかでも地産地消のマーケティングはこのところの重点テーマだ。

林業や漁業もそうだ。国の拡大造林政策の破たんによって、水源涵養の機能を持つこの国の森は荒れ果てている。もはや市民ボランティアの間伐や枝打ちを投入するような次元ではなくなっている。そんななかで「林業経営」として成り立たせている事例が県内にも県外にもある。個人で創業して年収1千万円、時間給1万円の林業経営のしくみを研究し、多くの人たちの受け皿となるような事例を提起したい。

漁業では、漁協がスクーバダイビング事業に乗り出している事例を支援した。このように、流通革新やマーケティングの考えを第一次産業に持ちこみ、情報発信と顧客コミュニケーションによって活性化することは常識だ。そのことによって、提供する人たちも提供される人たちにとっても豊かな生活につながることは間違いない。そこに地産地消の意味がある。

一方、非営利では、全国的に話題となった第十堰の問題に当初から取り組み、実名で新聞に投書を続け、裏方として活動を支援してきた。NGO、NPOとの関わりは一生切れることはない。お金は人生の成功を表すひとつの指標だけど、それ以上に大切なものがある。それは、ぼくが四国に生きる人間だから。

有償の経営支援、無償の地域貢献は、ぼくがやりたくてやっていること。一日を充実した時間で満たしたいから仕事はいきおい毎晩2時となる。それでも疲れを知らないし、決して無理をしていない。実はぼくには十代の頃に立てた百歳まで生きる願いがある。同じやるなら、長く生きて楽しんだほうがいい。心身は熱くても燃え尽きないこと。

だから健康管理はいとわない。付き合いを断ってでも「飲み」には行かない。タバコはこれまで1本も吸ったことはない。添加物の多い食べ物やファーストフードは口にしない。でも、たまには毒も食べる。我慢してまでラーメンを食べないなんて間違っている。

そんなぼくの休息は、四国の川で遊ぶこと。空と海を感じること。

自分を管理できない人間が仕事ができるとは思われない。このことは、自らに突きつけている。自らが人生を生ききって、しかもそれを心から楽しむ。百歳まで生きたいな。

もっともっと多くの人たちの話を聞きたいし話を聞いて欲しい。

空と海の旅は終わらない。


ゆっくり学ぶ、無目的に学ぶ
ゆっくり学ぶ 無目的に学ぶ そして生きる

地球環境、21世紀に生きるということを見つめ直すと、スローライフが普通になってきた。ぼくの周辺でも脱サラでIターンして農業すること(したいと思うこと)が珍しくなくなってきた。

企業の目的は存続していくことだけど、企業が半永続的に伸び続けることは不可能。伸びている企業は将来のリストラ候補者を増やしているともいえる。ということで、答えは自ずと出る。サラリーマンを続けていてもいずれはリストラされるということ。

いまの状況は、景気の循環(不況)と捉えるよりも構造的なものと考える人が多くなっている。ぼくもそう思う。このまま経済拡大に走る政策、経営を続けていられるのかどうか。「このまま発展することはありえない」の悲観的観測から「発展しないことは不可欠。むしろいいことだ」との価値観へいつ地球人が転換できるか。

不況の理由は、価値観の転換ができないことを悲観的に思う人々の胸深くにある潜在意識が買い物や浪費にストップをかけているのではないか。公共事業の拡大や国債の乱発は、自民党や政府ばかりが悪いのではない。古い価値観の呪縛から逃れられない人々のあがきや願望がそうさせているのだ。

「あなたの国(会社)が存続できる時間が少しばかり長くなることはそれほど大切なことですか?」。もっと大きなもの、もっと大切なもの、もっとかけがえのないものがあるのではないか。

いずれ日本も十年以内に自給自足経済(地産地消、資源循環型経済などとさまざまな名前で呼ばれているが…)に移行していくことになる。食料やエネルギーの自給率が低い日本のような国において、それ以外の選択肢があるとは思えない。

だけど、これからの経営は真実楽しい。古い価値観を軽やかに脱却して、人がもっと活きるようなしくみをつくり、そこに共感してくる社員や生活者に囲まれるような経営にすればいい(理詰めの人には理解できないだろうがそんなにむずかしいこととは思えない)。ISO14000やITだけでは本質は解決しない。志、理念、共感が根底にあることが大前提。いまは細い流れかもしれないけど、社会の大河のなかにひとすじのほんものの流れがあり、それを選んで思い切って流されてみればいい。経営するとはそんな流れを選んであとは任せるだけ。そんな「無為の為」経営こそが未来を切り開くことができると信じている。

子どもの減少により、誰でも(競争なしに)大学に行ける時代が目前に迫っている。ぼくは勉強が好きだが大学へは行かなかった。勉強したいことが大学のカリキュラムになさそうだったし、大学で自分の勉強したいことが満たされると思えなかったし、なにより10代後半という多感な時季を大学入試に充てたくなかったから。なんてことを言っているが、これは今だから言えること。当時は公立の進学校で卒業時に400人中380番ぐらいだから自慢するようなことではない。

だけど、独学をする喜びことがからだに染みこんでしまっている。好きなときに好きな時間だけお金をかけずにのびのびやりたいから独学になってしまう。

リストラされたくないから勉強しなければなどと考えても楽しくない。せっかく生きているんだから仕事のためなんてつまらないこと考えず、やりたいことをやればいい(人生は一度だけ)。義務感でする勉強なんて楽しくないし身に付かないよ。家族やローンはどうなるんだ?との反論もあるだろうけど、それはあなたがこれまで自らの手で種を蒔いて育てる労を取らなかったから。今の社会の兆候が見えなかった自分自身に責任があるのであり、そんな政治を行う政党や、情報を公開せず住民の参画を排除してきた行政に対し、市民の一人として参画や提言を行わなかったことから。

ぼくはこの二十年近、独学で勉強(実践)してきたことは、英語(日本語も含めた語学)、環境、写真、文章、天文学、天体物理学、経営学、マーケティング、WebとIT、家政学、心理学(コミュニケーション学)、オーケストラ指揮(音楽)、川と河川工学、地域づくり学、地元学、家政学、政治学など多岐に渡る。それがいまのコンサルタントとして、またNGO活動としての礎になっている。だけどいまになってようやく気付いた。独学の意味がなんであったのか?

当時は、お金がなかったこと、(したいことがありすぎて)時間がなかったこと、好きなときに好きなことをしたい(誰かに教わると、気分が乗らないときでもしなければならないから楽しくない)の三つの理由であった。ところが、独学でやっていくとなると、なぜ学問するのか、なぜそれを勉強するのか、どこまで範囲を拡げる(または絞りこむ)か、限られた時間でどのようにすれば、理解か進むかといったことを心がけてきた。つまり自分に対して問いかけ続けてきた。

その無意識の作業こそ、「判断」であったとわかった。人生は一瞬一瞬分岐点が訪れる。スーパーに行くのか行かないのか、そこで何を買うのか、いくら買うのか、行かないとすれば何をするのか、どちらがしたいことなのか、役立つことなのか…。それらはすべて人生を自らの意思で人生を選び取っていく作業。言い換えれば、人生は意思決定の連続(プロセス)とその結果現れる果実(因果関係)なのだともいえる。

突き詰めれは、「いかに生きるか」にたどりつく。自分の生き方を決められないからサラリーマンがつまらないのではない。他人が決めたレールを歩かされるからつまらないのではない。ただ自分が判断することを放棄した生き方がつまらないのだ。その意味では自由そうに見えるフリーターもサラリーマンと少しも変わらない。自分がやりたい理念と人生戦略がない人は少しも自由でないし、自分を生ききっていない。大切なのは、どのような理念と価値観で日々を過ごすかである。

十代で、自分のレールを自ら引いて歩んでいくことを決意し、実践してきたぼくにとって、今という一瞬はとても大切なのもの。学問が好きで、実践することが好きで、わくわくしながらこれからも生きていこうと思う。

十年をひとつの単位にして、やりたいことをやる時間、仕事に励む時間などを混ぜていく循環型の人生も悪くない。

無目的の勉強を愉しむ人が増えてきた。それはいいことだと思う。なんとかしなければ…の強迫観念は何のため?ということに気付けば、半世紀をかけて好きな勉強を独学で続ける人生もありうるんだなと思えてくる。

ぼくは百年勉強するつもり。学問は、脳が欲しがる呼吸みたいなもの。勉強は無目的の遊びであって精神的な愉しみ

自分のやりたいことをやりきることが(結果として)未来に光を投げかけるような生き方に共感してくれる人と力を合わせて生きていけることを夢見ている。