| クリスマスりみ
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| 鳴門グランドホテルで12月23日に開かれた「夏川りみクリスマスディナーショー」。歌の最中にフラッシュが光り、りみさんの前でタバコを吸う観客も。音響は考慮されているわけではないし、PAはそんな会場を補正するためエコー過剰のきらいも。ああ、やはりコンサートがよかったかな、とぼくは浮かぬ顔。曲は「涙そうそう」で始まった。 司会者との対話。彼は決して大げさでなく、また無味乾燥でもなくいい味を出している。りみさんは、昨日は久しぶりのオフで一度見たかった鳴門の渦を見に行ったとか、ホテルの前の渚を散策したけど、どこか沖縄に似ているとかそんな話題。初々しくて飾らない。そこがいい。 「南風」から、「イラヨイ月夜浜」「花」「童神」。 藤山一郎が40年にひとりと讃えたつややかな歌声。天性の美声と愛らしい容姿を持ち、15歳で上京したもののヒット曲に恵まれず一度は故郷石垣島へ帰り、地元ラジオ等に出演する日々。けれどいつかビギンのコンサートで聞いた「涙そうそう」が転機となった。レコード大賞金賞、紅白出場と続く2002年の快挙。けれど、運を呼び寄せるのも実力。 「ファムレウタ」「島唄」「赤花ひとつ」「芭蕉布」。 りみちゃん「下手だけど笑わないで」と三線をつま弾く(観客笑)。 「夏川りみ」は、これ以上考えられないぐらいいい名前だな。でも「涙そうそう」以前は、どこか自分の歌を歌っていない借り物のような感じもする。 「ホワイトクリスマス」りみバージョン。クリスマスならでは。 観客のリクエストに応えたアンコールでは再び「涙そうそう」。 晴れ渡る日も、雨の日も…。聴いて気持ちよく、歌って気持ちよく。歌詞が開けていくところで心もふくれ上がっていく。やはり「涙そうそう」は名曲。まるで彼女に歌われることを待っていたかのよう。 人を感動させようと思うとうまく行かない。けれど、自分の言葉で自分が感じたことを投げかければ伝わるものがある。結果に頓着せず、ただ今を楽しむ、ただ今をひたむきに走る。あとはただ感謝して寝るだけ。りみさんは、そんな今なのでは(ぼくも仕事をしていてときどき突き抜けることがあるからわかる)。それをカラダに教えてくれたのは、石垣島の風土だったのかも。扇には原点がある。つまり根っこから広がっていくということ。「これだ!」って感じだったんだろうな。だって沖縄には癒しそのものがあるような気がするから。 岡本太郎が名著「沖縄文化論〜忘れられた日本」で 「なんにもないことの凄み」に感動したのが40年前。 ぼくは、なんにもないこと=365日の祭りだと思う。 「涙そうそう」以降のアルバム「南風」「てぃだ」はほんとうにすばらしい(特に「南風」)。歌姫の末裔と思えるほど魂が乗り移り、彼女が安里屋ユンタを歌えば、たった今生まれた曲のように蠱惑的。ぼくが好きなのは「南風」に収録されている「イラヨイ月夜浜」。最近の沖縄の作家の作品で、その静かな祈りが訥々と美しい旋律で綴られると、もう息ができなくなる。 ステージでは「童神」をうたうとき、子どもをあやす仕草が可愛い。なんせぼくがいる場所は、夏川りみからわずか5メートル。「歌ってこんなに楽しいから聴いて!」って迫られるような感じ。 それは、南のおもてなしの心だなと気付いた。決して「東京」ではない「沖縄・石垣島」。こんなにも心地よく自然体、なのに熱狂的、ときに切なくひたひたと心を満たすりみマジック。なにより歌っている本人がいちばん気持ちよさそう。それって大切だよね。自分の歌、自分の声を愛せるから伝えたいと思える。だって歌は自分のため。それを伝えられたらどんなに楽しいことか。歌手冥利だね。 りみちゃんの低音は土の匂いがする。飾らず強く押し出す。それが土台となって語りかける中音があり、低域の強さを一瞬ためて、すうっと伸びていくきらめく高域と甘えるような中高音がある。倍音成分が多く、伸ばす音は無意識に揺れる。そんなふうに八重山や石垣の民謡を今風に料理してくれるとうれしいな。聴きたいのは、「資料」ではなくわくわくする音楽。 りみちゃんの歌は、少ない色でもほんとうにいい色を使って描いた絵のような純度の高さ。そんな声で天衣無縫に遊ぶ。レコーディングもいいけど、彼女が遊ぶライブはもっといい。意外なほどさらっと流したかと思えば、音をためてはここぞとばかりに堰を切って流す。それでいい。その音はもう消えてしまっているから。一瞬一瞬の心の動きがそのまま喉を震わせ、二度と繰り返さない時間を一人ひとりと感応しながら紡いでいくようで。 歌をうたってそれを心で受け止めてくれるひとがいることこそ、いちばんの幸せ。クリスマスの前日、ぼくが受け取った夏川りみのメッセージ。 大晦日の除夜の鐘が鳴る頃、ぼくはひとりの事務所でまだ仕事をしている。最高の舞台で歌っているだろう歌姫に思いをはせながら。 ![]() ▲戻る |