吉野川と日本一の竹林の帯
池田町から善入寺島にかけては、長さ四〇キロメートル、面積二七〇ヘクタールにも及ぶ竹林の帯が続いている。

竹林は地中にしっかりと根を張って、その枝で氾濫する水の勢いをくい止めながら、田畑に肥沃な表土をもたらす。それは水害防備林とも呼ばれ、洪水から身を守るため、流域の人々が数百年かかって築き上げてきた。

そうして明治年間までに全国有数の豊かな地域を築いた産品が阿波藍であり、吉野川がもたらす肥沃な表土であった。

マダケを主とする吉野川の竹林はさまざまに利用されてきた。建築材料、竹細工の材料、食べ物の包み、ときには子どもの釣り竿にもなった。笹の葉を洗ってから火でいぶし、お湯を注ぐとさ緑色をした香ばしいお茶になる。澄んだ川の淵を連想させる色である。竹の子の煮つけはおいしい。鰹節と醤油だしにほんのりと甘さが漂い、コキコキとかぶりつく。うまい。てんぷらもうまい。竹の筒にご飯を入れて炊いてもいい。

素材としての竹は軽い。裂けやすいがしなりがあり、編み上げると柔軟性があり、美しい造形を保ちながら柔軟で強度の高いものに仕上がる。入手しやすく容易に加工できる竹は、大昔からうってつけの素材だった。

竹は、六〇年ないし一二〇年に一度開花して枯れるという。しかし、十数年で元の旺盛な竹やぶが蘇る。竹の専門家によれば、伸び盛りの若竹は、一日に一メートルを越えて生育することもあるという。竹の伐りだしは、樹勢が弱まる秋から冬にかけて行われる。

真っ直ぐに伸びながらも節があり、しなやかで生命力に溢れている。そんな竹に神秘的な霊力を感じ取り、竹取物語など竹にまつわる民話も数多く生まれた。各地に竹の神輿、竹を割る祭り、竹に火を放つ祭りなどがある。

中国では、女子の針仕事がうまくなりますようにと、やぐらを庭に立て、お供え物をして牽牛と織女の星にお祈りをした。日本では、棚に機を設けて神の降臨を待ち、神とともに一夜を過ごす聖なる乙女の信仰があった。中国の星祭りである乞巧奠(きこうでん)と、日本古来の棚機女(たなばたつめ)の信仰が習合して七夕の風習になったと伝えられる。

六日の夜には、五色の短冊に歌や字を書いて竹に結び、手芸や習い事の上達を祈り、七日には川に流して七夕送りをした。

神が降臨される聖域として竹で依り代を作るのは神事でおなじみである。最近では竹炭にして水の浄化に役立てるなど、その機能が注目されている。

新潟大学の大熊孝教授は、川と人との関係についてこう表現する。
「川とは、地球における水循環と物質循環の担い手であるとともに、人間にとって身近な自然であり、恵みと災いという矛盾のなかに、ゆっくりと時間をかけて地域文化を育んできた存在である」

日本の伝統的な水利用を研究している下関大学の坂本紘二教授は、棚田や竹林は「時間的に変化する水量を空間的な広がりの中に貯え、自然の変動のリズムに対応しようとして生み出された」という。人が竹林を築く。すると川がそれを崩そうとする。川の流れの変遷や社会条件の変化に伴い、営々と続けられてきた人と川との営みの過程が竹林に刷り込まれている。

密生した竹林に分け入り、踏み跡をたどると、延命地蔵と彫られたお地蔵様があった。水難防止への祈りが刻まれているのだろうか。

時間とともに老朽化する鉄やコンクリートとは違い、竹林は適切に手入れをしていくと、何百年も世代交代しながら再生する。それは、いのちが循環する生きた堤防である。

日本最大規模といわれる吉野川中流域の竹林は、洪水の脅威から逃れようとした先人の知恵であり、ヒトが自然に寄り添いながら生きてきた歴史であり、地域の人が持続的に水を管理しながらつくられた究極の近自然河川工法である。しかし、化学染料の普及とともに人々は川から離れ、竹林は顧みられなくなった。現在ではあちらこちらで伐り払われようとしている。

竹林は何を映し出し、私たちは竹林を通して未来に何を見ようとしているのだろうか。

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