恋愛と辞書
髪をかき上げる仕草が気になる。笑ったときに目がかわいい。首もとが白くてすっきりしている。あの髪が風に吹かれるとどんな感じだろうな。素肌に触れてみたいな。

気になる女性がいるとする。どう伝えようか、どこから告白しようかと思うけれど、相手はまるで気付いていないとする。

(これは有名なエピソードだけど)突っ込んだ解釈で知られる三省堂「新明解国語辞典」(第5版)で【恋愛】を引くと、
「特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと」。
それに対して「広辞苑」では、
「男女が互いにこいしたうこと。またはその心情。こい」。

博物館や象牙の塔にとどまる国語と、現代を生きる情感を思い切って打ち出した国語の違いがある。広辞苑の語義では、恋愛が社会契約のように安定した関係に見えてくるが、新明解では、移ろいやすくはかなくそれだけに燃える心の動きさえ見えてくる。

政治も経済も芸術も国語もすべて人の幸福のためにあるはず。辞書はもちろん言葉を定義したに過ぎず、それが実生活を縛るものではない。辞書は行儀よくしなければならないと考える人は広辞苑でいい。けれどただ正確な表現をすることが目的になってしまってはいないだろうか(その正確さという点でも広辞苑に疑問を抱く人は少なくない。ぼくも大辞林を使っている)。底流を貫く哲学、理念が見えないのはいいことなのだろうか。逆に言うと、ためにならなくてもいい。誰のためとか何のためとかでなく、無目的に自らを思うままに表現したっていい。

ぼくの名刺の裏には「感じること、表現すること、行動すること」と書いてある。そうはいうもの、楽しくもどきどきしながら何もできない片思い。

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