シャッターが降りる音ではっと我に返る
写真は撮った本人が癒される

 カメラを持っていると、我を忘れることがある。そして自分か押したシャッターの音で我に帰る。そんなときの写真は被写体に同化したかのよう。撮った本人が癒されてしまう。

カメラは古いのを使っている

 ミノルタの最後のマニュアル機のX700を10数年使っている。このカメラは1981年から17年にわたって製造されたモデルである。レンズは、望遠以外はすべて単焦点レンズのNewMDレンズ。これを買うときに、ニコン(F3かFE2)と迷った。ニコンは堅牢でもちろん悪くなかったが、名機F3はファインダーが暗くざらついている。ファインダーを通して見る映像を直感的に切り取るぼくにはためらわれる要素である。FE2はこの時点で製造中止となっていたと思われるが、指針式の絞り優先とマニュアルの実用機で悪くないと思った。でもぼくは報道カメラマンではない。ニコンというと写真を撮るぞという構えた印象がある。

 キャノンは、レンズの抜けはいいものの浅く派手な発色で、しかも多機能なボディーの操作性は、ぼくの琴線に触れなかった。カメラ小僧向けの機械という印象が今でも払拭できない。

ミノルタの話

 ミノルタに決めたのは、当時現役機であったX700のファインダーを覗いたときに、明るくしかもピントの山が合わせやすいこと、徳島出身で「楽園」でデビューした三好和義氏や篠山紀信氏が当時このカメラを使っていたことから決めた。それ以前にも、ミノルタハイマチックEという使いやすいオートカメラを使っていた。
 ぼくはなぜかライツミノルタCLを持っている。ライカとミノルタが提携した距離計連動のカメラである。機械シャッターの軽やかな音と感触、40ミリF2レンズの階調表現は絵画のように美しくこれで写したスライド原版を4倍の光学ルーペで覗いてうっとりしたものだ。しかもこのカメラの程度は極上である。うわさを聞いて、手に入れたいというご希望を少なからずいただいたことがある。
 
素人でも仕事で写真を撮る

 全国誌の依頼でときどき仕事として写真を撮る。それは、予算的に東京からカメラマンを四国に派遣できないとき。土地勘があり(ロケハン不要)、交通費が節約でき(取材費節約)、しかも報道タッチから散文調まで自在に文章がかけるとして重宝がられているのだと思う。自分の撮った見開き写真やキャプションが全国に紹介されるのはうれしい。他人の振りして本屋の店頭で眺める。

 未だにX700を使っているが、オートフォーカスには食指が動かない。かといって、いまさら他社のマニュアル機というのも気が重い。強いていれば、ミノルタのかつての名機XDが欲しい。当時買おうとしたときには、もう新品は手に入らなくなっていた。
 このカメラには、ライカとの提携によるノウハウが注ぎ込まれている。とりわけシャッター音が静かで響きがいい。そしてなめらかなシャッターを巻く感触、クロームの品があるデザインによる金属ボディーの質感、ピントをあわせやすいスクリーンなど、今でも優れた製品だと思う。ミノルタが創業○○年記念に復刻してくれたらどんなにうれしいだろう。わざわざ中古を探しに東京へ行く気にはならないが、程度のいい品物が入手できるならご連絡いただければと思う。

 X700の良さは、視野率が高くかつ倍率の高い明るいファインダーであり、小型ボディのまとまりの良さである。オートフォーカス機と違うのは電池の寿命。数年は持つので交換を忘れるぐらい。横走りの布シャッターという簡単な構造なのでシャッター機構の安定性、信頼性は高いが、最高速は1/1000秒にとどまる。しかし普通に写真を撮るのに1/8000秒の必然性は薄いのでこれで充分。

 ミノルタのレンズは、キャノンのような抜けの良さはないが暖色系の絵のような写り方をする。ニッコールはそれほど嫌いではない。カリカリシャープな描写というのは今のニッコールには当てはまらない。とりわけ85ミリレンズなどは雰囲気のある写り方をすると聞く。今ボディーを買うならF100だろうが、買い換えるほどの決断はつかない。それほどX700が手になじんだからだろうと思う。
 パソコンなどのハイテク機と違って、レンズは基本設計さえよければ、半世紀前のものでも通用する。実際は、コーティングや非球面研磨技術などの進歩でやはり最新のレンズ設計に分があるけれど、逆にコンパクト化によって失われた要素もあるように思う。ぼくの使っているNewMDはコンパクト型で大きさは今のレンズとほとんど差異はない。
 よく使うのは、28ミリと50ミリ、人を撮るのに85ミリの単焦点の明るいレンズ。肉眼とファンダー視野は別世界だ。だから明るいファインダー、明るいレンズが必要なのだ。ぼくにとって写真を撮ることは、趣味(作品づくり)というよりも、生きている時間と空間(変わりゆく人や場面)を記録しておきたいから。ファインダーから見える光景はその接点というか入り口である。レンズの効果(超広角や超望遠などのレンズの作用)はなるべく抑えたい。撮りたいものは、川と女性。川に女性がいるなんてそれだけでうれしくなる。

捨てがたい「押すだけ」カメラ

 もう1台、捨てがたいカメラがある。それは、かつてキョーセラから発売されたスリムT(色アースカラー)という小型カメラ。7年前に2万円で買った。このカメラにはカールツァイスのテッサー35ミリF3.5が付いている。カメラの存在感を感じさせないデザインなので小さな子どもを撮っても威圧感を与えない。描写は、学生の頃にサブに使っていたミノルタハイマチックEに似ている。一眼レフのズームで写したのと違うのはネガプリントからもわかる。柔らかく立体感があり、誰に見せても見映えのする写真がさりげなく撮れるのは、さすが百年近い歴史を持つテッサーである。残念ながらこれも製造中止。カメラの経験が浅い友人たちには、デジカメを買うよりもこれの中古を探してみてはと煽っている。スリムTの後継に当たるTプルーフという型番が入手しやすいだろう。

五感がひらめいて

 別に古いカメラに興味があるわけではない。ただぼくの写真の撮り方が被写体に共感してシャッターを押すので、その時間を大切にしたいだけ。
 標準レンズで2メートル先の対象物に何かを感じたとき、(場面ごとに無限遠にピントを置き直すので)カメラを構えたときにはピントリングに触れた左手の曲がった親指が自然に伸びて(つまりピントリングが2センチ弱半時計方向に廻る)、2メートルにほぼ合っているという感覚。このわずかな時間を無意識の動作のなかに、五感で被写体との空気感じながら絞り値とシャッター速度を確認してシャッターを落とすという動作。だからカメラに任せっきりにせず、指を無意識に動かすことは大切。オートフォーカスカメラの効率の良さは合理的で納得するけれど、ぼくの写真の撮り方とは違うような気がしている。
 写真は楽しい。それも結果でなく過程。

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