海部川、川の時間
 毎日川を見にくる地元の人、清冽な水を求めて都会から移り住んだ若者、ここを拠点に作品を発信する芸術家、天然アユの香に引き寄せられる釣り師たち。さまざまな人たちの思いを集めて海に注ぐ河口には、4キロにわたる白砂青松の大里海岸があり、生美の浜とともに「いい波」が立つ。

 湧き水が藻をなびかせる支流母川(ははがわ)もいい。湿地をくぐり抜けた水が、オオウナギの棲むせりわり岩の辺りで川幅を広げると、碧色の淵が山水画の佇まいを見せる。

 年降雨量が三千ミリを越え、平均気温が一六度以上の海部川上流の山間部には、ニホンカモシカ、サル、イノシシが生息する。ひとたび雨が降ると、王餘魚(かれい)谷の轟(とどろき)の滝には飛沫で近づけない。川沿いにわずかに開けた土地に水田と集落が点在し、海まであとわずかというところでさえ、アメゴが棲んでいると地元の人が教えてくれた。

 初秋の一日、川遊びをしていたら、思いがけない生き物を見かけた。一瞬目を疑ったが、青や黄色の小さなスプーンのような熱帯魚の群れ。海から迷い込んだのだろうか。黒潮に乗って運ばれ、故郷に帰ることも日本の冬を越すこともできない南の海の魚たち…。

 四国の海がもっとも快適なのは、九月から十月にかけてである。真夏の暴力的な陽射しはなく、渚は静けさを取り戻す。水の透明度は格段に上がり、クラゲは岸を離れる。依然として水温は高い。気温が凌ぎやすくなるため、むしろ水を温かく感じる。夏の名残をとどめた九月の風に吹かれて、ほんのり秋の隣の晩夏に浸る。

 日焼けした腕を沢に浸す。ぽたぽたと雫が落ちる腕からは、西瓜の匂いがした。山からの湧き水は夏でも冷たい。沢が流れ込む水際に川海苔が生えている。

  ゆらゆらりゆれゆらら────────

 葉っぱが一枚、また一枚流れてきた。流れに飲み込まれる葉っぱもあれば、流れに逆らおうとして沈んでいく葉っぱもある。流れに身も任せながらも自分で流れを選んでいるようにみえる葉っぱもある。
 川は変わることなく、空からの贈り物をせっせと海に運んでいる。何も減らさず、何も付けくわえず…。

 せせらぎに耳を澄ませば、やわらかなヤ行の音が聴こえる。

  やあろよろ よろやろよろ やろんよろ

 生命の活動によって生じるさまざまな背景音が潮が引くようにやんでしまう。風も止まる。その静けさを縫って、厭世観を感じさせる蜩の声が響きわたる。

  かなかなかなかなかな
  ずぃじぃずぃじぃでぃじいぇ

 草むらで突然思い出したように鳴く、擦り切れる虫の声。

  ちょんぎいす ぎっちょ すいっちょん

 河鹿の鳴く声が川面に木霊し、星がひとつふたつ輝きはじめる頃、水面のきらめきが溶暗していく。音のない水紋が立つ夕暮れ、河童が遊ぶ川の時間…。

 夜になると、テナガエビが深みから這いだしてくる。浅瀬をヘッドランプで照らすとエビの目がオレンジに光るのだが、慣れてくると体の方が見えるようになる。ここにいそうだ、と思うとそこにいる。先入観を持って見つけるのがこつである。見つけたら周囲に気を配りながら、小さなエビタマを尻尾からかぶせ、網の上から指で胴体をつかむ。長い手をふりかざしてなかなか網から出ないこともある。夜の闖入者に驚いたモクズガニが川底を移動していく。赤腹のドジョウは玉砂利に体をくねらせている。

 灯に照らされた水底は、波がなければ水があることさえ忘れてしまう。川の流れは一定に見えて実は小刻みに上下し、一団の水塊が川を走っていく。底の石ころが見えたり見えなかったりするのはそのためである。昼間わからなかった川底を滑っていく透明な水の存在に感動する。いつ見てもこのときめきは薄れない。

 対岸の山から木の枝の折れる音と猿の遠吠え。流木を集めた焚き火は火の粉を舞い上げ、燃えたくない竹は火に抵抗して獅子脅しとなる。
「あっ流れた!」
流れ星がひとつ、ふたつ──。

  ひたひたと天の川は夏の空にたゆたい、すうっと星が流れる夜の献立は、山菜とドンコのみそ汁にテナガエビの塩ゆで、川海苔をまぶした炊き立てのご飯、そして笹をあぶったお茶。

 焚き火は風に煽られて燃え盛るが、やがて火の勢いが衰える。流木を投入する。黒い瞳に焚き火が瞬いている。炎のゆらぎを見ているとだんだん無口になり、火の向こうに素顔が現れる。暗闇にそこだけ灯る空間、その数光年先には星夜がある。焚き火をぼんやり眺めながら、麦酒でまどろんでいるうちに眠りに落ちた。

 パチッパチ ザクッ
 夏はいつか終わる…

 川のほとりで夢を見ていた。朝になればうるさいほどの小鳥のさえずりがあることさえ知らずに。


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