美童しまうた

歌唱力で迫る歌手の声を聴いていると、オペラのような声の伸びや圧倒する迫力には感心しても心に響いてこない(ハンバーガーやビフテキで食傷したような感覚)。日本語がはっきりと聞き取れないときもある。生身の声を放棄して歌う兵器になったみたいだ。

歌が上手な人には艶がある。それは、媚びと紙一重のときもある。沖縄の歌者たちに共通するのは声が引き締まっていること。艶はあっても凛としている。そこに民謡の節回しが少し加わる。名門の歌者の家に生まれた神谷千尋の歌手としての活動は3歳に始まったらしい。

歌うことの自然さ。それは、沖縄の歌者たちが(意識しようとしまいと)宿命のような「歌うことの使命感」を背負っているからではないか。生きることの根っこと結びついたとでも言おうか。神谷千尋も歌手としての表現よりも楽曲の心を信じ、我を忘れて没入する瞬間がある。

神谷千尋のアルバム「美童しまうた」を聴いてみよう。「さがり花」のはかなさ、「星ん月ん静かに…」と歌うときの祈りのような独白。「美童しまうた」の百年前と変わらぬ恋歌、「わらび時分」のはしゃぐような言葉のハネ、「空と海よ花よ太陽よ」の沖縄を見つめるまなざしへの問いかけ、鎮魂歌から平和への祈りへ昇華されて彼女自身が歌と同化する。

美しい日本語は沖縄(先島諸島も含む)の言葉のなかにひっそりと生きていて、それに沖縄の風味を加えながら言葉を結晶化させているのが現代沖縄の作家たちかもしれない。太陽や月、星や雲、そしてたくさんの生き物。空と海に近いところで暮らす人たちの感性。たゆたう日本語の語感を歌で聴きたいときには沖縄の歌にしかないのだろうか。

「里ゆらり」のなかに、そんな沖縄のやさしい心が織り込まれている。メッセージは控えめだけれど、このアルバム全体を通してのキーワードは「願い」かもしれない。

いまの沖縄には毛遊び(もあしび)という習慣はないが、21歳の女性の「美童しまうた」という実在は感じられる。ぱっと聴いて、「あ、いいな」という音楽はすぐに飽きるけれど、このアルバムを何度も聴いていると、生地に紛れて織り込まれた紋様が、聞き手の心の緩みとともに波に洗われるように浮かび上がっていく。

 「美童しまうた」 神谷千尋
 「美ら島物語」のインタビュー



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