辞書が拡げる世界、言葉を映し出す辞書
普段から新聞を読むときに、その表現や送りがなに無意識のうちに注意を払っている。例えば、新聞では「子供」とは表記しない。「子ども」である。「経営が破綻した…」ではなく、「経営が破たんした…」である。「お願い致します」なら「お願いいたします」。「〜して下さい」は「〜してください」。「時には…」ではなく「ときには…」となる。

これらをまとめたのが共同通信社が発刊している「記者ハンドブック」である。実はぼくは持っていないのだが、マスコミの表現を意識的に眺めていれば、ハンドブックを読まなくても体得できる。

これは表記の問題に過ぎないが、微妙な日本語の意味をもっと知りたいと思う。そこで久しぶりに紙の辞書を買った。それは、昨年末に発刊された大修館の明鏡国語辞典である。

普段は、大辞林(第二版)の的を射た注釈を標準的な辞書として使っている。ただ分厚い冊子体では、おっくうになって引く頻度が下がってしまうから、CD-ROM版を購入してハードディスクにインストールして使っている。これは快適だ。

国語といえば、広辞苑と思う人もいるかもしれないが、識者には広辞苑の評判が良くない。またわかりやすさを求める人たちにも不評のようだ。たいして学のないうちの母も広辞苑を引いて「わかりにくい」 と言う。広辞苑(第五版)は、二十三万語を収録しているが、そのうち四万語が古語、十二万語が百科語で、通常的な言葉は七万語程度とされる。だから日常語は、新明解や三省堂国語などの辞書と変わらない。

三省堂の新明解国語辞典が売れているのは、語義の説明に熱意が感じられるという独自性が評価されたものだろうし、三省堂国語辞典が評価されているのも単に新しい言葉を先駆けて取り入れただけではなく、当初からこの辞書にかかわった見坊豪紀氏の生涯をかけたワードハンティングとその吟味の成果だろう。「三国」はマスコミ関係者のひとつの基準となっているようだ。ただしひとつの辞書がすべてを満たすことはない。用途、目的に応じて最適の辞書が決まるし、好みで選んでもいいと思う。なぜなら辞書は時代を映し出すものだから。

言葉はあいまいで多様性があり、しかも人によって少しずつ受け止め方が違う。地域や場面の違いで、あるいは時代の流れで動いていく生き物。だから完璧な辞書などありえない。しかしそのことが辞書の限界を示すのではなく、言葉の躍動感として捉えたい。

冊子体の辞書は引きやすくなければ買いたくない。もっとも引きやすいのは感覚的に三省堂国語辞典と思う。なにかしら手にしっくり来て、次々と語を引いてみたくなる雰囲気がある。二色刷の画面は明るくすっきりと見やすい。個人的にもっとも使用頻度が多いのは、この辞書である。

小型なのに見やすくすっきりしていてついつい手が伸びる。そんな五感に訴える国語辞典。長年本書編集の主幹を務めた見坊氏の「ことばの海をゆく」(朝日選書)を読むと、生涯をかけて言葉を集め吟味された静かな凄みに感動を覚える。

三省堂国語は、新しい言葉に対する感度が高い辞書とされているが、最新版の第五版では、ここ数年マスコミに頻繁に登場している「住民投票」「住民参加」などの暮らしに密着した今日的な単語が収録されていないのは意外(「明鏡」国語には収録されている)。さらに「民意」を「国民の意思」と解釈しているが、用例「---を問う」を地域主権の時代に照らせばどんぴしゃと捉えきれていない。この「民意」については、大辞林や明鏡も同程度の解釈にとどまっている。

とはいえ、マスコミ関係者がひとつの基準とする本辞書の完成度は高い。徹底的に活用して時代を映し出した国語の姿を味わえれば2,500円はあまりに安い。


条件を付けた複雑な検索や辞書間で次々と飛び移っていく芸当は電子辞書の独壇場だ。残念ながら、ほとんどの辞書が国語辞典として広辞苑を搭載している。そんななかでセイコーの新機種SRT-4020が新明解を載せていて操作しやすくデザインもいい。手頃な価格を考えれば、現在もっとも実用的な電子辞書と言えるのではないか。

明鏡国語辞典は、国語辞典の新参者といえる大修館が昨年末に発刊したものだが、単語の意味を調べる辞書から、単語が使われる条件やその可能性と限界に言及したものではないかと思う。辞書の帯には「ボールを打つ」と「ホームランを打つ」における「打つ」の違いが分かると印刷されている。「明鏡」という言葉の響きもどこか硬質であるが澄み切った境地を感じさせるいい名称だと思う。

明鏡は、読む辞書、調べる辞書から、自分が文章を書く際に意識して使い分けよう、知ったうえで表現しようとする際に使う辞書であり、コミュニケーションを意識した設計である。それがIT時代においてももっとも大切な要素と思うぼくにとっては、いい時期に出してくれたと思う。

同じように、発信する英語ということで、学習現場で絶大の支持を得ているのが、同じ大修館のジーニアス英和辞典である。新参の辞書であったが、研究社英和中辞典に代わってこの十数年で揺るがない地位を築いた。これに対抗して三省堂が2003年当初に世に問うたのが、ウィズダム英和辞典である。書店で見たところ、読み物として読みたくなるような用例、新鮮な(というか日常的に使われている)語句や表現が豊富だ。しかも見やすい。コーパスと呼ばれる言葉のデータベースを元につくられた最新の研究成果が生きている。

英語は、冊子体よりも、電子辞書が断然引きやすいので発売されればぜひ買いたいと思っている。世界とのつながりを実感するために英語との接触は欠かしたくない。英語が使いこなせないとなれば、酸素のない地球に生きるみたいなものかなとも思う。

自分の国の言葉にもっと関心を持ちたい。もっと表現したい。そう思ったときに辞書がある。考えてみると辞書は安い。編者が生涯をかけて集め吟味し分類した言葉の規範が3千円前後で手に入るのだから。だからもっと徹底活用してみたい。わからないことを調べたり、誤りをしないために使うだけではなく、伝えたいことを伝えきるための道具として辞書は存在する。

このところ寝る前に、万年筆(セーラープロフィット)とノートを持ちこんで、夏川りみ(「空の風景1空の風景2)を聴きながらペンを走らすことが多い。もちろん手元には辞書がある。これ以上ないぐらいの贅沢を感じながらも、やがて夢のなかへ。

(ひとりごと)
夏川りみのシングル「道しるべ」の歌詞の一部分がひっかかる。「ふっくらなほっぺた…」というところ。「ふっくら」が(状態)副詞、連用修飾語なので、そのまま「ほっぺた」を修飾できないはず。 

男には考えつかない語法かもしれない。「ふっくらなほっぺた」は、若い乙女の赤く染めたほっぺたみたい。詩人の金子みすずもそんな使い方をしていた。心に残る言葉のひとつだと思う。


ただしレポーターのような人でも最近は頻繁に使うようになった「全然すごい」なんて言葉には少しもときめかない。明治の頃は、「とても」は否定的用法に使っていたとか。「とても良い」なんて使わなかったらしい。それが今では肯定的に使うことが普通になった。時代とともに言葉は変わっていくものといえはそれまでだけど。

(2003年5月21日)

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