ベートーヴェンと射手座
二十代の頃、ぼくはベートーヴェンに夢中になった。5月の陽光を受けた午前中は、田園交響曲や初期から中期のさわやかなピアノソナタ。まるでご機嫌伺いに部屋を訪れた初夏の風そのもの。

フルトヴェングラーのレコードに合わせて指揮の振り付けをする。それは誰でもないぼく自身が生きるために必要な儀式であり、日課だった。

「苦悩を突き抜けて歓喜へ」。それは自らの生命が尽きる寸前のところで、自らを照らす灯りを見出し、真の喜びへとたどりついた感性のみが知ることができる。

将来に見える灯り、それは見えるのではなく、見ようとする意思の力がまなこに映す光。ぼくは、ベートーヴェンに出会わなければ、土に還っていたかもしれない。そのレコードをかけながら、いつかは自分が指揮をするんだと固く誓った。ベートーヴェンが胸の奥深くで鳴り響き、射手座の白い光がぼくを包み込んだ感覚を経験した(この体験はぼくに小説「空と海」を書かせているよ)。

ところが、当代一流といわれる指揮者のレコードを聞いても感動しない。「これはなにかが違う、偽物だ」。ぼくの直感は間違っていない。ベートーヴェンの音楽に感動するのは誰もが同じだが、それを表現しようとするとき、作曲者と同じ魂、同じ精神の高さにまでたどり着かなければ決して伝えられるはずがないではないか。大切なのはそこに至る過程。

ぼくは川が好きだ。だから川がこわされようとするとき、自分の天命だと感じて吉野川第十堰に夢中になった(実はベートーヴェンが生まれた頃につくられた石積みの堰)。あまりの多忙さに仕事を数年間辞めていたぐらいだ。それでも朝から深夜までありとあらゆる活動をしていた。権力による不正を見逃すことはぼくにはできない。もちろん嫌がらせがなかったとは言わない。クルマのタイヤはときどきパンクした。でも、自分が大好きなものが理不尽に破壊されるのを黙って見過ごすぐらいなら、好きなものを守れないなら、生きていないほうがいい。サラリーマン生活ではとても味わえないわくわくするような楽しい時間だった。だからこそ、徳島では民主主義を自分たちの手で創りだしていこうとする動きに多くの人が共感した。

星座に詳しい人なら、射手座生まれがどんな感性を持っているかわかるという。まっすぐに突き進む情熱、決して不正を許さない法の番人のような正義感、目的を遂げるためにすべてをかける熱中性、語学が得意で芸術の領域で深く共感する、スピードと変化を好み、賢者ケンタウロスの知性と愛の大神ゼウスのようなおおらかな愛情表現。徹底的に表現しようとする大胆さの反面、内気で照れ屋。

実は、ベートーヴェンは12月16日の生まれ、ぼくは12月18日の生まれ。しかも太陽が昇るときに生まれたから射手座の射手座(アセンダント)なのだ。

こうなれば、自分でオーケストラを振るしかない。こうして(いつものように独学で)指揮の勉強を始めた。始めたらからには、これで死んだら本望だと思って打ち込んだ。あまりに激しい練習のため、折れるはずのない指揮棒が何本も折れた。それは空気を切って摩擦し続けたから。休むことをさせない上半身の筋肉は硬直化した。スコア(総譜)には、感じたままにびっしりと言葉を書き込んでいた。こうしてぼくとベートーヴェンの共作による交響曲が世に出ることを楽しみに生きていた。

ベートーヴェンといえば、大作というイメージがあるが、実は小品もすばらしい。モーツァルトの音楽には東洋のわびさび的な趣が感じられるが(それが21世紀にも感動を与えるモーツァルトの魅力だと思うのだけど)、ベートーヴェンの小品には、モーツァルトとは違う土の香りの愉悦感が閉じこめられている。五月の薫風に誘われて窓を開けるように、自然のなかで喜びを感じる感性の人にはごく身近に感じられるもの。ほら、第九のなかには花園も乙女もいる。そして神様が降りてきているじゃない。わかるでしょ。

音楽だけでは飽き足らない。ベートーヴェンがいかにすばらしいかを書いたノートは何冊にもなってしまったけど、ぼくの青春譜だから封印しておこう。

ぼくのように、一人で何もかもやってしまう(仕事勉強趣味家事なんでも自己完結独学型)人間には、結婚など程遠い世界だけれど、たったひとつだけ決めていることがある。それは、自分の結婚式に英雄交響曲を指揮すること(幸か不幸かまだその機会はないのだけれど)。友人たちは言う。「ベートーヴェンと川が好きな女性なんていないよ」「星を見て心を動かされ、歌をうたうことに喜びを感じる女性を探すつもり?」「英語を話し、経営学に詳しい女性とともに歩もうなんて考えていない?」「少女のように初々しく天衣無縫で頭の良い女性で気配りがあるやさしい女性? 楽園のなかでだったら見つかるわよ」。

確かにそう。でもこれだけは言わせてもらうけど、現実逃避して束の間の甘い雰囲気に浸ることが癒しではないよ。現実と理想を区別する人生なんて楽しい? 昨日と違う今日、今日と違う明日だから生きてみたいと思えるんじゃない?

ひたむきに生きて結果はどうであれ気にしない。苦しいことつらいことがあっても、歯を食いしばって笑顔で切り開いていく人生にこそほんとうの癒しがあるはず。しかもその癒しの力は自分を癒すのみならず、きっと周囲の人たちに感化を与えているはずだよ。

そうそう、思い出した。きょうは誕生日だったっけ。いつも忘れている。




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